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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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安堵とともに

 目が覚めると、人の気配がする。

 それは部屋に灯る明かりとともに、安堵に変わり、心地よく胸にしみる。

 そっと額に触れる手はひんやりと冷たく、かけられる声は優しく耳に馴染む。

 このまま、熱が下がらなくてもいいかと、智哉は思った。けれども、あっさりと熱は下がり、ここにと留まる理由を告げることもできず、ほかに見つけることもできず、マグノリアを後にして、仕事にむかう。


 当直明けの朝、風は弱く、冷たい空気が足元から体の熱を奪い、駐車場までのほんの短い間に足先も指先もかじかむ。

 吐いた息が真っ白の車内が温まる前にアパートに着いてしまう。

 ポストには何枚も年賀状が届いていた。


 写真つきの分厚い葉書は枚数のわりにかさばる。


 一枚づつ、目を通していく。

 結婚の報告や、出産の報告が続く。

 晴れがましく笑う友人や、着飾って澄まして笑う見知らぬ子供。もう随分顔を合わしていない友人は知らない誰かのようだ。


 ーー春に家族が増えます


 シンプルな馬のイラストの横に添えられた右上がりの硬い文字。

 差出人は、海と山しかない町で産婦人科医師として働く同級生。連なる名前もまた、呼吸器科医師として働く同級生。


 安堵にも似たため息がこぼれ、そのあとから自然と頬が緩んだ。心の底からよかったと思う。


 凍えるような冷たい風が吹き付けていても、智哉の温まった心を冷やすことはなかった。



 想いを告げられないまま、長く過ごした。

 問われることに答えることは、とても簡単なのに想いを告げることはどうしてあんなにも難しいのだろう。

 それは、自分の弱さだ。失敗を恐れ、逃げて甘んじる。突きつけられる現実を試す前に決めてしまい、やってみようともしない。怠惰だ。そして、そのツケは必ず自分に戻ってくる。


 ーーまた、同じ失敗をするわけにはいかない。





 小さな白い粒が強い風に舞い、冷たいアスファルトの上を転がる。智哉はコートの襟を掻き合わせて足早に病棟に向かう。

 年始のゆっくりとして、閑散とした雰囲気の病棟。いつの間にか、あわただしく繁忙な病棟に戻っている。

 深夜勤務を終えたらしい駿がふらりと智哉の横にやってきた。

「先生、最近調子どうっすか?」

「なんだよ、調子って?」

「いや、年末ちょっと体調悪かったんですよね?その割りに車がずっとなかったから、どっか行ってたんすか?」

「言いたいことがあるなら、言えよ。今に始まったことじゃないが、回りくどいな」

「嫌なこと言いますよね、ほんとに。いや、最近車が」

「お前、俺の車があるかどうか、確認すんのやめろよ。それ、ストーキングだろう?」

「しかたたないじゃないですか。通り道で、嫌でも目に入るんですよ、先生の車!ってか、最近、どこ行ってるんですか?」

「……どこか、カフェ?」

「か、カフェ?!……そこにだれかいるんですか?」

「いる」

「はぁ、従業員とかなしですよ」

「働いてる人だな」

「……先生、それって十分、ストーキングですよ」はぁと駿は大げさにため息を吐き、頭をガリガリと掻く。

「そうなるのか?」

「いや、だってカフェの店員を目当てに通ってるんでしょう?十分危険性はありますよ。その店員さん、嫌がってませんか?帰りに待ち伏せとかしてませんよね?」

「待ち伏せなんかしてない、……嫌がっては無いと思う」

「ってか、どこのカフェなんですか?先生の目当ての人、見てみたいっすよ」

「……」

「だめっすか?……先生、なんすかその顔」

「えっ、妙な顔してたか?」

 駿はにやりと笑って、なんでもないっす、と小鼻を掻きながら立ち去る。智哉はパソコンの画面を見つめたまま、駿の問いにいくつも答えられないことを思う。自分はどこにだれに会いに行っているのだろうか、彼女はどう思っているのだろうか。


 ――言葉が足りないのよ


 そうつぶやいた声が頭の片隅でぽっと浮かび上がる。

 智哉は大きく息を吐き出した。





 野ざらしの車のフロントガラスが凍りつき、冷たい空気が頬を突き刺すようだった朝、抜けるように晴れ渡った空に低く太陽の光が注ぎ、暖かな穏やかな午後となった。


「ありがとう。わざわざ、悪かったわね」

 黒い長い髪は肩の辺りで切りそろえられてきたけれど、長いまつげは智哉の記憶のままだった。うつむき翳りがちだった瞳もまっすぐに智哉に向けられ、穏やかに光を含んでいる。

