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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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雨上がりの請求

 朝からどんよりと曇り、今にも雨があたってきそうだった。

 蓮子はカフェの狭くはない庭や駐車場の掃除を済ませ、今から雨が降るとわかっていながら、窓を拭いた。

 一枚、一枚、固く絞った雑巾で拭いていく。時々、開店前に真喜子が拭いているので、さほど汚れは気にならなかったけれど、磨きあげた窓からの景色はいつもより遠くまで見透せるようだった。


 昼過ぎにぽつりぽつりと落ちてきた雨は、少しずつ強くなり、日が沈んでからも雨足は弱まることはなかった。


 蓮子はドアのベルがなるのを心のどこかで待っていた。

 いつもなら、とっくに店の灯りをすべて落とし、自分の部屋に引っ込むけれど、キッチンの汚れを落としながら、耳を澄ませていた。


 チリリン


「ナツさーん?いますかぁ?」明るい声が薄暗い店内に響く。

 ドアを開けたのは、坂健太郎だった。


「あれ?どうしたの?」


「今、通りかかったら電気がついてたから、ナツさん、まだいるのかと思って、ダメもとでお願いに来たんです」にこりと笑って、手にしていたバスケットを少し持ち上げる。

 中には、白い子猫。背中と左の前足に茶色いぶちがあり、目も耳も小ぶりで、健太郎の手の中でじっとしている。

「なかなか、貰い手が見つからなくて。他の子猫たちはみんな貰われていったんですけど」

「なんだか、元気ないみたい。眠いのかな?」

「そうなんです、あまりじゃれないし、いつもじっとしてるんです。あんまり大人しいんで、何か病気があるんじゃないのかと心配になって、獣医さんにみてもらったんですよ。とりあえず、問題なしで、ただの愛想なしってことです。ナツさん、誰かもらってくれそうな人、知りませんか?」

