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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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受け止めない想い

「先生?すごく顔色悪いですよ?大丈夫ですか?」

 病棟に向かい、エレベーターを降りたところで、白衣の上にカーディガンを羽織ながら、福田紗知が心配そうに智哉を見上げる。


「あぁ、大丈夫だ」

「……すごい声。全然、大丈夫じゃなさそうですよ。熱はあるんですか?」

「測ってない」

 昨日から体のだるさと頭痛があり、今日になって悪化している、寝起きのようにはっきりとしない頭、もやがかかったように視界は少し霞む。体は重く、息が弾む。熱があることは測るまでもなく、明らかで、また、熱があるからといって、ここに来ないわけには行かない。


「ちょっと、患者さんの様子を見たら帰るよ」

「年末に風邪ひくって、ついてないですね?年末年始はお休み、どうされるんですか?実家に帰るんですか?」

「そのつもりだったけど無理だな。年始は当直があるし」

 三十半ばの次男が正月に実家に顔を出さなくても、文句は言うものは誰もいない。


 年末年始を病院で過ごすことになった患者たちをみて回り、智哉は足早に病院を後にする。




 誰もいない部屋のベッドに潜り込み、智哉は目を閉じる。

 まぶたには、冷蔵庫の前に座り込んだ白いうなじが浮かぶ。

 閉店後に訪れるのは、自分だけだとどういうわけか思っていた。雨の夜に停まっていた車、そっと中を伺うと、黒髪の小さな頭が人懐っこい笑顔を向けられている。前に見かけた客の一人であることを思いだし、智哉自身も客の一人であることを思いだす。


