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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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美鶴の憤怒

「なんなんだよ!あいつ」

 美鶴は奥歯を噛みしめる。冷たい風が襟元をすり抜けても、苛立ちが強く、寒さを感じなかった。

 走り去る車に唾を吐きかけたい思いにかられたが、後ろから真喜子の声が聞こえて寸前でとどまった。


「美鶴ちゃんっ、ちょっとやり過ぎだから」


「わたしは、絶対にあいつにナツさんを渡さない、絶対に守る」


「何言ってるのよ」


「あいつのやってることはおかしい!ナツさんのことを大事に出来ないヤツは認めない」


「あぁ、もうわかったから、中に入ってよ、片付けしないと帰れないわよ。凛ちゃん待ってるんでしょ? 早く帰らないとね」

 真喜子は美鶴の袖を引いて、店に戻っていく。美鶴も後についてあるく。



 美鶴は六歳の娘、凛と二人暮らしだ。

 こうして夜、家を空けるのはマグノリアがチャリティーのために営業をする時だけになったことを凛はとても喜んでいる。


 一年半前までは毎晩、美鶴は凛を一人おいて夜中の牛丼屋で働いていた。


 すっかり陽が昇ったころに仕事を終えてアパートに帰る。

 眠っている凛を起こし、食事をさせてから、保育園に送っていき、そして、美鶴は眠る。

 朝と夕方、凛と過ごす時間はいつもあっという間にすぎる、夜、一緒に布団に入り、眠る凛の小さな手を離すことがとても辛かった。


 ーー凛が朝まで目を醒ましませんように


 毎晩、祈るように布団から抜け出した。



「ママ、凛ね。公園の近くに出来たお店に行ってみたいな」保育園からの帰り道に凛がニコニコ笑いながら言う。

「なんの店?」

「お茶とケーキが食べられるんだよ、とってもおいしいよ」

「凛、食べたことあるみたい」

「食べたよ!売れなくて捨てちゃうからって、もらったの。お姉さんが持ってきたんだよ、ママにも食べさせてあげたかったよ、とってもおいしいんだから」立ちどまって凛は美鶴を見上げて笑う。

「うん、行こう」


 美鶴はその約束をずっと忘れたままだった。思い出したのは、凛がいつの間にかいなくなっていまた土曜日の午後だった。

 


 凛がいない。


 仕事から帰って凛の横で眠りについた、目が覚めたときには、隣の布団は空っぽですっかり冷たくなっていた。

 時刻はすでに昼を過ぎていて、寝室の他には居間と台所しかないアパートには凛の姿は見当たらない。

 すぐに帰ってくると思って美鶴は全く心配していなかった。けれど凛は、いつまでたっても帰って来なかった。

 アパートの周りや、凛の行きそうな場所を見て回るけれど、凛はいない。

 美鶴の鼓動は、どんどん早くなる。



 もしかしたらと心によぎった会話の欠片。

 車に乗り、公園を東に入ったところにあるカフェに向かう。


 ドアを開けるとチリリンと優しい音が響いて、カウンター席に凛がいた。


「あっ!!ママ!起きた?」

 にこっと笑う凛の姿に心配していた気持ちが一瞬にして苛立ちに変わる。


「凛っ!」


「怒らないであげて」後ろからかかった声に振り上げた右手が止まる。


「あんたは黙ってな」

 手を下ろして、振り返ると痩せたショートカットの女が立っていた。


「そうはいかないかな、凛ちゃんとってもいい子だから、ママのことが大好きないい子だから、怒らないであげて。お仕事頑張ってるママが寝てるから起きる前に帰らなきゃって、おいしいケーキを食べさせてあげたいって、買いに来てくれたの」ニコニコと微笑みを浮かべ、美鶴の前に立ち、そっと右手を押さえる。


「……」手をあげてしまいそうになったことの後ろめたさに、顔をあげることも、言い返すこともできなかった。


「私は、夏川蓮子、よかったら一緒に働かない?」


 それが、蓮子との出会いで、美鶴がマグノリアで働くきっかけとなった。

 そして、真喜子は美鶴の採用を機にランチメニューを新たに始めた。


 チラリと美鶴を見た真喜子は言う。

「草履で店に来るのやめてくれる?」





 カフェでの仕事は穏やかだった。アルコールを帯びた客も、代金を払わずに帰ろうとする客もいない。驚くほどあわただしくはあるけれど、美鶴はここで働けることに感謝していた。


「美鶴ちゃん、店に凛ちゃんを連れてくるの、ちょっと控えてくれる?」

 土曜日は時々、凛を伴って出勤していた美鶴に真喜子は困ったように笑いながら言う。

「邪魔だった?」

 凛は大きな声を出したり、走り回ったりすることはなく、いつもカウンターのすみに座って本を読んでいるか、庭のすみで遊んでいる。

「そうじゃないの。ナツちゃん、なんにも言わないけど、旦那さんと娘を事故で亡くしてね、娘さん、たぶん凛ちゃんと歳、変わらないのよ。だから、見てたら辛いんじゃないかと思って」


「はあ、そういうことなら、凛は保育園に連れていく」


 凛を見て、ニコニコしながらケーキを食べさせている蓮子からは、辛さや苦しさを感じたことはなかった。美鶴はそのような事情があることを全く知らなかったし、気付かなかった。



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