寒風の夜
お蔵入り予定だったはずの、
第2章、楽しんでいただけますように。
風の強い冷える夜。自宅の前に車が停まり、ドアが閉まる音、何か話す声が聞こえる。
新山香苗は寝室のベッドに横たわってその音を聞いていた。
横には自分とそっくりな小さな鼻と閉じられた目を持つ娘の胸が規則正しいリズムで上下に動くのを見ていた。
香苗はゆっくりと体を起こし、自分とは違うぽってりとした丸い耳に唇を寄せる。
カーディガンを羽織り、寝室から出て行くと、ちょうど、インターフォンが鳴る。
「はーい」
玄関のドアを開けると、冷たい風と一緒に強烈なアルコール臭が鼻を付く。
大きな肩に乗せられて引きずられるように帰宅した夫、暁人は、ごろりとマットの上に横たえられた。足腰は全く役に立たないようだ。
「ありがとう。智哉、久しぶりだね」
暁人を運んできた大きな背中の持ち主である、西口智哉はあぁと頷く。じゃと短く言い残し、早々に出ていこうとする、その背に香苗はあわてて声をかける。
「ちょっと、せっかくだか、寝室まで運ぶの手伝ってくれない?いくら小柄でも、私には重いのよ」
「……わかった」軽々と暁人を肩にのせ、歩みを進める。
「助かったわ、ありがとう。ホントに大変なのよ。いつもいつもっ」香苗は答えない暁人の背中を軽く叩く。
暁人を寝室のベッドに運ぶと、すぐまた、帰ろうとする智哉を香苗は引き留めた。
「ちょっと、そんな慌てて帰らなくてもいいじゃない?ちょっと聞きたいことも、話したいこともあるし、お茶くらい飲んで行ってよ。智哉に抱えられた暁人って久しぶりに見たね。学生の頃、思い出しちゃった。……よく三人で飲んだよね。暁人は弱いくせに調子に乗って飲むから、いっつもつぶれて、公園とか、その辺の植え込みで寝てたりして、懐かしいね」
暖房の効いたリビングで、智哉はそろりとコートを脱ぎ、イスに座る。
香苗はキッチンに立ち、コーヒーを淹れる。
「ここのところ、毎晩とまではいかないけど、べろべろに酔っぱらって帰ってくるの。分かりやすくて嫌になるわ。……あの人、彼女に振られちゃったみたいで。結構、続いてたのにね。愛想つかされたみたいで。智哉、知ってる人?看護師なのは見当がついてたけど」
「……あぁ、外科のナースだ。慰謝料の請求か?」
「智哉も知らないってウソついてくれたらいいのに。慰謝料なんてとんでもないわ。こっちが菓子折でも持っていかなきゃいけないくらいよ。お世話になりましたってね。それにきっと、別れるときもぐずぐずしたと思うもの。あの人、弱いから、すぐに甘えちゃうし、迷惑とか遠慮とかわからないしね。仕事の話もずいぶん、聞いてもらったんじゃないかな?私にはあの人、言えないし」
「なんだよ、それ?」
「だって、私には愚痴をこぼさないから。私が現場戻りたいの、わかってるからね。私に愚痴をこぼせば、主夫やれって言ってやるのに」ふふっと香苗の口元がほころぶ。
「戻らないのか?」
「戻りたいよ、でも……。美結を見る人がいないからね。体もだいぶ、丈夫になってきたけど、喘息の発作もまだちょくちょく出るし、冬場になると、余計にね。いつ入院になるかヒヤヒヤするもの。そんな状況で復帰しても迷惑になるだけだし。まだまだ無理かな」香苗は産婦人科医だ。暁人と結婚、出産にて結局、復帰を断念し退職した。
一人娘の美結は熱を出したり、喘息の発作を起こしたりと体が丈夫でない。風邪をこじらせて、肺炎で入院することもあった。四歳になった今でも、それは変わらない。
「結婚とか、出産って、親元でするべきね。大都市ならともかく、ここじゃ、病児保育もベビーシッターも普及してないもの。頼るのはやっぱり、親になるものね。智哉もお嫁さんは地元の子にしなさい」
「そんなこと考えて、結婚するのかよ?」
「大事よ?ましてや、外科医なんて全然、家に帰ってこないんだし、イクメンなんで、夢のまた夢よ。外科医の嫁なんて、母子家庭みたいなもんでしょ?」
「そんなにひどいか?」
「ひどかったから、智哉はバツがついたんでしょ」
「……まぁ、そうか」
「何がどうなったの?智哉、聞かせてよ。好奇心が全くないとは言えないけど、私も心配してるのよ。妙な噂が入ってくるし」
「妙な噂?どんなんだよ?」
「奥さんが、浮気して妊娠。それで離婚?しかも、ご丁寧に認知したって」
「普通、噂っていうのは尾ひれがついて、大袈裟になるもんだけど、それがすべてで、正解だ」
「……じゃ、ほんとなの?本当に智哉は誰かわからない子の父親になったの?」
「妻の子供だよ。誰かわからない子じゃない」
香苗は言葉を失い、智哉の冷たい目と、取ってつけたような微笑みを見つめる。
「なんで?どうして生ませたの?」
「……俺におろせなんて、言える訳がないだろう?」
「……医者だからって言わないでよ。腹が立つから」
この会話を一体、何度交わしたことだろう。
産婦人科医である香苗と外科医の智哉は中絶に対する認識が大きく違い、命を守るために医者の存在理由があると、智哉は言う。香苗は望まない妊娠は、母親はもちろん、産まれてくる子供も不幸になると考えている。
「やめよう。こんな話しを始めたところで、らちが明かない。……帰る」
「何よ?逃げるの?間違ってたと思うから、やめるんでしょう?」
「そんなんじゃない。俺は妻の子供は自分の子供として、責任を持って育てるつもりだった。拒否したのは、向こうだ」平然と言い切る智哉に、香苗は耳の奥がキンと張り詰めたような感覚に襲われた。
「ふざけたこと言わないで。育児ってそんなに甘くないわ。自分の産んだ子供でも、辛くてイライラして、投げ出したくなるのよ?思い通りにならないことばかりで、忍耐力を試されてる気分よ。ホントに大変なんだから」
「……やれるさ。香苗」智哉は小さく呟くように言葉をこぼし、香苗を見つめる。
この先を智哉に言わせてはいけないと、香苗は思う。けれども、智哉の視線から逃れることが、出来ないまま、言葉を発することができずにいた。
「……ママ?」
小さな手で目を擦り、眩しそうに目を細めている。トコトコと歩み寄り美結は香苗の膝にすりよる。
「目が覚めちゃった?ごめんね、ママの声が聞こえた?」
「うん」
「大きな声だったかな?さっ、もうベッドに入ろう?」
智哉は、もう帰ると小さく言うと大きな背中を丸めるように、リビングから出ていった。
玄関まで見送ることもなく、香苗は小さな手を引いて、寝室に入った。
走り去るエンジンの音が風の音と共に聞こえた。