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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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失ったものと手の届きそうなもの

 ーーママ……


 微笑んでいるとわかってはいても、その顔は白いもやがかかったように霞んではっきりとは見えない。小さな背が走り去るけれど、追いかけることが出来ない。


 ーー優樹菜……、ごめん、ごめんなさい


 優樹菜の声がこだまのように、響く。

 ベッドの中で動けないまま、蓮子は枕を濡らす。

 窓際はまだ少しも明るくなっておらず、引き寄せた目覚まし時計は、蓮子の記憶からほんの数時間したか経っていない。起きるには早すぎるけれど、眠気はなく、木々をすり抜ける風の音を聞いていた。



 何をどう頑張っても、過去は変えられない。誰だって知っていることだ。

 それでも、変えたい、変えることができればと、蓮子は何度も思ってしまう。


 あのとき、

 シートベルトをしていたら聡はここにいたかもしれない。

 チャイルドシートに乗せていたら優樹菜はここにいたかもしれない。

 ……あのとき、シートベルトをしていなかったら、私は二人と一緒にいれたのかもしれない。


 そのままにしないでチャイルドシートを洗えばよかった。

 左車線を走っていればよかった。

 交差点の黄色の信号を止まればよかった。


 思っても仕方のないことだと頭ではわかっってはいても、次々に浮かんでくる。それは消えることなく、とめどなく溢れてきて、蓮子の心を捕らえる。


 泣きながら眠ってしまう蓮子の目の周りは涙でかぶれてしまい赤く腫れている、そこにまた、涙がしみて痛かった。






 雲が低く立ち込め、今にも雨が降りだしてきそうだった。朝から陽がさすことはなく、開店間際になってもまだ薄暗かった。


「ナツちゃん、しばらく店、休もうか」


 めずらしく開店よりずいぶん早くに出勤してきた真喜子はため息混じりに呟く。


「大丈夫です。心配かけてすみません。……でも、ちゃんと準備できてますから」笑おうと顔に力をいれたけれど、うまくいかなかった。


「そうね。今日はね、できてるわ。でも、そんな顔しているあなたを店にはおいておけないわ」


 そんなにひどい顔をしているのだろうか。鏡を覗いた覚えがないので、よくわからなかった。

「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃないし、謝ればすむことでもないでしょう?…………年末年始、長期で休みましょう。ナツちゃん、しばらくゆっくりしなさい。さっ、顔をもう一度洗ってきて」


 起きていても眠っていても、いつも心から離れない彼らをほんの少し霞ませることができるのは、キッチンに立っている時だけだ。



 ゆっくりと何をすればいいのだろうか。一週間以上の休暇の過ごし方を蓮子はまるで思い付かない。とぼとぼと歩みを進め、カウンター席にうつぶせになり、眠っていた大きな背中を思い出す。








 風が強く、時折大きく窓を揺らす音が閉店中のキッチンに響く。


 悪びれる様子もなく当たり前のように、ドアのベルを鳴らした男は、背中を丸めて入ってきた。


「小野寺だな、小野寺蓮子だ。思い出した、三年になるのか、あまりはっきりしたことは覚えていない」

 コートを脱ぎながらさらりと言葉にする。


 小野寺の言葉に蓮子は胸がきゅうと音をたてて締め付けられ、苗字が違ったことに今更ながら気づく。

「……正解。籍を戻したから、夏川になっちゃったんだよね」


「だいぶ、感じが違う。髪型も違うんじゃないか?それに額にガーゼを貼ってた……」メガネの奥の瞳は蓮子に真っ直ぐに向けられていて、遠い何かと照らし合わせるように細められる。


「髪はもっと長かったかな。あの頃の記憶って、はっきりしてるところと、すごく曖昧なところがあって……」


「俺ははっきりした記憶で、思い出したくない記憶ってとこか?」


「……そだね。先生の存在って私の中でなかったことになってたんだよね。なのに、太ってさ、おっさんになっちゃってるんだもん、あの事、認めなきゃいけないって、本当のことなんだって」


「……?」


「先生はね、私に言ったんだよ、残念ですがって……」あっさりとなんでもないことのように言葉にした、若い白衣を着た男の人がまぶたに浮かぶ。記憶の中でも、今もメガネの奥の瞳は変わらない。



