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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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得られなかったものと正されるもの

 街は色とりどりのイルミネーションで彩られ、眩しく輝いき、吹き付ける風は日増しに冷たくなっていく。

 智哉はコートの襟を立てて、体を小さく丸めて足を早める。


 暖簾をくぐり、立て付けの悪い引き戸をガタガタと鳴らして、店に入ると、パッと振り向いた高井駿が立ち上がる。スラリと背が高く、長い腕を挙げた姿は込み合った店内でよく目立った。


「先生っ!遅いっすよ!」切れ長の目を細めて笑い、ジョッキのビールを煽る。


「悪い悪い。こうして飲むの、久しぶりだな?」おしぼりを持ってきた店員にオーダーを済ませ、駿に向き合う。


「そうっすか?」


「何か話でも、あるのか?結婚決まった?」いつも的確な質問や指摘をするけれど、仕事以外のことになると少し自信なさげで落ち着かない様子の顔が浮かぶ。見かけないと思っていたら、他科に異動していた。


「そんなんじゃないっすよ。……いろいろあるんですから。いやっ、そうじゃなくて」駿は残りのビールを一気に煽り、大きな声で店員を呼ぶ。


「何だよ?言いたいことがあるならはっきり言えよ?気持ち悪いな」


「……先生、携帯の番号、変わりましたよね。聞かれたんですよ。内科外来のナースの近所のおばさんの娘さんの同級生の姉から……。前の番号は知ってみえて、教えちゃったんですよ、事後報告になっちゃって、すみません。向こうものっぴきならない事情みたいで……、連絡があると思います」


「……」


 駿の話が誰のことかわからないほど智哉は鈍くはない。心から幸せになってほしいと思う相手だ。精一杯、誠実な対応をしたと智哉は思っていたけれど、満たすことのできなかった人。いつの間にか微笑みは消えて長い睫毛がいつもふせられていた、うつむきぎちだった黒い艶やかな長い髪の人。

「そうか、かまわない。あえて連絡することもないかと思って、そのままにしてたな。……要件は知っているか?」


「いや、それは俺からはちょっとまずいですかね」

 ちびちびとジョッキを傾け、駿は智哉の顔を見ないまま、頭をボリボリ掻いている。


「なんだよ、あまり慣れないことするとほんとに、高井、禿げるぞ?」


「なんなんっすか!マジで気にしてるからやめてくださいよっ!」


 勢いよくジョッキを傾け、駿は智哉を恨めしげに見る。

「先生、嫌じゃないんですか?うっすら笑ってますけど」


「憎くて別れたわけじゃないから、少なくとも俺はね。向こうが、彼女が離婚を言い出したんだから、気まずいのは彼女のほうだろう」


「……浮気して妊娠した妻を問い詰めず、咎めず、離婚せずか……。俺は無理っすね。茉莉子が浮気したら俺、泣くかも」駿はあからさまに顔をしかめ、どんな想像をしているのか、ムリムリっ!とジョッキを傾ける。


「がっかりしたなぁ、俺じゃあダメなのかって」


「なんなんっすかそれ?反対でしょ」何が気にさわったのか、駿は手にしていたジョッキをおいて、智哉を苛立たしげに見つめる。


「反対?俺は精一杯、誠実にやったさ」


「先生は執着がない……。他のヤツに触らせたくないし、離したくないし。俺じゃあダメって、そんな風に思えませんよ。好きな人の、一番になりたいし、特別でいたいもんっすよ?精一杯、誠実にって、教科書みたいにお行儀よくされることって、はいここまでって線引きされて、これ以上は出しません。入らせませんって言ってるみたいなもんっすよ?……何が何でもって強く求めてほしいときだってある」

 赤い顔に充血した目を少し潤ませる駿を智哉は真っ直ぐに見ることが出来ず、手元の焼酎の梅割りをぐいっと口に運ぶ。


「信頼して期待して、それから、裏切りがあって、悲しみが怒りを伴う。信頼と期待が大きければ大きいほど、悲しみと怒りは大きくなる。……先生の信頼と期待がいかに小さかったか」