「うーん、思い付かないね。私は無理だし。明日、実家に行くから聞いてきてあげようか?」

「よろしくお願いします。助かります」

 健太郎の表情がパッと明るく、丸い目を細めて微笑むのを目にすると、期待に応えたくなる。

 動かない愛想なしの子猫を撫でながら、健太郎と来月のチャリティーについて相談していた蓮子は、駐車場に車が停まり、またすぐに出ていったことに気付かなかった。


 窓に雨が打ち付けられていた。





 朝方に雨は止み、雲の切れ間から差し込む日差しで路面の水溜まりが光っていた。

 パシャリと水を跳ねあげながら、車を停める。

 入り組んだ細い道の奥、古い家が並ぶ。長く住み続けているこの地区に蓮子を知らない人はいない。


「蓮子」

 玄関先に出ていた母、紀子が蓮子の車に気づいて、手にしていた箒を持ったまま、微笑みを浮かべる。

 困ったように何かを言いかけてやめる紀子の様子に蓮子は問いかけるように見つめる。

 ふうと大きく息を吐き、ちらりと蓮子の車の隣に停められている、弟、裕之のステーションワゴンを見る。

「何?どうしたの?裕之が来てるんでしょ?瑠奈さんも一緒?」

「うん、そうなんだけど……」

はっきりと言葉にしない紀子は眉間にしわを寄せたまま、手にした箒ですでに掃き清められた玄関先をまた掃き始める。

 そんな紀子をおいて、蓮子は戸を引く。ガラガラと音をたてながら開き、呼び鈴のごとく、訪う者があることを知らせる。


「あっ、姉ちゃん。久しぶり」

 居間に入ると炬燵に足を入れて、テレビのリモコンを握る裕之が少し強張った頬を緩めている。


「お姉さん、こんにちは」

台所から裕之の妻、瑠奈が色の褪せた暖簾の間から、ゆっくりと顔を出す。古い床板をギシギシ鳴らして、まだあまり目立たないお腹を少しつき出すようにそろそろと歩く。

「少しお腹、出てきたね。調子はどう?」

「はい、順調です。もう重くて大変ですけど、まだまだ大きくなるんですよね」

両手で慈しむように撫でる。

「よかった、寒くなるし、気をつけてね。お餅、手伝うね」


 台所の床で餅つき機が大きな音をたてている、その横でならんで餅を丸める。紀子も加わり、瑠奈が明るく話すのを頷きながら、滑らかで柔らかく、熱い餅を形作っていく。


 二階の奥の部屋には、まだ学生だったころのままに蓮子の荷物が置かれている。

 学習デスク、シングルのベッド、タンス、そして、その部屋の押し入れには聡と優樹菜の物が入っている。

 蓮子はそっと押し入れを開き、箱をあける。

 一枚の写真を鞄にしまった。


「ちゃんと、お姉さんに話してよ。なんで言えないの?兄弟なんでしょ?」

「なんて言い出したらいいか、わからなくなって」

「簡単じゃない、建て替えするから、お金出してくれって言うだけでしょ?いっぱい持ってるって言ってたの、裕之じゃない。自分だけピカピカの家に住んで、道楽みたいな店してさ。しかも、同居してるんだし、ちょっとくらい出してくれたっていいでしょ」

「瑠奈……」

 蓮子が幼い頃から過ごしてきた家屋は、床板がきしみ、廊下は薄暗く、台所は底から冷える。若妻には相応しくないのだろう。新しく家族が増える未来に向けて、家屋を建て替える計画があってもおかしくはない。

 蓮子の貯蓄を当てにするのも無理はない若い二人、ましてや、蓮子の父と母と同居するための家屋。蓮子はぎゅっと手を握りしめる。


「……どれくらい出せばいい?私も店を始めるのに、ずいぶん使ってしまったから、あなたたちが思ってるほど、持ってないのよ、ごめんなさいね。具体的に決まったら連絡して。出来る限りのことはするから」

 ふらりと現れた蓮子に驚きながらも、瑠奈はにこりと笑う。

「……お姉さん、聞いてたんですか。まだ細かいことは全然、決まってないんですけど、お金出してくれると助かります」

「姉ちゃん……」裕之はうつむいて、ちらりと蓮子を見るけれど、何も言わない。


「じゃ、私帰るわ。店、あるし。……二階の部屋の荷物はまた片付けるから」

 母の気まずい表情も、姿を見せない父も、すべて納得がいった。

 事故の後、蓮子は保険金や補償金によって貯蓄が膨れ上がった。それは三十前の独り身の女には不相応な金額だった。

 そして、親戚がやたらと増え、金銭の無心を避けるため、また蓮子自身の居場所として、マグノリアはある。


 逃げるように車に乗ってから、丸めた餅を手にしていないことに気がつき、また子猫の貰い手をたずねていないことにも気がついたけれど、あの引き戸をくぐる気にはなれなかった。大きくため息をついてから、エンジンをかけた。





 どんよりと曇り、風に吹かれて庭の木がゆれている。さほど風は強くないにも関わらず、肌を刺すように冷たく、寒い。

「今年も今日までか……」

 蓮子の呟きは誰の耳に入ることなく消える。


 ーー待ってる


 その囁きが耳によみがえり、蓮子は苦笑する。

 携帯を手に取り、ふざけた語呂合わせを思い返し、番号をタップする。

 後は発信ボタンに軽く触れればいいのだけれど、蓮子はそれをできないまま、ぼんやりと眺めていた。


 普段はあまりつけないテレビのスイッチを入れる。わざとらしい笑い声が空々しく響き、静かさが際立ってしまう。


 外は夜の戸張が下りて、月はなく暗い。


『年賀状も出さないし、次に会うのはいつかわからないし、挨拶くらいしておこう』電話をかける理由を探していることに気付き、悪あがきをやめて、発信ボタンに触れた。


 プルルルルルル……、


[はい]

[…………]

 全く聞き覚えのない声に蓮子はたじろぎ、言葉を発せずにいた。

[もしもし?]

[すみません、間違えました]

 携帯を耳から離し、通話終了ボタンに軽く触れると同時に、大きく息を吐く。


 携帯を投げるようにベッドにおいて、改めて気づかされる。

 ーー会いたかったことを。



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