「……」


「事故の時のことはなにも覚えてないの、車に乗ってて、渋滞に引っ掛かって停まった、そうしたら次は、大丈夫ですか?って声をかけられて、いろんなところが痛かった」


「そうか」


「次は白い天井、母親の泣き腫らした顔、父親の困った顔。知らない人達が事故にあったことを教えてくれて、声を出したくてもうまく声にならなくて、やっとのことで言葉にしても、曖昧にはぐらかされて、メガネをかけた男の人がはっきり、言ったの。残念ですがって、私、わからなかった、何が残念なのか、わからなかったのよ。両親に聞くと、泣き出してしまって、聞けなかった。悲しませてしまうんだって思うと聞けなくて。……もしかしたら、死んでしまったのかしらって、でも、そんなことないって思って、すぐには会えないから残念ってね。そんなわけないのに、今は会えないだけ。……わかっていたけど、わかってなくて、ずっと。どこかで生きてる、また会える」言葉にすると、その思いがいかに矛盾していることか、よくわかる。現実は心にしみて、キリキリと胸を締め付ける。


 蓮子は自分に向けられる視線に温かさと、優しさを感じる。

 その眼差しに心を支えられるように言葉を続ける。


「頭ではわかっていたけど、心はわかってなかったの。……サンタクロースみたいな感じ?いないのはかっているけど、心のどこかではちょっと信じてるみたいな?」


「サンタクロースの存在を信じていたことがない」優しい瞳は少し細められ、声は茶化すように軽い。


「なにそれ?夢がないし。……夢みたい。ううん、夢だと思ってたかも、いつかは覚める。目が覚めたら、マンションの寝室で変な夢、見ちゃったって聡に話したりして」これは現実だと思おうとしたことすらない。ふわりとゆらりとしていて、いつも現実味がなかった。


