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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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重要度と優先順位

 

 最初の信号を右に曲がってしまった。


 仕事を終えて車に乗ると、ふと心に浮かぶ笑顔と泣き顔。


 公園を東に行くと、マグノリアの駐車場はいつになく車でいっぱいだった。

 門扉には、『open』の看板があり、店内は煌々と灯りがついて、たくさんの人の気配であふれていた。

 ドアのベルは、いつものように優しく響いた。


「いらっしゃい」丸顔の店員がにこりと笑い、いつもは夜間の営業はしていないこと、今日の営業の主旨を説明する。


「今夜はチャリティー営業です。二千円いただきます。飲み物はこちらから一本、食事はあちらのテーブルから一皿持っていって下さい、募金箱はここに」指差した先には、ふわふわの毛並みにくりくりの瞳の子猫の写真を張り付けた箱があった。


 いつもとは、雰囲気がまるで違う。たくさんの客、テーブルやカウチのレイアウトが異なる、営業中のマグノリアより閉店後のここになじんでいるからか智哉はため息をつきながら、カウンターの角に腰を下ろした。


 ほどなくして、店内の奥に設えたステージから、アコースティックギターの音が響き、50代くらいの男性が弾き語りを始めた。

 静まる店内に響く歌声は、少し掠れていて、切ない歌詞と、ギターの奏でるメロディーにしっとりと馴染んでいた。

 ギターの響きが静かに消えると、店内から拍手がなり、またざわめきが戻る。


「沢さん、美鶴ちゃん、今日もありがとうございます」にこやかに話しているのは、前に見かけた常連客。長い前髪をかきかあげたその瞳は丸く、募金箱の猫のように人懐っこい笑顔でいっぱいだった。


「お礼なら、ナツちゃんにね」


「ナツちゃん、ありがとう。いつも助かってます」男がキッチンに向かって声をかけると、青白い顔をした蓮子が出てきた。


「いいの、いいの。みんなだってボランティアだし。ホントに私は全然、ちょっとおつまみ作るだけだもの。沢さんと美鶴ちゃんが一番大変だから」蓮子はにっこりと微笑む。

 カウンターの角から、その様子に聞き耳をたてていたことに智哉は気付き、また、ため息をついた。

 蓮子は智哉に気付いていないのか、気付いていて、声をかけないのか、智哉にはわからなかった。

 居心地の悪さに耐えかねて立ち上がる。


 にこやかに談笑する蓮子達の脇を抜けて、店を出たところで、後ろから声がかかる。


「当てが外れたかしら?」


「……何のことですか?」智哉は振り返り、声の主に向き合う。微笑みを浮かべているけれど、店の明かりを背中に受けて、詳細をうかがい知ることはできない。


「ナツちゃん……、蓮子さんに野良犬にエサをあげないように話しておくわ」


「……それはどうも」智哉は踵を返す。



「おい、待てよ。それだけかよ!」草履をペタペタならして走り寄ってきた女からも声がかかる。

「ちょっと、美鶴ちゃん、だから草履で来ないでって……」

「沢さんは黙って。あんたどういうつもりなんだよ、ナツさんに何したんだよ?」


「何もしてない」


「何もしてないわけないだろう?あんたくらいしか思い付かない。ナツさん、泣いてばっかりだ」


「……」泣いている蓮子の隣で眠ったけれど、それは何かしたことになるのだろうか。


「何か思い当たることがあるんだろぅ」声が低く響く。


「ちょっと、美鶴ちゃん、やり過ぎ。もうあっち行ってなさい。あんたがいるとややこしくなるわ。蓮子さんに会いたいなら、営業中に来てくれるかしら?」


「……過保護だな」


「ちょっと、心配なだけよ」


「心配は、自己満足じゃないのか」ニヤリと笑った智哉の顔は店内からもれる光に照らされる。


「そんな簡単なことじゃないのよ」


「難しくしているのは、周りの人間なんじゃないのか?」


「なんにも知らないくせに、偉そうなこと言うな!」


「なんでも知ってる口振りだなぁ」


「うるさいっ、少なくともあんたより知ってる。あんたに何がわかるんだ。ナツさん、旦那も子供も亡くして、ずっとがんば……」

「美鶴ちゃんっ」

 鋭い声に遮られたけれど、智哉はその言葉が意味することがわからないほど、鈍くはない。


「亡くした……」


「声、大きすぎでしょ?美鶴ちゃん」店からフラリと蓮子が出てきた。


「ナツちゃん……」


「ごめんなさい、沢さんにも美鶴ちゃんにも心配かけちゃって。でも、本当に何をされた訳じゃないの、全然関係ないの。私がちゃんとしてないから」店の明かりを背負う蓮子の表情はわからなかったけれど、声は今まで聞いたことのない冷たい声だった。