 智哉は腹の底に何かを飲み込んでしまったように重く、胸の奥が痛む。自分が感じた感覚に信じられない思いを抱く。


 喉の乾きを覚えて起きて水を飲み、汗に濡れた服を着替えて、また眠る。

 重い遮光カーテンからは日の光を感じることもなく、智哉はどのくらい眠っていたのか、とっさにはわからなかった。


 枕元に置いた携帯を引き寄せ、時刻を確認する。思った以上に眠っていた。


 着信履歴に未登録の番号があり、通話時間が表示されているが、話した記憶がない。


 発信ボタンに指を伸ばす。

 しかし、何と言えばいいのだろうか?どんな要件でしたか?と黒ヤギのように問えばいいのか、智哉は迷って、携帯の画面を閉じる。


 まだ足はふらつくけれど、シャワーを浴びて着替えると、頭もスッキリとした。

 息をついて、再び携帯を手にする。


『すみません、間違えました……』

 耳によみがえる声。


 智哉は動きを止める。



 ピンポーン


 インターフォンが鳴り玄関先に人の気配がする。

 智哉の心に浮かんだ、短い黒い髪とアーモンド型の瞳。


 ドアを開けたそこには、紗知の姿があった。智哉の反応をうかがうように、見上げた目はためらいを含む、ここに来ることに相当な勇気がいったことがわかる。

 けれども、智哉は落胆を隠すことができなかった。


「……先生、体調どうですか?」

 紗知は智哉が期待した反応を示さなかったことでたくさんのことを理解したけれど、またすぐに顔をあげて、頬を緩ませる。


「あぁ、寝たらかなりよくなった」まだ声が少しおかしく、頭はフラフラと回っていて、手や足が重い。

「少し声もよくなりましたね。何か作りますよ?私、いろいろ買ってきたんです」


「……福田さん、もう外は暗いし今日は大晦日だろう?ありがたいけど、もう帰らないと」

「……」

 智哉はわかっていた。紗知が今日、ここにいる訳をわかっていた、だからこそ、部屋にあげるわけにはいかない。

「帰らないと」

 紗知の言葉がこぼれ出る前にドアを閉めようと腕を伸ばす。


「先生っ、私」

 それを制するように、紗知の手が智哉の腕を抑える。しかし、そのまま紗知は顔をあげずに言葉を綴らない。


「……福田さん、やめよう」紗知が望むように手をとるのは簡単だ。

「……お願い」

「福田さん」

「……今日だけ、今だけ一緒にいてくれませんか?先生の熱が下がるまでだけ。心配だから」

 ゆっくりと顔をあげた紗知の瞳には今にも溢れそうに涙が溜まり、頬は紅くなっている。

 智哉は言葉につまり、紗知はパッと智哉の腕をすり抜け、中に入って振り向かずショートブーツを脱いで上がる。

「大丈夫、すぐに帰るから」


「……福田さん」

 智哉はぐっと重くなった肩と足を引きずるように、紗知に続く。


 玄関でのやり取りなどなかったように紗知は微笑み、智哉の体調を気遣い、レジ袋から風邪薬やビタミン剤を取り出す。

 目を合わせようとせず、明るく振る舞う紗知に智哉は抵抗できずにいた。

「ちょっと、キッチン使ってもいいですか?」


「……ほんとに大丈夫だから……」ここに続く言葉を連ねることができない。


 テーブルの上に置いてある携帯が着信音を響かせ、小刻みに震える。先程と同じ未登録の番号が表示されている。紗知がキッチンにいることをちらりと確認して、まだ、かすれる声をさらに小さくして電話に応える。



[はい……]

[……先生?声、変だよ?]

[あぁ]


「電話?病棟から?」

 キッチンにいたはずの紗知が電話に気づいて、かけてきた声を高性能の携帯のマイクが拾い、はっきりと電話のむこうまで伝える。


[……ごめん。ちょっと、挨拶したかっただけだから、病院からってことにしといて]

 智哉の返事を待つことなく、通話は切断される。


 智哉は紗知の顔を見つめる。紗知はその視線を受けることができずに、下を向いて小さな声で言葉を並べていく。


「先生……、私は先生が私のこと好きじゃなくてもいいです。誰もいないなら……、ほんの少しでも私のこと思ってくれるなら、お試しでどうですか?」

 目に涙をためて、おどけて笑う紗知を抱きしめてあげることができればいいのだろう。

 智哉はそうしなかった。そして、彼女の気持ちに否と答えなければならない。そうすることが彼女への誠意なのだろう。


「福田、俺はお前を選ばないよ。気持ちはありがたいけど、応えられない。だから、帰ってくれないか?」


「……そっか」紗知はにこっと頬を緩ませ、その拍子にポタポタと涙が落ちる。

 紗知は涙を拭きながら出ていった。

 ドアの閉まる、パタンという音が響くまで、智哉は顔をあげることが出来なかった。


 智哉は足元がふらつき、頭もはっきりとしないけれど、着替えて、外に出る。

 冷たい空気が心地よく感じることで、熱があることを思い出す。

 風はきつくないけれど、月のない暗い夜は静かで冷たい。


 灯りのついていない門扉には、『close』の小さな看板が出ていた。

 小道の奥も灯りはなく、真っ暗で静かだ。

 飴色のドアは、開かなかった。

 その前で智哉は座り込んでしまう。目はくらくらと回り、頭は痛み、手足は重く、もう立ち上がることができる気がしない。


「……普通に住居侵入だし、ここで凍死したら営業妨害だし……、何してるの?女の子と一緒だったんでしょ?」


「……いや」言葉を発することすらままならずに、息があがる。


「……?」


 何と言えばいいのかわからない。蓮子に紗知との中を誤解されたくなかった。

「なんでもないんだ。彼女とは」


「ふーん、大晦日の夜に一緒にいる女の子が、なんでもないの?」蓮子は智哉の前にしゃがみこみ、智哉の顔を覗き込むように問う。


「あぁ、なんでもない」


「……ひどいなぁ、先生はなんでもなくても女の子はそうじゃないでしょ?追い返しちゃったの?それとも、怒って帰ちゃった?ここには退屈しのぎに来たの?」


「……会いに来た」


「……先生」蓮子はすっと立ち上がり、智哉の腕をとる。


「こんなとこで話してたら、風邪引いちゃうよ。中に入ろうか」

 蓮子の冷たい手が智哉の火照る体に触れて、その冷たさが心地いい。引かれた腕に合わせて立ち上がろうとするけれど、体は思いように動かなかった。

「……あったかい手。先生、声も変だし、風邪引いてるの?」


「……」

 蓮子は、繋いでいた手をパッと離して一歩下がる。


「やだっ、うつさないでよ」


「……ひどいな」


「私が体調くずしたら、お店休まなきゃいけなくなるから、体調管理は最優先事項なの。……いいか、しばらくお休みだし」

 ふらりと蓮子はいなくなり、真っ暗だった店内に明かりが灯される。


 ガチャりと背中で解錠の音が聞こえたと同時にガコンっと後頭部に痛みが走る。


「先生、どいてっ!ドアが開かないっ」

 ドア越しに蓮子の声が聞こえた。



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