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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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真喜子の懸念

 


「お義母さん、いってらっしゃい。よろしくお願いいたします」

 デイサービスの迎えのワゴン車に乗せられ、姑はむっつりと出掛けていく。

 紺色のジャージの上下に、化粧っけのない職員の笑顔とは対照的でいつも笑ってしまう。


 沢真喜子は、走り去る車を見送り、抜けるように澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。冷たさを含んだ初冬のそれは、ひどく心地よかった。


「さてと、仕事仕事」



 真喜子の仕事は、カフェの店員だ。

 また、コーヒーを淹れることで収入を得るようになるとはおもっていなかった。





 小高い丘にある静かな住宅街の一角に真喜子の家はある。

 その近くの公園の少し東に入ったあたりに、建設されていた建物がカフェだと聞いてから、完成と開店を心待ちにしていた。


 朝、姑をデイサービスへと見送り、開店直後のカフェに足を向けた。

 漆喰の壁、吹き抜けの天井に黒い梁、店主のこだわりがうかがえる雰囲気に期待が高まる。内装も落ち着いていて、カウチやテーブルはゆったりと、十分な間隔をあけて据えられている。

 30代前半の若い女性が一人で切り盛りしているらしいので、席数を調整しているのだろうか。


「ブレンドコーヒーを1つ、後、チョコレートケーキも」

 水とおしぼりを持ってきた店員に声をかける。


 ほどなくして、運ばれてきたコーヒーは、まず、ぬるい。酸味が強く香りもよくない。

 とてもとても、人からお金を貰っていい代物ではない。

 真喜子は、頭の奥が痺れてきた、無性に腹が立った。

 気を取り直して、フォークを手にしてチョコレートケーキを口に運ぶ。

 ほどよい固さで、しっとりと重く濃厚なチョコレートの香り、それでいて後口は甘すぎない。

 ーーケーキは美味しい。


 ますます、腹が立った。


 開店間もない店内は、真喜子の他に客は居なかった。この時、もしも他に客がいれば、真喜子の暮らしも、カフェマグノリアも、今とは大きく違っていただろう。


「ねぇ、ちょっといい?あなた、何?このコーヒー、これでお金貰おうなんて、ふざけてるとしか思えないわ。これ、ここの豆は、栄町の吉田やさんのでしょう?どうしたら、ここまで不味く淹れられるのかしら?」


 若い女性の店員は、目を見開き驚きを隠せない。ふるふると小さな唇を震わせ、真喜子をじっと見つめる。


「お願いします!一緒に働いてください!」深々と頭を下げられてしまった。


「……ふざけないで、そんなに簡単になんでも上手くいくと思っているわけ?」


 何でも思い通りにいくわけがない。この若さで、これだけのカフェを持てるという、それだけでも苛立たしい。しかも、コーヒーが不味い。それを指摘した真喜子に丸投げしようとするその心構えが、また苛立たしい。


「お願いします」

 下げたまま頭をあげようとしない。


「……人に頼らないで自分で何とかしなさい」


「……お願いします、一緒に働いてください」頭は下がったままだ。



「とりあえず、どんな風に淹れているのか見せて」


「ありがとうございます」パッと顔を上げた女は、夏川蓮子と名乗った。短い髪の頭の小さな、痩せた女だった。



 ネルドリップは味にムラが出やすく、また少量での抽出はむずかしい。

 質のいい豆を使うのなら、ネルドリップは香り高いコーヒーが淹れられる。多少の手間はかかるが使い回しができるため、経済的でもある。

 しかし、長所を生かすためにはいつも同じ味を提供するための技術が必要になる。



 大きな傷の痕がある右手に握られたドリップ用のポットがプルプル揺れる。

 3杯分の抽出で約500ml、ポットの重量を入れてもたいした重さではないが、注ぐ湯量が安定しない。


「……それでよくカフェなんてしようと思ったわね、あきれた」

 ため息がこぼれた。


 真喜子は姑の介護のために永年経営してきた喫茶店を閉じた。経営は問題なかった。しかし、店舗の老朽化は否めず、改装の話が出たけれど、老後の資金にと考えていたサラリーマンの夫はいい顔をしなかった。

