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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第1章 愛梨
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彼の離婚の理由

 愛梨は何の意味もなく、理由もなく、ただ話を聞いて欲しかった。

 同期でもなく、親しい友人でもなく、綾音の顔が浮かんだのは、前に話を聞いてもらったからだろうか、綾音なら納得できる答えをくれるとでも思ったのだろうか。愛梨はわからなかった。


 勤務が終わるころを見計らって、職員玄関にぼんやりとたっていた。

 風は強くないにも関わらず、陽射しがないせいか、空気はひんやりと冷たく、愛梨の手足と心までも、かじかむようだった。

 トレンチコートを羽織り、細身のパンツにパンプスの踵を、コツコツ鳴らして歩く綾音を見つけ、愛梨は走り寄る。

「ひ、平原さんっ!」後ろから声をかけ、振り向いた綾音を目にしたときには、視界が滲んでいた。


 暖かい店内、ゆったりとしたカウチ、甘い香りが立ち上るココア。カップを包み込むように持ち、かじかんだ指先を温める。

 しかし、ココアは心までは温められない。


 細い指でカップをつまみ、コーヒーを口に運び、愛梨の言葉を綾音はじっと聞いていた。

 愛梨はいつになく、涙をこぼすことなく、ポツリポツリと言葉を繋ぐ。

「……平原さん、私にはわからないんですどうして智さんは離婚しなかったのか……、ううん、どうして離婚したのか?何もわからない。何がなんだかわからない」

「丸野……、私も噂以上のことは知らないし、私も西口先生の考えはわからない。でも、元妻の気持ちは想像できない?」

「出来ませんっ!」

 綾音はやっぱり、無理かなと微笑み質問を変える。

「丸野って、妊娠したことある?」

「あっ、ありませんっ!!」愛梨は綾音に唾を飛ばす勢いで返事をする。

「じゃ、周りで妊婦さんっている?妊娠した人、見たことある?」綾音はニヤリと笑っている。

「実習のときだけかな……」大きなお腹を抱えて歩く女の人をちらりと目にすることはあっても、身近な友達や身内ではまだない。

「あっ、私もないから。そうじゃなくて。妊娠って身体に劇的な変化があるわけじゃない?悪阻は個人差があるけど、全くない人は少ないでしょ?身体もだるかったり、疲れやすかったり。……妊娠した人と一緒に仕事してると、大丈夫かな?って心配になることあるし、顔色が悪かったり、食欲無さそうだったりするのって、想像できるよね?」愛梨は綾音の話の意図がつかめず、ぼんやりと耳を傾ける。

「……はあ」相づちも適当になってしまう。

「妊娠に気が付かないことってあるのかな?しかも、後ろ暗いことがあって?」綾音は、じっと愛梨を見つめ、言葉を続ける。

「……人工中絶は20週まで、常識的に考えれば11週だけど、それでも、おかしいって思ってから1ヶ月以上あるのよ。中絶可能期間を気付かないで、過ごしたなんて考えられない。いったいどんな思いで過ごしてたのかしら?」綾音の言わんとすることが見えた愛梨は目を見開く。

「……智さんは妊娠してることに気付いてたってこと?」

「だから、そっちじゃなくて。元妻はどうして中絶しなかったのか?どうしてすぐに離婚しなかったのか?よ。普通、夫以外の子供を妊娠したら、中絶するか、離婚して父親となる人と暮らしたいと思うじゃないかな?……西口先生は実子とした。元妻はそれを受け入れたなら、離婚する理由がないわ。そのまま、西口先生の子供だって言い切ればいいわけでしょ?」綾音は窓の外をぼんやりと眺めて、ため息を溢す。日が沈み、窓からの景色は夕闇に染まっている。

「……全然、わかりません」

 綾音の問いかけは、更に愛梨を混乱させる。愛梨には、夫がいるにも関わらず、他の男の人とそんな関係になると言うこと事態、理解できない。

「丸野も、智さんは私のこと好きじゃないんですぅって泣いてたでしょ?あんたは、私だったけど、またまた泣きついて、慰めてくれたのが男だったら、わかんないよ」綾音は愛梨が心に思うことがわかるのだろうか。その言葉にドキリとする。

「……そんなことないですっ」あわてて否定する愛梨をふふんと綾音は嘲笑う。

「私はなんとなく、先生と奥さんの考えてることがわかるけど。……教えない。丸野は自分で考えて、自分で教えてもらいなさいね」

「えっ、教えてくださいよ!」

 やだ。綾音は美しく微笑む。




 智哉のことが頭から離れない愛梨は、いつもに増して、ミスが続いた。

 ただでさえ、苦手な採血は全く出来る気がしない。

 ぼんやりとパソコンに向かう。ポチポチ、マウスをクリックしていると、智哉が病棟に入ってくるのが見える。胸が痛い、息が上手くできない。どこを見ていればいいか、心に何を思っていればいいかもわからない。

 席を立ち、詰め所を離れる。しなければいけない仕事は詰め所にある。他のスタッフはパタパタと足音を鳴らして仕事をこなしていく。仕事に集中しなくてはいけないのは、わかっている。しかし、おもうようにはいかない。愛梨は白い廊下を進み、用事もないのに、器材庫に入る。窓のない照明を付けても暗い器材庫でぼんやりとかごからだらりと飛び出した延長コードを見つめる。かごの中で絡まったコードをほどき、一本ずつ、束にする。絡まったコードは、すんなりとかごに収まる。


