最初の信号を右に
冷たい風が吹き、街中がイルミネーションで飾られる。
駅前のレストランで、毎年恒例の外科病棟の忘年会がある。
智哉は、受付の研修医に会費を払い、席に座ると、隣は看護師の紗知だった。
白衣の時とは異なり、毛先を緩くカールさせた髪が肩から背中へと流れている。
「先生、こんばんは〜」にっこりとツヤツヤした唇をほころばせる。髪をかきあげたときに、耳朶の大振りなピアスが揺れる。
「……髪伸びた?」
「ふふふふっ、似合いますか?ウィッグですよ、カツラ!友達の美容師がやってくれたんです」
「髪の毛が長いだけで、感じ変わるもんだな、別人みたいになる」
白衣に見慣れた看護師たちは、私服に着替えると印象が大きく変わる。
病棟以外ですれ違っても、気付かない自信があった。
体のラインに柔らかく沿うニットに膝上のスカート、黒いタイツにピンヒール姿の紗知は白衣のときより、醸し出す雰囲気が女らしい。
そんな紗知に智哉が、苦々しく笑ったことを紗知は気付かなかった。
「ここの料理って、美味しいんですよね?楽しみです」紗知はニコニコしている。
「あぁ、福田さんは忘年会初めてだった?」
「まだ、外科に異動して8ヶ月ですよ、ホントにまだまだ慣れないことばっかりですもん」
「あれ、そうだったかな?もっと前からいる気がするけど」
「それって態度が大きいってことじゃないですか?うれしくないです」
「いや、堂々としてて、物怖じしないってことで誉めてるんだけど」
「いやいや、誉められてる気がしませんって。ホントに外科って手術の人だけじゃなくて、化学療法の人も、ターミナルの人もいて、手が回らないって言ったら、叱られそうですけど、業務こなすのが精一杯ですよ」
長い髪を指に巻き付けながら、紗知は口を尖らせている。智哉の顔を覗き込むように見つめる。
「……そうかな」智哉は紗知の望む言葉を吐くこともできたけれど曖昧に笑った。
毎年、変わらない忘年会。若い看護師たちによるアイドルの余興や、ビンゴ大会があり、賑やかに会は進む。
一人一人にサービスされる料理は、美しく盛り付けられている。ナイフとフォークで食べる食事は今一つ、好きになれない。ホカホカと湯気をあげる白いご飯が一番上手いと智哉は思う。
ーーあの豚肉と玉ねぎの炒めもの、旨かったな。
思い出したことに自嘲の笑みがこぼれる。
「そういえば、先生」
並べられる料理を口に運びながら、紗知は智哉にしきりに話しかける。
「木村さん、自宅でのんびり過ごされているみたいですよ。お母さんが病棟に挨拶に見えてて」
「あぁ、木村さんね」すこしでも有意義な時間を過ごしてほしいと思う。
「でも、ホントに家族さんが一番つらいですよね、しかも子供を看取るのって……、私、子供いませんけど、想像するだけで切なくなりますもん」
「あぁ、そうだな」
「生きていかなきゃいけないんですよ。どうやって乗り越えるんだろ。時間が解決するものなのかな?自然に受け入れてなんとかなっていくんですかね」
「どうなんだろうな」
トイレにたった智哉にホールで駿が歩み寄る。
「先生……」いつになく言葉が続かない駿の顔はアルコールのせいか、赤く染まっている。
「なんだよ、真っ赤な顔して。何か言いたいことでもあるのか?」想像はつくけれど、あえて問う。
「いや、楽しそうに福田と話してたなぁと思って……」
「チラチラ、こっち見てたから、そんなことかと思ったけど、高井、福田さんが好きなのか?」
「先生、そんなことじゃないっすよ。俺は茉莉子だけ……、違いますって!」
「しれっとのろけやがって、元気か?佐倉さん」
「元気っす。……いや、だから違いますって!……先生が福田のこと好きなら全然問題ないんすよ」はぁと大きくため息をついて、がりがりと頭をかく。