 そうしている間に、姑の介護をしていた舅が他界。真喜子は店を閉め、姑の介護を任されることになった。


「……ほんの短い時間でもいいです」


「お客さんは営業中、ずっとくるのよ?」


「営業時間を短くします」


「それじゃあ、経営が成り立たないでしょう?」


「私の給料はなくてもいいです」


「あなた、働くってこと舐めてるの?」


「そんなつもりじゃないんですっ!」

 蓮子はカフェを始めた経緯を話し始めた。その口調は淡々として、誰かから聞いた誰かの話のようだった。


 蓮子の語った経緯は羨ましいものではなく、同情するべきところはある。

 しかし、だからといって不味いコーヒーを出してもいいということにはならない。

 それとこれは別だ。


「しっかり働いてちょうだい。きっちりお給料いただきますから、そのつもりで」


「ありがとうございます。頑張ります」

 アーモンド型の目をほんの少し細めて笑う蓮子は、とても嬉しそうだった。


 何故、そんな風に笑えるのか、真喜子は不思議に思った。








 どれくらい前からだろうか、蓮子の様子がおかしい。

 真喜子が店を手伝うようになってから、朝の開店準備を蓮子が怠ることはなかった。


 ランチの仕込みが十分でなかったり、ケーキがいつもより少なかったりする日がちらほら見られた。

 体調でも悪いのかと様子を見ていたけれど、今朝の蓮子は見ていられない。


「ナツちゃん、どうしたの?」両目をパンパンに腫らして、視線は定まっていない。

「……夢を見て、涙が止まらなくて……。そのまま寝過ごしてしまって……、ごめんなさい」


「……旦那の夢?」


 コクリと首を立てに振る。

「最近、眠れなくて。夢を見てばかりで……」


 ふうと大きくため息がこぼれた。


 今までこんな日が来なかったほうが、おかしいのかもしれない。


「ケーキも焼いてない、ランチの仕込みもできていない。これじゃ、営業できるわけないわ、臨時休業ね」


「この間の土曜日も休んだばかりなのに」


「そうね。でも無理でしょう?何を出すつもりなのよ。最近、どうしたの?法事でなにかあったの?誰かに何か言われたの?」


「法事では何も」

 蓮子の瞳がフラりと揺れたのを見て、真喜子は蓮子にはわかっているのだと知った。


 思い当たることは一つ。

 マグノリアに一人で来店する男性客は珍しい。ほとんどが女性客、もしくは女性に連れられる男性。


 あの大きな背中を少し丸めたメガネの客を見たとき、蓮子の表情が変わったことを今からながらに思い出す。その時は釣り銭でも間違えたのかと気にも止めなかった。

 しかし、あのとき何かあると気付いていたとしてもどうすることもできなかった、二人は出会ったのだから。


 ーーとにかくちょっとなんとかしなきゃね



「おはよーございます」

 佐々木美鶴がスリッパをペタペタならして店にやってきた。


「美鶴ちゃん、草履で出勤しないでって前から言ってるでしょう?」


「あー、はいはい」

 美鶴は長い髪を後ろで束ねながら、小さく舌打ちをして顔をしかめる。

 その美鶴の態度に真喜子はため息がこぼれた。


「今日は臨時休業ね」


「え?なんで?」


「店を開けられる状況じゃないわ」ちらりと蓮子に目を向けると、カウンターのスツールにぼんやりと座ったまま、美鶴が来たことにも気付かない様子だ。


「ナツさん、なんかあった?」

 美鶴が怪訝そうに真喜子を見下ろす。


「何があったのか……、何もなかった今までがおかしかったのか。ナツちゃんは心当たりがあるみたいよ、言わないけど。美鶴ちゃん、何か知ってる?」


「え、特にはなんにも。……そういえば、この前、店の前に車が停まってた。誰か来てた?明かりがついてたし、ナツさんのツレとか?」


「今までに、誰か来てたことがあった?」


「ない、わたしは知らない」


「閉店してから来てる誰かね……。イイ人ができたなら、それはそれでいいけど、イイ人って感じじゃないわね、あの様子じゃ」


 持ち直せばいいけれど、あまりにも楽観的だ。蓮子の想いは蓮子にしかわからない。助けてあげたいが、周りはどうすることもできない。ただ、眺めているしかない、それがとても辛くても、それしかないのだと、真喜子は知っていた。



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