「ちゃんと話をしなきゃ」ポツリと言葉にすると、その通りと思え、また、そうするべきと思えてきた。

 愛梨は智哉と会う約束をした。




 冷たい雨が降っていた。吐く息が白く、傘を持つ、濡れた手がかじかむ。水溜まりを避けながら歩いていると、傘に隠れて、看板を見落とし、通りすぎてしまった。

 小さな看板のある階段を下りて、ドアを開けると、見慣れた大きな背中があった。きゅっと胸が痛む。

「いらっしゃいませ」にこりと微笑みを浮かべるバーテンダー。

「前と同じもの……、シャーリー……?」思い出せず、言葉が続かない。スツールに腰掛けて、曖昧に笑う。

「シャーリーテンプルですね?」名を言われてもピンと来ないが、それよりも隣に座る智哉が気になり、どうでもよかった。

「シャーリーテンプルか、前も同じカクテルだった?」バーテンダーを見つめる智哉は呆れたように笑う。

「お客様にオススメさせていただきました」相変わらず、微笑みを浮かべたまま話し、手元は滑らかに動いて、愛梨の前に赤みを帯びたオレンジ色のグラスが置かれる。

「何?」

「ノンアルコールだよ。お酒じゃない、ジュースだ」

「……そうだったんだ。飲みやすいわけだ」

「この前、グビグビ飲むから倒れるんじゃないかと思ったよ。平気そうだから、意外とアルコールに強いのかと思ったけど、そんな裏があったのか」

「何?どうしてノンアルコールをすすめてくれたんですか?」

「……何となくですよ」やはり、微笑みを浮かべたまま言う。

「ぐでんぐでんになったら、迷惑を被るのは店だからね」ククッと智哉は笑う。

「飲みすぎたりしませんからっ!」

「カクテルは口当たりがいいのに、キツイモノも多いから、ついつい飲みすぎることがあるんだよ。女の子が一人で来たら、多少は警戒されるのかもね。……愛梨が飲み過ぎて酔っ払って、離婚の理由なんてどうでもよくなってたらよかったのに」

「……智さん」智哉のいつになく小さく心もとない声が愛梨の胸を締め付ける。


「まだ、聞きたいことがあった?」

「……智さんは、いつ気がついたの?奥さんの妊娠」

「すぐにもしかしたら、とは思ったよ」

「智さんは、何て言ったの?」

「何も言わなかったよ」

「何も?何も言わずに黙っていたの?」

「体調が悪いなら、休むように言ったかな?受診もすすめたよ。妊娠したか?と言ったかという問いなら、否だ。……憶測で妊娠を指摘することはできない。ましてや自分に全く覚えがなかったからね」智哉の目が冷たく、細められている。

「どうして問い詰めて、怒らないの?」

 愛梨の問いに智哉は、目を見開き、おかしそうに愛梨の顔を見つめる。

「同じことを言われたよ。どうして怒ってくれないのかって、問い詰めて、怒って欲しかったって」

「もしかして、他の男の人と会ってるのも、わかっていたの?」愛梨の声が少し震え、胸が痛む。

「……わかっていたかな」

「どうして?わかっていたのに!」

「他の男と会っていたら、すぐに咎め立てるべきなのか?」

「……智さんは嫌じゃないの?好きな人が他の男の人と会って嫌じゃないの?」

 智哉はゆっくりとグラスを傾け、口元には微笑みを浮かべる。

「……また同じことを言うんだな」


「えっ?」


「……嫉妬させたくて、他の男と遊んで、他の男の子供を妊娠してしまったんだよ」それがすべてだとつぶやきながら、にこりと微笑む智哉の目は冷たく、わらってはいなかった。

 愛されてないという思い、すぐにでも去ってしまいそうな不安、忘れられない人がいるのでは?そう感じたのは、愛梨自身。

 同じことを感じたというのだろうか。

 嫉妬させることで愛情を感じたかったのだろうか。

 嫉妬するどころか、何も問われず、体調を気遣われる。どんな思いで過ごしていたのだろうか。


「……智さんは、好きじゃなかったんだね。だって、好きなら他の男の人と会うの嫌でしょう。嫌だって思ってもらえないのは、虚しいね」


「……そうなるのか?わからないな」


「智さんは、誰かをすごく好きになったことないの?その人を思って眠れなかったり、苦しかったり、会いたくて家を飛び出したり、どこかであえるんじゃないかって、絶対にいるわけないのに探したり。……嫉妬してイライラしたり。そんな気持ちになったことないの?もう、ならないの?」


「愛梨、俺はもう30すぎのオッサンだ」


「それが答え?智さんの答えなの?」

 愛梨は智哉を真っ直ぐに見つめる。智哉はその視線を受けて、にっこりと温かな微笑みを浮かべ、何も答えない。

「……もう、いいよ」

 愛梨は席を立ち、店を後にした。止まない雨が、足元を濡らす。不思議と涙は落ちてこない。胸の奥がつかえたように苦しく、思うように息ができない。

 傘に落ちる雨音が耳に染み込んだ。



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