1、黒い本
(くそ、あの特撮ヒーロー野郎め)
昼休み、図書館の奥で国生大翔はむかむかした胸の内で悪態をついた。
(俺が特撮ヒーローのお面みたいな顔してるって言ったのを誰かチクリやがったのか?)
大翔が『特撮ヒーロー野郎』と揶揄したのは数学の教師のことだった。色白でのっぺりした大きな顔面をしているのでそう思ったのだが、4時間目の授業で問題を当てられて黒板で解かされたが、いっしょに出てきた他の3人が解き終わっても大翔一人いつまでも解けず、イライラした教師が横からヒントを出し、それさえ理解できない大翔はけっきょく教師の言うまま答えを書かされて、
「君は授業をちゃんと受けているのかね? このくらい理解できていなくてはこれから先ついて来れないぞ?」
と説教されて席に返された。惨めに席に帰る大翔を見るクラスメートたちの目は冷ややかだった。
昼食の弁当は喉につかえ、胃が重く、しばらくは悪夢をみる日々が続きそうだ。
この藤堂学園高校は県内では知られた進学校だ。クラスには
「俺は東京の大学を卒業したら帰ってきて政治家になる」
と大まじめに宣言する奴がいて、それが普通に受け入れられている。大翔のように『この程度の」問題さえつかえている落ちこぼれの方がこの学校では異物なのだ。
(くそう、入る学校を間違えたぜ)
2年の2学期が始まって、切実にそう思っていた。まぐれで受かってしまって、ぼろが出てきた。
大翔にはもう自分の人生が50年先まで見えるような気がした。
(どうせ俺なんかおまえらエリート様たちのお世話になりながら社会の底辺を這いずって生きていくのが落ちだろうぜ。すまねえな)
すっかりいじけた気分になった大翔は、哲学者の崇高な思想に触れて人間存在のちっぽけさに慰めを得ようと、図書館の奥のこの薄暗いコーナーにやってきたのだった。
哲学書なんてまともに読んだ事はなかった。今も特にまじめに読もうというのではなく、単に気を紛らわせたいだけだった。
有名なのはニーチェかなと、ろくに思想も知らないで名前だけで探し始めた。
何種類か分厚い全集シリーズが並んでいる。
一般小説のように様々な字体やカラーで目を引こうという意欲の全くない小さな均一の文字のタイトルを眺めているだけでさっそく気分がなえてしまった。
もうちょっと敷居の低そうな本はないものかと、体を引いて本棚全体を眺め、インスピレーションに任せてパッと目を向けたのは、ベージュの文学全集のとなりに並んだ黒い本だった。
それは本当に真っ黒な本だった。
タイトルも何もない。
分厚いというほどではないがそこそこ厚い、つやのない、うっかりすると空いていると見逃してしまいそうな存在感の希薄な本だ。
何だこの本、と目を向けた大翔は、いや、と最初の印象を改めた。
存在感が希薄どころか、視線を吸い込むような、ブラックホールのような迫力を感じるではないか。
何の本だ?
お固い哲学書や歴史的な世界文学全集の中に、場違いと思えるスタイリッシュな真っ黒な本に俄然興味がわいた。
(黒魔術の本だったりしたら笑えるな)
そんな風に思いながら手を伸ばし、本の横表紙=背の上辺に指をかけたとたん、
「いてっ」
大翔はびくんとその指を跳ね上げた。
チクリと針で刺されたような痛みを感じた。
古い本でハードカバーの繊維がとげのように飛び出しているのかと、慎重に指を当て直してそうっと引き出した。
「なんだこれ?」
表紙を見てまた同じ事を思わざるを得なかった。
表紙も、向きが違うのかとひっくり返してみた裏表紙も、真っ黒で何も書かれていなかった。
これはさすがに狙い過ぎだろうと、今度こそ何の本か中身を開いてみると、驚いた事に、中のページも全て、つやのない真っ黒な紙だった。
なんなんだこれは、と大翔は顔をしかめて真っ黒なページをぱらぱら開いて眺めた。
これは例えば、「あなたの物語を自由に書いてください」と真っ白な本があったりする、そういう類の物なのだろうか? しかしそんな企画物の本が図書館に、お固い文学全集のコーナーに、あったりするだろうか?
誰かが外から持ち込んだ物かと思ったが、真っ黒な中に唯一図書館のラベルは貼られている。
何か仕掛け……一見真っ黒に見えるが光を当てると黒銀色のインクが光って見えるとかないかと思って目の上に掲げてあちこち角度を変えて眺めてみたが、真っ黒は真っ黒で、何も仕掛けらしい発見はできなかった。
なんだか本を持っている手がだるくなってきた。
気のせいだろうと思うのだが、かすかに骨に沁みるような変な痛みが感じられた。
まさかこの真っ黒な紙に毒でも染み込まされているのか、と怖くなった。
(触らぬ神に祟りなし。この場合は紙か)
答えのないクイズを放り出すように本をもとの場所に戻そうとした大翔だったが、何気なく見た黒い表紙が何かを訴えかけてきたように感じ、手が止まった。
どうせ50年先まで決まってしまった人生なんだろう?
そう、真っ黒な中で何者かが意地悪く笑ったように思えた。
なんなんだよ?
苛立たしく思った大翔は再び本を引っ張りだすと、自分を笑った物の正体を暴きだすように真っ黒な表紙を手で掃くように撫でた。
チリチリチリ、と、たくさんの細かなとげを触ってしまったみたいに痛みを感じて、慌てて手を跳ね上げた。
赤い文字が浮かんだ。
暗く光る文字は漢字だった。
表紙の中央に縦に、本のタイトルのようだった。
音玄能身久遠
6つの漢字。
「漢文か、漢詩の本か?」
どう読むのか分からなかったが、能=あたふ、の文字があるのでそう思った。
10秒ほどだろうか、暗く光っていた赤い文字は、電池が切れたように光が弱まり、消えてしまった。
(なんなんだ、これは)
皮膚にチリチリした痛みを感じながら手の腹で撫でると、再び文字は暗く光って浮かび上がった。
手詰まりになって先へ進めずにいたRPGで謎の一つを解き明かしたように、大翔の心に得意な気分がわき上がった。
この本がいったいなんなのか分からない、しかし、普通ではない世界の秘密を手に入れたように、特別の喜びが心を浮き立たせていた。