「そんなわけないだろ、ナツさん、そいつのことかばってんだろ?」

「美鶴ちゃん、もういいから、あっち行ってなさい」


「沢さん、ちょっと、話ししてきてもいいですか?」

 丸い顔がしっかりと頷いたのを見て、蓮子は智哉のそばにより、右の袖を掴む。

「……」

「こっちに来てくれる?」

 ほんの僅かに震えていることが智哉にはわかった。


 夜が深まるにつれ、気温が下がり、月の光は冷たさを増す。

 かさついた頬とひび割れた唇、ぼんやりと前を見つめる蓮子の震えは寒さからだけではない。




「先生は、私の主治医だったんだよ」


 月の光を受けて、木蓮の先の綿毛を被った芽が銀色に煌めいている。


「……」

 記憶の中をどれだけ探しても蓮子はいない。

 智哉を見て、蓮子はにこりと微笑む。


「やっぱり覚えてない?三年前の春だよ」意を決したように蓮子は瞳を閉じて、大きく息を吐く。


 携帯の着信音がけたたましく鳴り響く。


智哉はコートのポケットから聞こえている電子音を気づかないふりをすることができなかった。


蓮子から少し離れ、その音を止めて耳に当てる。


[はい]

[あっ?西口先生今日、待機ですよね?さっき、救急車来て、今から緊急手術になりそうです。すぐに来てください。大丈夫ですか?どれぐらいで?]

[はい、わかりました。15分くらいで行きます]


 蓮子の瞳が真っ直ぐに智哉に向けられて、問いただすように、揺れている。


「この続きはまた今度、今から病院に戻らないといけなくなった」


「……」蓮子は目を丸くしている。


「何か書くものもってるか?」

 智哉の問いの意味もつかめず、ただ蓮子は首を振る。


「よし、覚えて、いいか?090-2469-11**、小の月だぞ?」


「は?」


「西向く侍だ、携帯の番号。電話してくれ、待ってる。話が途中だからな」


 呆然と立ち尽くす、蓮子の耳元でもう一度呟いた。


 ーー待ってる



 蓮子に背を向け車に向かう。

 南の空に白い月がぽっかりと浮かび、その白さが冷たく門扉を照らしていた。



「おいっ!ちょっと待てよ、ちゃんと話をしたのか?逃げんのかよっ!」

 草履をペタペタならして走り寄ってきた。


「仕事だよ。逃げる訳じゃない」


「ふざけたこと言うな、あんた仕事とナツさん、どっちが大事なんだよ」



「優先順位の問題で、大事か大事じゃないかの問題じゃない」


「ワケわかんないこと、言うな」

 声が低く響く。


「急ぐから」


「二度と来るな、ナツさんを大事に出来ないヤツは来るな」


「それは、あんたの決めることじゃないだろう?ナツさん、……蓮子さんの決めることだな」

 今にも殴りかかられそうな雰囲気がおかしく、もう少し話していたかったけれど、智哉は車に走らせた。





 白い月が離れることなく、ついてきて智哉を照らす。



 ーー蓮子……、夫と子供を亡くした……。


 記憶の奥で、微かによぎる何か。


 ーー三年前。


「……小野寺、小野寺蓮子だ」


 交通外傷、肝損傷。

 早朝の高速道路で玉突き事故。助手席の同乗者は車外に放出。

 肝損傷は手術の必要はなく、保存的に経過を見て、整形外科に転科。


 蓮子が智哉の記憶の中の蓮子と同じ人物であるなら、あまりにも雰囲気が違う、もう少し丸顔で長い髪だった、しかも、智哉が見たときは、事故の直後で額に、傷があり、大きくガーゼで覆われていた。


 三年前の記憶は曖昧で、何かを話した記憶もない。蓮子の記憶の中に残るような出来事があったのだろうか。


 



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