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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第1章 愛梨
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聞かずにはいられない理由

「愛梨には、きっと、理解できないよ。一緒にいるのも嫌になってしまうかもしれないよ」智哉がため息混じりに言う。


 愛梨は離婚の理由を問わずにはいられなかった。自然と力が入り、膝の上でスカートの裾がしわになるのもかまわず、握りしめた。


「……大丈夫よ。だって、智さんのことよく知りたいの。もっと、わかりたいもの。もっと、近づきたいもの」

「愛梨……。聞いたからってわかるとも限らない、近づけるとも限らないだろ。どうしても聞きたいのか」智哉の手が愛梨の頬に触れ、そのまま髪をすくようになでる。眼鏡の奥の瞳は、愛梨の顔に向けられているけれど、その色は深く、ぼんやりとしていて、愛梨を映してはいなかった。

「でも、それでもっ、知りたいよ」


 智哉はポケットからキーケースを取り出し、愛梨の部屋の鍵を外した。コトリとテーブルの上に置いて、愛梨を見つめる。

「これは返しておくよ。一度、考えてみてくれ。話したくないわけじゃないんだ。……ただ、今じゃなくてもいいかとは思う。また、連絡するよ」


 智哉は愛梨の肩を寄せて、額に唇を当て、今日は帰るよと、部屋から出ていってしまった。

 話したくないことを無理に聞くことは、ただしくないのかもしれない。それでも知りたい。その気持ちを抱えたまま、彼と一緒にいることはもう、できない。


 テーブルに置かれた、スペアキーは手のひらにのせると思いの外、冷たく、重かった。





 駅前の雑居ビルの地下にあるバーは、入り口に小さな看板があるだけで、愛梨は一度、前を通りすぎてしまった。

 階段を下りて、木製の飴色のドアを開ける。


 カウンター席だけの静かな店内は薄暗く、誰客は誰もいなかった。

 グラスを磨く、バーテンダーがちらりと、愛梨を見ていらっしゃいませと声をかける。真ん中より少し壁際のスツールに腰をかける。小柄な愛梨は足がととかず、ふらふらと落ち着かない。浅く座り直した。

 どうしたらいいか、わからずにぼんやりしていると、バーテンダーがにこりと微笑む。

「何にしますか?」

「えっと……」手渡されたメニューを眺めてみても、カクテルの名前では、どんなものか愛梨には想像ができなかった。居酒屋で知った名前はいくつかあったけれど、そのどれも欲しくなかった。

 カクテルよりも心を捕らえて離さないモノが大きく占めていたために、オーダーすらままならない。胸がつかえて苦しい。

 バーテンダーは適当に作らせていただきましょうか?と微笑みを浮かべたまま言い、滑らかに作業を始めた。


「シャーリーテンプルです」


 カウンターに据えられたカクテルは、赤みを帯びたオレンジ色。炭酸の気泡がしゅわしゅわと弾けている。

 ゆっくりと手に取り、口に運ぶ、爽やかな酸味と甘味、アルコール特有の苦味や癖がなく、スッキリと飲みやすかった。

 喉を通っておりていくカクテルは、ほんの少しつかえも取ってくれるような気がした。

「美味しいです」愛梨は強張った頬をひきつらせるように緩ませた。上手く笑えた気がしなかった。


 グラスを傾けながら、愛梨は預かった鍵がバッグにあるか、もう一度、確認した。この鍵をは智哉に持っていてほしい。今日、智哉をもっと知りたい。智哉に一番近い存在でありたい。


 ドアが開いて、冷たい風が店内に流れ込み、足元をひやっとなでていく。愛梨は振り返らなかった。横に座る智哉の「遅くなった、だいぶ待ったか?」いつもと変わらない優しい声。

