11、事故
月曜。
7時30分、玄関が開かれてまだ間もない頃だった。
学習室は早くも静かなうちに集中して学習しようという3年生たちが十数人、席についていた。
ガッシャーン、という派手な音にビクッと振り向いた彼らは、一人の女子生徒が仰向けに倒れていくのを見た。音を立てて椅子から立ち上がった3年生たちは、女子生徒の手足がびくびく痙攣し、突き刺さったナイフのようなガラス片の下からピューピュー噴き出す真っ赤な血を見た。
図書館の戸のガラスが1枚、砕けて無くなっていた。破片は床に散らばり、女子生徒の体に突き刺さっている。
3年生たちの中には女子もいたが、悲鳴は上がらなかった。皆真っ青な顔をして、一瞬の間を置いて、前の方の席にいた者は女子生徒に駆け寄り、後ろの方にいた生徒は教務室向かって駆け出した。
女子生徒の周りに駆け寄った3年たちは、「おい、しっかりしろ」と声をかけてみたものの、それ以外手の施しようがなかった。突き刺さったガラス片は全身に及び、血の噴き出す傷口からそれを抜くのも出血を早めてしまうだろうし、しかしその血の勢いは目に見えて衰えていった。
手足の痙攣が収まっていき、3年生たちは、女子生徒が死んでいくのを無力に見守るしかなかった。
4時間目の授業が終わると、2年C組の教室には担任がやってきて、万里希未子の死亡を伝えた。救急車が病院へ急送したが、そこで彼女の死が確認された。
教室では数名の女子生徒のすすり泣く声が聞かれた。
それは多分、日頃見知ったクラスメートが突然死んだというショックに依るものだっただろう。
登校してきた万里希未子は図書委員の当番で図書館の戸の鍵を開け戸を開こうとして、木製で老朽化の進んでいた戸がレールに引っかかり、ガタンと揺れた拍子に、これまた老朽化の進んでいたガラス…真ん中を横板に挟まれ木の枠に挟まった一枚ガラスが、縦方向の衝撃に砕け、どういう力学が働いたか不明だが、破片が手前に勢いよく飛んできて、万里の体に突き刺さり、彼女は出血多量のショックで死亡した。
そういう事故だったらしい。
当然のことながら図書館および学習室は閉鎖され、警察の事故原因調査が終わってからも閉鎖は続き、図書館入り口の戸及び窓ガラスは全て新しい物に入れ替える工事がされた。
図書館は週いっぱい閉鎖された。
その1週間、大翔は傍目にも分かるほどぼうっとして過ごした。
最近仲の良かった彼女が死んで相当ショックだったんだろうと、クラスメートたちは納得していた。
大翔がぼうっとしていたのは黒い本とのアクセスが切られたからだった。
だんだん頭の回転が鈍り、頭の中に白いもやがはびこり、すっかり元の馬鹿に戻ってしまった。
梅貝のように黒い本の魔力が断たれたら自分がどうなってしまうか、如実に思い知らされた。
黒い本を読みたい、触れたい、という思いが強くなり、手がブルブル震える禁断症状まで現れた。
黒い本が読めなくなった影響は、大翔本人以外にも現れた。
図書館の読書クラブがなくなったので珠桜と一緒に過ごすことがなくなったが、たまたま廊下で見かけても彼女は、はっと、ばつの悪そうな顔をして大翔から目をそらした。
貴代美も以前のツンツンお嬢様に戻って、教室で大翔に話しかけたり、目を合わせることさえまったくしようとしなかった。たまに大翔の方から視線を向けると、怒ったような冷たい顔であからさまに無視した。
黒い本の魔力が切れて、大翔のモテ期も終わってしまったようだ。
それにしても万里は何故殺されたのだろう?
鈍い頭でもそれくらいは分かった。万里は黒い本に殺されたのだ。
おそらく、自分をぴったりマークして、黒い本を読むのを妨害していたからだろう。
万里は珠桜や貴代美とは違う、ただのお邪魔虫だ。
このまま自分が「神曲」を読み進めれば、本大好きの万里のことだ、いずれあれこれと感想を聞こうとしただろう。そうなれば自分がぼろを出すのは明白だ。その前に黒い本が魔力を発動して消してくれたのだろう。
黒い本の禁断症状に苛立った大翔は万里に借りた文庫版「神曲」を読みふけることで自分を落ち着かせた。
馬鹿な頭に内容はちっとも入ってこず、分厚い本にうんざりした大翔は、子供のようにパラパラと先のページをめくってみた。
第2巻「煉獄篇」もパラパラやってみて、すると、1枚のメモが挟まっているのを見つけた。文庫本より一回り小さい、電話台なんかに置いてあるメモ帳からはぎ取ったような白い薄い紙だ。
それは万里の書いたポエムのような物だった。
知性が女を美しく見せるなら
わたしはうんと賢い女になりたい
そしていつかあなたが人生の闇に迷うことがあったら
あなたを光へ導く道標になりたい
「神曲」の「天国篇」でダンテを案内する永遠の淑女ベアトリーチェに影響されて思いついたポエムだろう。実際「煉獄篇」の最後、煉獄山の頂上でベアトリーチェが登場するページに挟まっていた。
きっと書いたのはこれを読んだ、けっこう前のことで、うかつにもすっかり忘れたまま貸してしまったのだろう。
大翔は暗く笑った。
知性が女を美しく見せるなら、か。
あの万里もやっぱり女の子らしく自分を美しく見せたいと、自分なりに考えていたんだろうと思うと、可笑しくも、哀れに感じた。
賢い女なんかに誰が惚れるってんだ?
劣等感を刺激されて、むかつくだけだろうが。
「神曲」に飽きた大翔はラヴクラフトのクトゥルフ神話も1つ、図書館で読んでみた。図書館は学校の図書館ではなく、日曜日に自転車で出かけていった県立図書館だ。
ハードカバーで6巻の全集(以下評論集や書簡集が続くらしいが書架には出ておらず、小説集の6巻までが並んでいた)があったので、3巻の、例の邪神「クトゥルフ」が登場する「クトゥルフの呼び声」を読んだ。
図書カードを持っておらず、作るのも面倒なので閲覧用の机について読み、50ページほどの短編だったので閉館時刻までになんとか読み終わることが出来た。
「神曲」ほどではないが、いちいちご大層にもったいぶった文章で、とてもすらすら読めるといった代物ではなく、少々退屈してしまったが、さすがに「ものすごい物が現れる(現れた)」という迫力は感じ、まあまあ面白かった。ただ、他の作品を読もうという気にまではならなかった。
ついでに「神曲」を探して見てみると、学校の図書館に置いてあるのと同じ世界文学全集で、その第1巻「ダンテ 神曲」を、
(俺はこれを読んでいたわけだ)
と開いて拾い読みしてみると、顔から血の気が引いてめまいがした。
やっぱり馬鹿な自分が読むような物じゃあない。
これを真面目な顔をして読んでいる姿を見たら、クラスの奴らなんて『馬鹿が何かっこつけてんだ』と思い切り馬鹿にしたことだろう。
そして1週間が経って、月曜日、図書館は再開した。
入り口のドアはステンレスのフレームの物に変えられていた。
カウンターには花瓶に生けられた花が飾られ、当番の図書委員たちは黒い腕章をつけていた。誰よりも図書館の業務に貢献していた万里に対する当然の礼儀だろう。
そして、クラスの欠けた図書委員の代わりに、大翔は図書委員になった。




