戸惑いとともに
「あけましておめでとう。今年も商売繁盛。がんばりましょうね」
真喜子は蓮子の顔をじっと探るように見つめて笑う。
「よろしくおねがいします。がんばります」
蓮子の声にうんと小さく笑ってエプロンをきゅっと結ぶ真喜子の様子に蓮子はほっとする。
「よかったわ。今までで一番、いい顔してるわ。ほんとに。……あの人なの?」
真喜子の問いに蓮子はなんと答えていいのかわからなかったので、あいまいに笑う。
「まぁ、いいわ。あなたにとってイイ人なら、言うことないもの。……ナツちゃん、幸せになりなさい。うんと幸せになりなさい」
この言葉にも蓮子はあいまいに笑うしかできなかった。
年末年始の長い休みを終えて、仕事始めの朝。曇りがちなくらい空の隙間から青空と日差しがこぼれる。その光に庭に植えられた木蓮の銀色の短い毛に覆われた小さな芽はほんの少し大きくなっているようだった。その小さな芽を蓮子は小さく指ではじく。
「ナツさん、今年もよろしく」
草履をぺたぺたと鳴らして歩く、美鶴の声に振り向く。
「今年もよろしくお願いしますね」
美鶴はすっと蓮子のそばにより、声をほんの少しひそめて話す。
「ナツさん、あの後。……あいつと……」声が低くなり、美鶴の表情が険しくなる。
「大丈夫、美鶴ちゃんが心配するようなことは、全然ないから」
「そうなのか?ほんとにそうなのか?あぁ、ならよかった。あのあと、あいつも一緒に引っ張って帰らなかったの、マジで腹立った」
「うん、大丈夫」そういいながら蓮子にも何が大丈夫なのかわからなかった。
閉店時間を向かえ、店内の照明を少し残して落とすと、店内には窓から大きな欠けることのない月の光が煌々と差し込む。
そして、蓮子はドアのベルが優しく響くのを待っていた。
大きな背中をほんの少し丸めて入ってくる、めがねの奥のやさしい瞳、温かな腕、『蓮子』と呼ぶ声、その人を。蓮子はその人をなんと呼んでいいのかわからなかった。
いつの頃からか、ベルが鳴らない日は携帯が鳴るようになった。
[今日は行けない。また、明日]
とても短い温かい声が蓮子の耳から入り、心をすこし揺さぶる。
智哉は当たり前のように閉店後に現れて、ドアのベルをやさしく響かせる。
そして、蓮子ににっこりと微笑み、カウンター席に座る。蓮子が作る食事をゆっくりと食べて、お茶を飲み、パンケーキを試食する。
変わったことといえば、蓮子が智哉の横に座り食事をともにすることだ。
智哉は蓮子に何を語るわけでなく、蓮子に触れるわけでもない。どこにでも転がっているようなありきたりの話をして、微笑み、船をこぐ。
そんな智哉をなんと呼んでいいか、やっぱり蓮子にはわからなかった。
半分より少しふっくらと膨らんだ月が東の空に昇り、夜の風がキンと冷たく肌を刺す、マグノリアで不定期に開催しているチャリティ営業の夜。
「ナツさーん、今日もありがとうございました。本当にいつもいつも」
健太郎は丸い目を細めて笑う。売り上げは全額寄付、真喜子に勧められるままにはじめたチャリティ営業だったけれど、蓮子はこの不定期の夜の営業がとても気に入っていた。
いつもとは違う、店内のレイアウト、メニューは新鮮だったし、なにより誰かの何かの役に立っているという事実が蓮子を穏やかにさせた。
「ナツさん、最近新メニューでパンケーキ考えてるんですよね?よかったら一緒に食べに行きませんか?すごくおいしいお店があるらしいんです。視察です、出張視察です」
いつもお世話になってますからと健太郎は蓮子を覗き込むように微笑む。
「そうね、なんだかうまくいかないし、食べに行ってみたいかも?」
「じゃ、今度の月曜日でいいですか?僕も仕事、休みなんですよ。美鶴さんも沢さんも一緒に行きませんか?みんなで行きましょう」
しかし、当日になって美鶴は寝坊、真喜子は姑の体調不良にて、キャンセルとなり、蓮子と健太郎は二人で、出かけることになった。
抜けるように高く澄んだ青い空に穏やかに太陽が輝き暖かい午後。
蓮子は迎えに来た健太郎の車の助手席に乗り、カチリとシートベルトを締める。
「すごく、おいしいみたいですよ。ほんとに楽しみですね」
健太郎はニコニコとハンドルを握る。パンケーキの味のイメージがなかなか固まらない蓮子も少なからず楽しみにしていた。
目的のお店の駐車場に空きがなく、少しはなれたパーキングエリアから歩く。ひっきりなしに行きかう車、暖かいとはいえ寒空の下を徒歩で移動する人は少ないせいか、歩道の人はまばらだった。
健太郎と横断歩道の信号待ちをしていると、視界の隅に入った大きな背中。蓮子はこんなところにいるはずのない人を心に浮かべ、その背中を見つめていた。すると向き合って話していた女の人と目が合う。その人に蓮子は見覚えがないけれど、その人はほんの少し微笑んだようだった。
信号が青になり、少しずつその背中に近づいていく。その背中は、蓮子の心に浮かべた背中と酷似している。一歩一歩近づいていくごとにその思いは確信に変わっていく。
「ナツさん?」
健太郎の問うような視線に答えることもできない。
蓮子の目の前で、その背中は女の人を腕に収める。何度も蓮子がすがったその腕の中に、別の誰かがいるその目の前の事実に蓮子の足が止まる。
そして、細い白い手がその頬を挟み込み、そっと顔が近づいた。
蓮子は息ができなかった。胸の奥がキリキリと痛む。そこから一歩も動くことができず、目の前から視線を逸らすこともできなかった。
にっこりと笑って、ゆっくりと頭を下げ、立ち去っていく。
「ナツさん?どうしたんですか?知り合いですか?」
健太郎の声に蓮子は呪縛から解かれるように、息を吐く。
そして、健太郎の腕を取って、きびすを返した。




