隠しきれないキモチ
「丸野、あんた、西口先生と何かあった?」
休憩室には深夜勤務を終えて、とっくに帰ったはずの、平原綾音がコーヒーを手に、いつになく真剣な目をして、問いかけてきた。
木枯らしの吹き付ける外とは裏腹に、7階南の外科病棟の休憩室は、暑いくらいに暖房が効いていた。丸野愛梨の背中にじんわりと汗が伝う。
「何かって、何ですか?」なんでもないことのように声が上ずることなく言えた。
朝、西口智哉が病棟に入ってきたとき、なるべく見ないように、表情が変わらないように、十分に気をつけていた。
愛梨を見つめる綾音の視線を受け止められず、手元に視線を落とす。胸の音が耳にこだまする。
「……わかりやすいにも程があるわ」ふうっとため息混じりに言う。
「……え?」
「付き合ってるんでしょ、で?何て言われたの?前からおかしいとは思っていたのよね」
言葉を発せずにいると、綾音は困ったような笑みを一瞬浮かべ、興味津々に身をのりだし言葉を重ねる。
「教えてくれないと、あることないこと言いふらすよ〜、教えてくれたら、内緒にしとくけど?」
「……平原さん、困りますぅ」
どうして綾音にばれてしまったのか、愛梨には全く見当がつかない。彼が話したのだろうか?
「いいじゃない?教えてくれたって、減るもんじゃないし。それとも口止めされてるの?付き合ってること」
愛梨は、首を振る。むしろ逆だった。
「……友達に彼氏ができたって言ってもいいって聞いたら……、いいよって」思い出すと恥ずかしい。顔が熱いのは、暖房のせいだけじゃない。
「はぁ、ベッドの中でってトコかしら?」
「!!」一気に、両頬が熱くなる。
そういうことをサラリと言う綾音を愛梨は羨望の思いで見つめる。
綾音は長い髪をさらさらと手ですいて、ひとつに纏めている。愛梨はその白く細いうなじ、柔らかそうな頬に触れてみたくなった。
愛梨は24才だけれど、後5年、綾音と同じ歳になっても、あんな風になれる気がしない。
「私も、平原さんみたいにキレイだったら、よかったのに」
「ん?西口先生は丸野がいいって思ってるわよ」
『愛梨はそのままで可愛いよ』言葉が耳によみがえり、頬が緩む。
そんな愛梨に綾音は半ば、呆れたように、言葉を続ける。
「西口先生って、どんな感じ?」
「……優しいです。短いですけど、メールもしてくれるし、忙しいのわかってますから、どっか出かけるのは、なかなか無理ですけど。部屋の鍵を……」愛梨は、聞かれてもいないことを、話していることに気付き、ハッとして、綾音を見る。そこには、頬を緩ませた美しい顔があった。
「誰かに言いたかったんでしょ?内緒にしとくから、思う存分、話していいよ。丸野がみんなに話してほしいなら、そうするけど」。
「いや、みんなには言わないでください。恥ずかしいです」
「だったら、もう少し気を付けないと、すぐにばれちゃうよ」
病棟のみんなに知れわたれば、智哉がどんな態度をとるか、愛梨には全く想像がつかない。困るだろうか。怒るだろうか。
愛梨の心のなかに浮かぶ、智哉はいつだって微笑んでいて、怒りを露にすることなどなく、きっと、困らせてしまうのだろうと思った。
愛梨は智哉の優しい微笑みと、温かな言葉を思い出す。
智哉は愛梨が泣いているとき、いつの間にかそばにいてくれた。
患者の死を受け入れられないとき、師長や先輩に叱責を受けたとき、智哉はそばで、一言、二言、言葉をかけ、微笑む。それはとても短い時間だったけれど、愛梨が智哉を意識するのには十分な時間だった。
愛梨が智哉から目を離せなくなった、あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
智哉の大きな厚い手が、いつまでたっても涙を止めることのできない愛梨の頭上にぽんと乗せられ、「丸野さんは、よく頑張ってるよ、いつだって、一生懸命だね」智哉にしがみついてしまいそうになるのを必死でこらえた。
