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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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その背中に

「蓮子っ!」

 智哉の何年ぶりかの全力疾走では、逃げようとする背中との距離を縮めることはできなかった。足が思うように動かず、体は前に進まない。けれども、どんどん離れていく背中を諦めることはできない。

 蓮子の背中が交差点を右に曲がり、視界から消える。そのとき腕を引かれていた健太郎と目が合う。息が切れているせいでただでさえ苦しい胸が、さらにずしりと重くなる。それでもやっぱり、足を止めることはできなかった。

 智哉が右に曲がると、立ち止まっていた健太郎とぶつかりそうになった。その横で蓮子も手をひざについて、肩で息をしている。

「蓮子……」息が切れて言葉がつなげられない。

「先生、ごめんね。……邪魔しちゃった?」

 顔を上げることなく蓮子は切れ切れにつぶやく。その言葉を否定したくても、日ごろの運動不足がそうさせてくれない。


「ナツさん。……猫はね、喋れないんだ。それに選べない。いつだって選ぶのは人なんだよ。猫はこの人がいいとか、この人は嫌だとか、言えない。ぼくらはどの猫もみんな幸せになってほしいと思う。でも、やさしい顔して甘い言葉で里親になって動物たちを虐待する人もいるんだ。だから、僕たちは言葉を尽くすんだよ。できることを全部するんだよ。幸せになってほしいから、後悔したくないからできることは全部するんだよ。ナツさん、逃げてちゃだめだよ。ナツさんは喋れるし、選べる。ちゃんと話しをしておいでよ」

 にっこりと微笑みを浮かべ、健太郎は蓮子に言い含める。全く息が乱れていないその姿を驚きと羨望をもって智哉は見つめる。

「……すごいね、坂君。息切れてないし」

「えぇ、そこ?結構、ぼく、良いこと言ったよ?とにかく、二人で話してきなよ。ぼくは帰るよ」大きな目を人懐っこく細めて、ゆっくりと歩いていった。


 智哉は大きく深呼吸をして、蓮子に向き合う。

「明日、足が痛くなりそうだな」

「先生は、あさってなんじゃない?はぁ、久しぶりに走ったわ、しんどい」

 蓮子はため息混じりに微笑みを浮かべた。


 智哉は腕の中に蓮子を収める。ぎゅうと強く抱きしめても蓮子は抗わない。蓮子にだけ聞こえるように小さくつぶやいたのは智哉自身の耳に入れることが照れくさかったから。


「……好きだ」


 蓮子はだらりと下げていた手をそっと回して、すぐに智哉の体を押して離れた。

「こんなとこでやめとこ。若いなら許されるかもしれないけど……、ちょっとイタイよ」

 下を向いたままでその表情はわからなかったけれど、黒い髪の間から見える耳が赤く染まっていた。




 車に乗って、エンジンをかける。横を見ると蓮子がカチャリとシートベルトを締めていた。隣に人が乗ることは少なく、また今更ながらに、エプロン姿でないことに気づく。

 チャコールグレーのコート、細身のパンツにブーツ姿の蓮子が新鮮で、智哉はじっと見つめる。

「何?なんか変?」

「エプロンじゃないなと思って」

「さすがに、いっつもエプロン着てるわけじゃないから。まぁ、ほとんどエプロン姿だね」

 エプロン姿でない蓮子とこうして車に乗って、どこかに出かけたいと智哉は思った。その思いを智哉はしまわずに言葉にする。

「どっか、行きたいとこあるか?」

「え?今?とりあえず、帰ろうかな……」

「あぁ、今日は帰ろう。今度また、一緒に出かけないか?」

「え、あぁ、うん、いいよ」

 その前に話さなければならないことが、智哉にはある。言葉を尽くそうと決めた。



 たそがれの黄金色の光が差し込み、定休日の店内を照らす。

 カウンター席に腰を下ろした智哉は蓮子の入れた透き通る碧のお茶を口に含む。

 蓮子は智哉の隣にそっと座り、手元のマグカップを見つめている。

「さっきの人は、元妻だよ。一年半、もう少しで二年になるかな。離婚したんだ。子供が生まれてすぐ離婚して、戸籍上、俺の子供になっていた。それを正す調停で、裁判所に行ってきた帰りだった」

「戸籍を正すって、じゃ、先生の子供じゃないってこと?」

「そうだよ」

「ふーん」

蓮子は頬杖をついてマグカップから目を離さない。智哉は蓮子の次の問いを待つけれど、その唇はお茶を含むばかりで、なんの言葉も紡がない。

「……ちゃんと話すから、何でも聞いてくれ」

「え?何を?」

「聞きたいこと何でも……。さっきのあそこで……」

「あぁ、あの人、明らかに私を見て、分かって抱きついてたから、別に先生の意思じゃないの分かってるし。先生には先生の考えとか想いとかあるだろうし、私には私の事情があるみたいにね」

「離婚の理由とか」

「言いたいの?」

「そういうわけじゃない」

 冠をはずしたいと願っていたのは智哉自身であるにも関わらず、あえて頭上に掲げることはないのかもしれない。これを言わずして彼女に向き合うことが不誠実だと思っていたのは智哉、しかし、彼女はそう思わないというのだろうか。

「離婚暦があることをいわないまま、蓮子に向き合えなかった。だから、何も言えなかった」

「離婚暦なら私にもあるし。離婚の理由なんて人それぞれだし、そんなの当事者以外にはなかなか理解できないんじゃないの?……私の知ってる先生は離婚暦のある先生なんだしね。言いたいなら聞くし、聞きたくなったら聞くわ。先生こそいいの?私は忘れないわ、私の心にはいつだって、聡と優樹菜がいるよ。ずっといるよ」

「初めて会ったときからわかってたことだ。構わない」

「先生……」

 下から見上げるように智哉を見つめる蓮子は微笑を浮かべ、小首をかしげる。

 智哉は蓮子の頬にそっと手を伸ばし、唇を重ねた。


「ねぇ、先生。ひとつだけ聞いてもいい?」


 智哉はそっと瞳を閉じてその問いを受けるため、小さくうなずく。


「……先生の名前って何だった?」






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