 頬を緩める里美と智哉は、裁判所をそろって後にする。

「元気そうで、ほんとによかった」

「あなたも。ちょっと太った?」

「……そうだな」

「ふふふ。……私、結婚するの」

「そうか」

「……父親になってくれるって言ってくれてね。父親じゃないんだけど、なってくれるって。馬鹿なわたしを好きだって、子供のいるわたしがいいって」

 はにかみながらそうつぶやく里美を智哉はじっと見つめる。その視線に気づいた里美はにっと口角を上げて冷たく笑う。

「あなたとは違うわ。同じことをあなたも口にしたけど、違うわ」

「そうか」

「あなたっていつもそう。全然、納得してないくせに、そうかって言う。気に入らないこと、理解できないこと、そういうことを言ってくれない。バカにされてるみたいに思うのよ。ケンカする価値もないの?分かり合うこともさせてもらえないの?」里美の目は冷たく、笑みは消えている。

「そんな風に思ったことはないんだ」

「でも、そういうことなのよ。私ではあなたの心を揺らすことはできないのね」

「そんなことはないさ」

「あなたは、言葉が少なすぎるのよ。思ってることをもっと言葉にしないと伝わらないわ。言葉にしても伝わるとは限らないのに。言葉にできない、言葉にしないのは、なぜ?まるで、見つからないように隠してるみたいよ。心の奥の気持ちが、本当の想いが出てこないように、言葉を限っているの?私にはそう思えた」

「里美……、ありがとう。すまなかった」

「謝るってことは、認めるってことよ」

「心の中に、違う人がいなかったとは言い切れない。でも、それでも里美とやっていきたかったには事実だ。俺はお前を選んだんだから」

「女はそれじゃ、納得できないわ。心の中の隅から隅まで、私を思ってほしいもの。過去は仕方がないとして、未来は全部、今も全部ほしいわ」

「そうか」

「ほら、また納得してないのに、そうかって言ったでしょ?」里美はあきれたように笑う。

「そんなことないさ」

「もう、いいの。わたし、今、幸せだから。あなたがいなかったら、今の私はないわ。だから、出会えたこと感謝してる。あなたも幸せになって。その心の中にずっといる人と?」

 里美の問うような視線に智哉はため息で答えるしかない。

「違うんだ、もう本当に終わったんだ、その人……、彼女との記憶はもう増えない」

「なにそれ、最後まで私のことバカにしてるでしょ?その口ぶりじゃ、最近まで会ってたってことになるのよ?」

「ずっと、仲間だった。それに仲間内で結婚してたから、旦那のほうも仲間で、言い出せなかった。なにもなかった、何も」

「ふーん、ただの意気地なしのむっつりだったのね。しかもねちっこい」

「その通りだ。でも、もう終わったんだ」

「最低、ほんとに最低。嫌になるわ。こんな馬鹿な男にひっかかって、馬鹿なことして、聞きたくなかったわ」吐き捨てるように顔をしかめる里美は髪をかきあげて、じっと目を閉じている。

「……里美」

「こんな風に、こんな風に言葉を使えば、私たちもっと違ってたのかもしれないわね。電話じゃなくて、メールじゃなくて、顔を見て、言葉を交わせば、もっと違ってたのかもしてないわね」ゆっくりと瞳を開き、里美は遠くを見つめている。

「……そうだな」

「ねぇ、最後に抱きしめてくれない?」

「ここで?」

 穏やかな暖かい日とはいえ寒空の下を歩むものは多くはない。しかし無人ではなく。車道を走り抜ける車は多い。智哉は躊躇するけれど、里美は迷うことなく、その胸に顔をうずめる。そしてつぶやいた。抱きしめてくれないと離れないと。智哉は里美を腕の中に収める。体が覚えて求めているそれとは違う感覚に智哉は戸惑いを隠せないけれど、その感覚を体が覚えている事実に笑みが浮かぶ。

 ゆっくりと体を離し、里美は智哉の両方の頬に手を添える。そっと顔を近づけて小さくつぶやく。


「ばーか」


 ぱっと離れた里美は智哉の後ろに視線を投げて、にっこりと微笑み、ゆったりと会釈をする。そして、きびすを返した。

 智哉は里美の視線の先を見やる。

 そこには、健太郎の腕を引いて大股で歩く短い髪の女の背中があった。逃げるように離れていく背中、何度も振り返りつまずく健太郎にかまわずに駆け出す背中。

 智哉はその背中を追った。





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