 やっぱりやめようか、やめるならきっと今だ。また今度にするね、そう言って笑えばいい。そして、二人で愛梨の部屋に行こう。だけれど、言葉にはならない。

 智哉の顔をじっと見つめる。

「やっぱり聞きたい?変わらないか?」答えない愛梨の視線から逃れるように、バーテンダーにカクテルをオーダーする。

「カミカゼを」


 どう話を切り出していいか、わからないまま、ゆっくりとグラスを傾ける。

 静かな店内は、シェイカーが奏でる音が響いている。

 そっと、智哉の前にカクテルが置かれ、智哉は一口含む。

「愛梨、何が聞きたい?」


「……、智さんはどうして離婚したの?」

「彼女の希望だよ」

「奥さんが、前の奥さんが離婚したいっていたの?」


 やっぱりまだ、心の中に忘れられないまま存在するのだろうか?智哉は離婚を望まなかったなのだろうか?

「そうだよ」

「智さんは離婚したくなかった?」

「離婚しなくてもいいと言ったよ」

「好きだったから?離婚なんてしたくなかたたの?まだ、……好きなの?」グラスをぎゅっと握る。冷たさが、汗ばむ手の熱を心地よく奪い、震えを抑える。

 智哉を見ることが出来ず、そのグラスを見つめる。

 カランと氷が音を立てる。

「まだ好きなの……か」智哉のクスリと笑う声。

 愛梨は驚きを隠せない、勢いよく顔を上げ、智哉を見ると、口元を歪ませている。愛梨の見たことのない、その微笑みはひどく冷たかった。


「……好きじゃないの?でも、好きだったんでしょ?だから、離婚しなくてもいいって言ったんでしょ?」

 智哉はその問いに答えず、グラスを手に取りカクテルを傾ける。愛梨はゆっくりと上下に動く喉を見ていた。

「好きか、嫌いかなら、好きだな」

 智哉の答えに愛梨の胸は締め付けられるように痛む。言葉が出ない。


「愛梨の言う、好きと、俺の言う好きは、多分違う」

「……違う?どういうことなの?」


「彼女は……、愛されてない。そう言ったよ。持てるもの、渡せるもの、時間も金も……俺のすべて渡しても、彼女を満たすことができなかった。……彼女は別の男を選び、子供を授かったんだよ」


「……えっ!」

 噂は尾もヒレも付いていなかったということだ。

 智哉は微笑みを浮かべている。さっき見せた冷たさは、影も形もない、温かみを感じる智哉の優しさが滲む笑顔。


「どうして笑えるの?浮気されて、子供までっ!そんなのひどいよ。智さんは平気なの?」

「あぁ、がっかりはしたかな。どれだけ努力しても彼女を満たせないのかと、悲しかったよ」

「そんなのおかしいよっ!そんなのひどいよ」視界が滲み、涙が頬を伝う。ハンカチを取り出すために手を伸ばしたバッグを誤って落としてしまう。

 智哉の長い手が下りてきて、バッグを拾い愛梨の膝に置く。

 その手に愛梨はそっと触れる。驚くほど冷たい指先は愛梨の手から逃れるように、カクテルグラスを握った。

「僕はおかしいのかもしれないね、彼女にも、同じことを言われたよ」また智哉はクスリと笑う。

 離婚を切り出したのは、智哉ではなかったことを愛梨は思い出す。

「……他の人の赤ちゃんなのに、智さんは離婚しなくていいって言ったの?どうして?許されることじゃないでしょ?わかんないよっ」

「僕の妻の子供は、僕の子供でいいんだよ。だから、一緒に育てようって言ったけど、彼女は離婚を選んだ」智哉の寂しそうな声を聞き、愛梨の涙は止まることなく頬を濡らす。


「よくないっ!絶対に良くない!」

 愛梨の涙は止まることはなく、首をふった拍子にカウンターの上にポタポタと落ちる。そんな愛梨の横で智哉はじっとグラスを傾ける。


 涙が落ち着いた頃を見計らって、智哉は愛梨をタクシーに乗せた。


 愛梨は鍵を再び渡すことが出来なかった。




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