誰もが、もっとしっかりしなさい、もっと頑張りなさい、そう言われいた愛梨は、どうすればいいがわからなくなっていた。
愛梨にとって、智哉の言葉は、自分を唯一、認めてくれたようで、自分を見ていてくれたようで、愛梨の胸はきゅうと音を立てた。
病棟に現れる広い背中を、愛梨はいつも待っていた。
智哉の広い背中、暖かな胸、微笑んで、抱き締めてくれる腕の中を思うと胸がドキドキしてくる。
綾音の笑う声が小さく響いて、パッと顔をあげると、困ったように呆れたように、微笑む顔があった。
「すっ、すみません」
「何を思い出してたの?ニヤニヤしちゃって。楽しそうでなによりね」
「……はい」
「結構、腹黒いからなぁ〜、西口先生って」
「腹黒いですか?そんな風に思ったことないです」自分より智哉のことをよく知っているような口ぶりに、胸の奥がギシリと音を立てる。まだ、始まったばかり、焦ることはないと言い聞かせても、やはり、いい気はしない。そんな愛梨の心を見透かすように綾音は言う。
「私、結構付き合い長いのよ。先生となかのいい同期とちょっとね……」
「……あぁ、平原さんの付き合ってた先生って、西口先生と仲良いんでしたねっ」
「丸野……、少しはオブラートに包んで、遠回しにね……」綾音が少し困ったように眉をひそめて、すぐに口角をあげて微笑む。
「別れちゃったんですよね……?」
「きれいさっぱりね。でも、前に付き合ってたって冠はずっとついて回るのよね。わかってたつもりだったけど、あんまり、いい気はしないね。まぁ、彼のほうも同じだと思うけど。……丸野も他人事じゃないわよ」綾音は肘をついて、頬を手で支え、上目遣いに愛梨を見つめ、口元を緩ませている。
そう問われる意味を掴みかねて、しばらく返すべき言葉を見つけられないまま、立ち尽くしていた。
愛梨が智哉と別れると、愛梨自身が『西口先生の元彼女』と言われるようになるということだ。始まりがあれば、終わりがあるけれど、それを今、問われることはあまりに突飛で、苛立ちもするし、悲しくもある。愛梨は自分の唇がツンと突き出たことを自覚していなかった。
「ウフフっ、丸野ってほんとに心の声、ただ漏れ!付き合い始めにそんなこと言われなくないよね、ちょっと意地悪しただけよ。それに結婚ってことになったら、西口先生の奥さんって呼ばれるのよ?」
「……けっ、結婚?!そんなそんなこと、全然っ!」綾音の突然の指摘にせっかく引いた、顔の火照りが再び舞い戻り、胸がドキドキする。
全く考えていないというより、愛梨自身が考えないようにしていた。付き合い始めてすぐに、結婚を考えてしまう自分が何より恥かしく、重くなりそうで嫌だったから。その気持ちまで、綾音に見透かされていたのかと思うと益々、恥ずかしくなる。
「ハハハ〜、丸野ってほんとにっっ」
「平原さんっ!からかわないで下さいっ!」綾音は声を押し殺すように、肩を震わせて笑う。休憩室で大声では笑えない。
「ゴメンゴメン。笑うことじゃないよね」はぁ、と大きく深呼吸をした綾音は、何かを思い出したように笑みを消して、すっかりぬるくなった手元のコーヒーを口に含む。そして、ゆっくりと飲み下す。
「まあ、先生もバツイチだしね、結婚ってなると、ちょっと慎重にはなるかもね」
愛梨は誰かからの噂話で智哉の離婚を聞いた。智哉自身には、何も聞くことはできていない。気にはなるけれど、聞けない。離婚してから、半年以上は経っていて、どんな理由かとても気になる。
それでも、聞いてはいけないような、智哉に聞かせたくないような雰囲気がある。それを押してまで問いただす、勇気はなく、また必要も感じていない。
智哉は愛梨にとても優しく、何の不満もないのだから。