「……そうなるのか?」


「ならないっすか?」

 問いただす駿は智哉を責めるように言葉を連ねた。


「俺にはわからないな」


「……勝手な独り言みたいなもんっすから、忘れてください。……俺は平原さんみたいに優しく大人の対応は無理っすね」はぁと大きく息を吐き、にこりと笑って飲みましょうと高らかに宣言し、追加オーダーを済ませた。


「高井……、ほんとに禿げそうだな」


「止めてくださいっ!」







 雨は昼過ぎから降り始め、夜になってもまだひどく窓を叩いていた。


 仕事を終えて、雨の中を背中をかがめて、駐車場まで走っていた智哉は、コートのポケットの中で鳴り始めた携帯に、未登録の番号が表示されているのを見て、立ち止まる。

 雨が髪や肩を濡らすのも構わず、じっと見つめた。

 浮かんだのは、冷蔵庫の前に座り込んだ白いうなじの人だったけれど、通話ボタンを押して、聞こえてきた声は、長い艶やかな髪の、満たすことのできなかった人のものだった。


[はい]

[久しぶり、私]

[……里美、元気か?]

[うん、元気。突然、ごめんね]

[いや、かまわない。携帯の番号が変わったこと連絡しなかったから、困らせたみたいだな、悪かった]

[……いいの]

[……どうかしたか?……子供は元気にしてるのか?]

[……うん、元気]

[そうか、もう一歳半だな……]

[覚えてるんだね]

[忘れないさ。本当にすまなかったな]

[……謝らないで、私のこと本当に好きじゃなかったってもう、わかってるから]

[そんなつもりはないんだ]

[うふふっ、また同じね……。調停するから、呼び出しがあると思う]

[……調停?]

[親子関係不在確認調停よ。戸籍を正すわ。もっと早くすべきだったけど……、遅くなってごめんね。血液型でわかるから、何度も呼び出されることはないと思うの、協力して]

[……あぁ、わかった]

[裁判所から連絡があるから。じゃあね]

 明るく光を点していた液晶画面がパッと消え、駐車場の街灯の光に雨が落ちる様子が照らされる。

 携帯を手に、その様子を見つめていた智哉はほんの少しの間、目を閉じる。


 今となっても、どこを正せばよかったのか智哉にはわからない。

 里美は結婚してからも、頻回に実家に戻っていた。智哉は仕事で帰宅が遅くなることも、学会や当直で家を開けることも多く不在がちだ。実家に入り浸る妻に、智哉は全く疑問を持たず、寂しい思いをさせていることを申し訳なく思っていた。


 結婚して一年がたった頃、里美の帰宅が遅いことや、彼女の服からタバコの臭いがすることがあった。

 相変わらず、里美は微笑んでいたし、家は整えられていて、智哉は『どこで何をしている?』と問い詰めることは出来なかった。

 体調の悪い様子に気づいたとき、夏の疲れが出たのかと言った智哉に里美は、青白い顔に長い黒髪がかかるのをそのままにして、嘲笑った。

 その夏は、いつもに増して、二人はすれ違っていた。里美は親戚の法事で長く実家に戻り、智哉は結婚休暇で不在だった同僚医師の穴を埋めるために、とても忙しかった。

 全く身に覚えがない智哉は里美に『妊娠したんじゃないか?』と問い詰めることは出来なかった。


 実家に戻ったまま、全く家に帰ってこない里美。仕事の慌ただしさにかまけて、体調の悪さの理由を問えないままにしていたのは智哉の怠惰だ。

 メールは真実を語ってはいなかった。

 あのとき、疑うことをせず、メールを鵜呑みにして、里美の実家に行くことをしなかった。

 あとになって、里美は言った。少し膨らんだお腹をして、

『私はいなくてもいいんだね』と


 今からでもいいと、夫婦として、家族として三人で始めようと思った。智哉にはその覚悟があったけれども、里美は望まなかった。

『智哉は私のこと好きじゃない』


 智哉の思いは伝わらない。言葉を連ねても、心を込めても、どうしても満たすことが出来なかった。


 雨が前髪の先からポタリポタリと落ち、頬を伝い、顎から落ちる。

 ゆるゆると歩みを進め、車に乗り、エンジンをかける。


 最初の信号を右に曲がった。



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