「太ったおっさんに現実突きつけられたか」


「そだね」


「……」


「本当に聡も、優樹菜もいないんだね」


「そうだな」


「そうなんだね」


「泣いていいぞ?」


「だから、泣いていいって言われたら、泣くに泣けないんだって……」


 鼻の奥がきゅっと痛くなり、ポロポロと涙が頬を伝い、手や床に雫が落ちる。

 思いがけずこぼれた涙は止まることも、少し大きくなる嗚咽を堪えることができなかった。




 閉店後のマグノリアには、二人の他に誰もいない。夜風が木々を揺らす音と時折走り去るエンジン音、蓮子の嗚咽だけが響いている。

 智哉はそっと蓮子に歩み寄り、その肩を抱き寄せる。

 蓮子はその胸に寄りかかる。

 智哉の柔らかい香りが蓮子の胸に染み込んでいくようだった。



「先生って、何考えてるのか全然、わからない」智哉の腕の中で蓮子は小さく呟く。


「そうか?」


「どうして閉店後に来るの」智哉の顔を見つめては問うことの出来ない言葉を口にする。


「仕事が終わってからだと、閉まってる」


「……私に会いに来るの?」この問いに蓮子は何と答えてほしいのかわかっていない。


「そう」


「にしては、私が泣いてるときに寝ちゃったり、結構、勇気だして話をしようとした時に、あっさり仕事に行ったり」


「おかしいか?」


「おかしいのかな、わからないけど、誰もそんな風に私に接しない、先生くらいだよ。……先生だけだよ、私を可哀想にしないの」


「可哀想?」


「そう、みんなが私に可哀想ねって言うのよ。それで思うの、あぁ私、可哀想なんだって」


「そうだな」


 誰もが腫れ物にさわるように、苦々しく蓮子を扱う。蓮子自身がそれを望んでいなかったとしても、誰もが蓮子を憐れみ、その話題に触れることを拒む。

 だからこそ、蓮子は夫と娘の死に向き合うことがなかった。

 ただ可哀想な人として扱われ、その理由について、蓮子は深く追及する必要にも迫られることがなかった。


 家族の死に向き合うこともないまま、憐れまれる蓮子の心はあの時から、止まったままだった、その時を再び動かしたのは、智哉だったと蓮子は大きく温かい胸の中で思った。





 車のエンジン音とドアの閉まる音、話声が聞こえて、店のドアが勢いよく開けられ、いつもより荒々しくドアのベルが響く。


「おいっ!いるんだろう?」ペタペタと草履で歩く音が聞こえる。


「美鶴ちゃん?どうしたの?」蓮子は智哉からパッと離れ、声のする方へ向かい、智哉は苦々しく笑って、その後に続く。


「来んなって言っただろう?なにしてんだよ」

 美鶴は智哉を睨み付ける。


「なっ、何にもしてないよ。美鶴ちゃん、怖いし、そんなに睨まなくてもいいからっ」


「ママ、もうっやめてよ。こんばんは、蓮子さん、いつもママがお世話になってます」

 小さな頭をペコンと下げて、くりくりの丸い目で蓮子を見つめる凛はにこりと笑う。そんな凛に諌められ、美鶴は口を閉ざす。


「凛ちゃん、こんばんは、久しぶりね。元気だった?」


「はい、元気です。蓮子さん、ごめんなさい。ママが急に店に行くって言い出して」


「いいよ、いつでも来て?最近、全然来てくれなかったから会いたかったよ?」蓮子は凛に歩み寄り、その前に座り込み、凛の小さな顔を覗きこむ。


「本当に?ママが凛に会うと蓮子さんが辛いって言ってたから、心配だったの、凛、何か悪いことしちゃったかなって」凛の目が伏せられる。蓮子は凛の隣に立つ美鶴に問うような視線を送る。


「だって、沢さんが、ナツさんが辛いだろうからって、死んだ娘のことを思い出すからって言ったんだよ」


 蓮子は大きくため息をつく。

「……私はどうすればいいのかしら?どんな態度をとれば、周りの人たちを納得させられるのかしら?」


「蓮子さん、泣かないで」凛の小さな手が蓮子の頬を伝う涙を拭う。


「ナツさん、ごめん」

 美鶴の声は小さくかすれ、苦いものでも飲み込んだように歪む。


 ふるふると、頭をふり蓮子は大丈夫だから、そう呟いて涙を止める。


 何度も謝って、何度も振り返る美鶴と凛を見送る。





 困ったように微笑む蓮子の表情は、二人が出ていったドアのベルが鳴りやむ前に大きく歪む。


「また、不細工になってるぞ?」


「……ほっといてよ、どうしたらいいのよ、誰も忘れてはくれないのね。誰も許してはくれないのね」


「許す?いったい何を?誰に許してほしいんだ?」

 智哉はゆっくりと歩みよりその腕の中に蓮子を収める。その温もりに蓮子は身を委ね、瞳を閉じる。


「みんなよ、みんな私を許さないのよ。……お母さんも、お父さんも……、沢さんも美鶴ちゃんも。……私のせいで、二人はいなくなって、私のせいで、みんなに悲しい思いをさせているのよ」


「……許すとか許さないという話じゃない。誰かが悪いわけじゃない。ただ、誰も忘れない、それだけさ」


「……そうね、忘れない。私は聡のことも優樹菜のことも忘れることなんてないもの」微笑む顔がまぶたに浮かび、胸がギリギリと痛み、絞り出した声は掠れてしまう。


「……周りの人間も忘れはしない、あんたを可哀想な人として扱うだろうさ。でも、それは受け入れざるを得ない」


 智哉の声がほんの僅か冷たさを帯び、体が強張るのを腕の中の蓮子は感じた。


「……先生?」

 見上げた智哉の顔は冷たい笑みが浮かび、視線は真っ直ぐに前を見ていたけれど、瞳には何も映っていたいようだった。

 

「忘れないけれど、記憶は薄れていくものだ。ふとした拍子に濃くなることもあるけれど、新たに増えていく記憶に紛れ、少しずつ薄くなる。それは自分も周りも同じことだ。……時間が、時間だけが解決する」

 その言葉は蓮子だけでなく、自分自身にも言い含めるように智哉は、視線を床に落とし、大きく息を吐く。


「時間か……、私の時間は止まってたから、まだまだかかるのかなぁ」


「さあな。……頭でわかっていても心はついていかないこともある。焦ることでもない、ゆっくりでいいさ。悲しいときは泣く。辛いときは嘆く。無理はするなよ。……不細工になるからな」


「……不細工って」

 蓮子の目にはまた、涙が溢れて頬を濡らす。

 智哉に出会ってから、泣いてばかりだけれど、いつも泣くことを止めようとしていた。

 肯定された涙は、蓮子の心の中の何かを溶かすようだった。


「電話しろよ、いつでもいい。番号、覚えているか?」

 蓮子はふざけた語呂合わせを思い出し、首を縦にふる。あのときの耳元にこぼれた智哉の声は、今、腕の中から聞くより更に甘さを含んでいた。


「電話すると、どうなるの?」


「なんとでも」


「何それ?来てって言えば来るの?」


「可能ならば」


「可能ならばね……、なんだか中途半端。ここはいつでも何をおいてでも来るって言うところなんじゃない?」


「仕事中は無理だな」


「ふふふ、患者さんほっとけないもんね」


 温かく柔らかく包んでくれる腕を欲すれば、得られるかもしれないという。

 蓮子は腕を伸ばして智哉の体にまわし、頬を押し付け、ぎゅうっと力をこめる。そして、柔らかな甘い香りをいっぱいに吸い込んだ。

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