真夏の熱のこもる夜
夏の日差しは、香苗の足元に濃い影を落とす。
風もなく、じりじりと焼けるような暑さに街路樹の葉もぐったりと垂れ下がっている。
部屋の中は、クーラーをつければ、いくらでも涼しくなるけれど、外に出ないわけにはいかず、この暑さから逃れるすべは、季節が巡る以外にはない。
市立病院に産婦人科医師として勤務して二年、医師としては四年になり、この仕事のやりがいも、厳しさも身体に染み込んできている。
医局が並ぶ、二階の管理棟は薄暗く、暑さとは関係なくいつも、冷たい空気に包まれている。
香苗はスニーカーのゴム底をキュッキュッと鳴らして、廊下を進む。すれ違うのは、もちろん医師ばかり。その中には、会いたくない人もいて、なぜかそういう人には頻回に顔を合わせる。
いつものごとく、聞いてもいないこと、聞きたくもないことをわざわざ教えてくれる。しかも、丁寧に悲しそうな表情を作る。悪意のない善意ほど、疎ましいものはない、香苗は苦々しい思いが流れ出るのを押さえ、軽く会釈して、立ち去る。
『新山先生、またナースと噂になってますよ』
何度目になるだろうか?何度やめてほしいと言っただろうか?
後ろから指を指され、通りすぎるとひそひそと話し声が聞こえると、どんな気持ちになるか、暁人は考えたことがないのだろうか?
彼の優しさも弱さはもちろん、耳を触る癖があることも、パンよりもご飯が好きで、 カレーライスをぐちゃぐちゃに混ぜて食べる癖も、香苗は十分にわかっている。
それでも、暁人が他の女と会うことをやめさせることができない。
そして、そんな暁人と別れることもできない。
ーーなんで私は暁人が好きなんだろ?
六年経っても、答えが出せない。
日が沈み、夜の帳が降りてもなお、街は熱を孕んでいる。
病棟の懇親会を終え、店を後にする。
二次会のカラオケには、参加する気分になれず、職場のスタッフに挨拶を済ませ、駅に向かって歩き始める。
暁人の携帯に連絡をするも繋がらない。
タクシーを停めて、アパートに帰ればいいことはわかっていたが、通りすぎるタクシーには、『賃走』のランプ。
香苗はもう少し飲み足りない気持ちもあり、賃走のランプに背中を押され、目についたバーに足を向ける。
雑居ビルの細い階段を上がりスチールのドアを開けると、カウンターのみの小さな店。奥に二人の先客、香苗は手前のスツールに腰掛ける。
「マルガリータを」
携帯を手に、暁人に連絡しようと発信ボタンを手にかけて、やめた。そのまま、智哉を呼び出す。
[智哉?今、どこ?]
[なんだよ?]
[今、駅前で飲んでるの?付き合ってよ]
[お前は、俺を何だと思ってんだ。いつも急に呼び出しやがって、そんな暇じゃないんだ]
[うん、知ってる。ちょっとでいいからさ]
[……どこだよ]
智哉は香苗の誘いを断らない。
香苗はわかっていた。
学生の頃から智哉は、急な呼び出しに文句を言いながらも付き合っていた。
新山暁人、西口智哉、沼沢香苗、学生の時、席番が並んでいたために、親しくなり、三人で過ごす時間が多かった。一緒にレポートを書いたり、グループワークをしたり、食堂で長い時間、話し込んだりと、たくさんの思い出を共有している。
香苗が暁人に惹かれ、友人の関係を越えたのは、大学四年の頃だった。
暁人に特別な感情を抱くようになったときも、友人の関係を越えたときも、香苗の相談に乗ってくれるのは、いつも智哉だった。
智哉は特別な言葉をくれるわけでなく、思ったことを口にするだけだ、しかし、香苗は智哉と話すことで、自分の気付いていない感情を引き出すことができる。そして、智哉に話すことで、自分の意思を固めることができる、そう感じていた。
『新山先生、ナースと噂になってますよ』
いらない善意が香苗の心を乱す。
小さなカクテルのアルコールは、思った以上に強いとわかっていても、喉に流し込んでしまう。
肩を掴まれ、
顔をあげると、細いフレームのメガネの奥に気遣わしげな瞳が揺れていた。
「大丈夫か?飲み過ぎだろう?」
カウンターには、明らかにホッとした表情を浮かべるバーテンダー。
「べろべろになりやがって、なにやってんだよ。おいっ、帰るぞ」
立てるか、智哉の腕に寄りかかりスツールを降りる。
「うん、大丈夫。歩ける」足は思うようには動かない。ふわふわと揺れて、体が熱い。
智哉の腕を抱え込んで歩く、智哉の腕が香苗の腰を支える。
「こんな風に歩いてたら、噂になっちゃうね」
暁人はそう考えなかったのだろうか。
「ねぇ、暁人はどうして私以外の人と体を重ねてしまうの?どうして止めてくれないの?もう、イヤになっちゃったよ……」
頬を涙が伝う。一度、こぼれ始めた涙はとどまることなく、溢れてしまう。
智哉とタクシーに乗り、香苗のアパートについても、頬は濡れたままだった。
智哉にしがみつき、シャツを涙で濡らす。
そっと、まわされていた智哉の腕が、ぎゅっと香苗を締め付ける。
香苗の髪に智哉は顔を埋め「もう泣くな」耳元で囁く。
ゆっくりと腕の拘束が緩められ、智哉の唇が香苗の唇と重なった。
すぐに離れ、また重なり、少しずつ深くなっていく。
智哉が、そっとメガネを取り、真っ直ぐ見つめる瞳に自分が映る。
智哉の唇が、また重なる。そして唇から頬、耳元、首筋へと降りていく。
香苗は智哉を拒むことなく、受け入れた。
空が白み、日が登りきる前に香苗はメモを残してアパートを後にした。
『ありがとう。忘れて』
出勤にはずいぶん早いが、溜め込んだ事務仕事を片付ける、いい機会だと思った。
ベッドの中で、智哉の言葉を聞けば、香苗は最高の親友も、恋人も失ってしまうことがわかっていた。
シャワシャワと、蝉が鳴き始める。
まだ、夏は終わらない。