「慣れないことするもんじゃないな、高井。……わかってるから、俺もそんな馬鹿じゃない。同じ失敗はしない。……禿げるぞ」
「やめてくださいよ。ホントに嫌なこと言う。親父もじいちゃんも禿げてるから、心配してるんすからっ」
「俺だって、多少学習するんだよ。高井に牽制されるほど、トラブル起こした自覚はないんだけど、平原さんの遺言か?」
「遺言って……、怒りますよ、生きてるし平原さん。循環器なんかいきたくないって、ただでさえ怒って。…………あの凶悪なクマを見張ってて、春になるまで、冬眠から覚めなくていいからって」
「そんなこと、わかってる」
「心配してるんすから」
「……それもわかってる」
一体、どれくらいの時間がたてば、冠を外すことを赦されるのだろうか。
ーー丸野と付き合ってた先生、浮気されて離婚した先生。
心配という言葉は、される側の感情は考慮されない。する側の自己満足だと智哉は思う。
病院を出て、最初の信号を右に曲がる。
住宅街を抜けて、カフェマグノリアに向かう。
『close』の看板が門灯のひかりを受けている。
小道を進み、ドアを開けると、チリリンと優しい音が響く。
「もう、閉店なんです……、先生か。いらっしゃい」
「この前、借りた本を返しに。それに前、食い逃げしたから、支払いも」
「賄いみたいなものだし、とてもお金をもらっていいような代物じゃないから、いいよ」
「それじゃ、なんだか申し訳ないな」
「別にいいよ、ホントに。……じゃまた、毒味してくれる?パンケーキ」
「そんなことでよければいつでも」
「とりあえず、座ってよ。先にご飯食べるでしょ?今日は最高のソースかかってるかな」
「いや、今日はホントに。本を返しに来ただけだから」
「パンケーキの毒味してほしいから、すわって」
蓮子はにこりと微笑み、カウンターを指差す。抗いがたい何かを感じて、智哉はカウンターに座る。
カウンターの向こうのキッチンに立つ、蓮子は冷蔵庫を覗き混み、調理を始めた。
この前と同じように、静寂は智哉を優しく包み込む。
お待たせ、明るく声がかかり目の前にはパンケーキではなく、カリカリに焼かれたチキン。
「いいから、冷めないうちに食べて」
もう作っちゃったしねといたずらっぽく笑う。
智哉は箸をとり、手を合わせる。
「いただきます」
チキンを口に運ぶ、皮は見た目通りにカリカリ、噛むとじゅわっと肉汁が出る、チキンは漬け込んであったのか、とても柔らかい。
チキンの脇には食べやすい大きさにちぎられたレタスとサンチュ。ホカホカと湯気をあげる白いご飯、お味噌汁はまた、ほんのりと柚子の香り。沢庵は歯ごたえがいい。
「うまい」
「それはどうも、後でパンケーキ食べて」
カウンター越しに、蓮子はにこりと微笑み、メモを見ながら、ボウルを抱えている。
パンケーキの試食を終え、智哉は思ったままに感想を述べる。
そして、眠ってしまう前に席を立った。
その手にはまた、蓮子に薦められるままに本がある。
「じゃね」蓮子は智哉に手を振る。
智哉は幾度となく蓮子に問いたかった。けれども、それを口にすることができなかった。
ーー夫が家でまっているのではないのか?
智哉には蓮子の考えていることがわからなかった。
月が南に登っている、満月を過ぎたばかりなのか、わずかに欠けている。
風はないけれど、少しずつ空気は冷たさを増していく。
智哉は病院からの帰り道、最初の信号を右に曲がってしまった。
借りた本を返しに行くだけと、誰に語るわけでもなく、言い訳をする自分がおかしかった。
車を停めて、小道を進み、ドアを開けるといつものように、優しい音が響く。
そのあと、明るくかかるはずの声が、今夜は聞こえない。
いつもと変わらない薄暗い店内。キッチンだけが煌々と光っている。
「こんばんは」
おとなう声が響くけれど、反応はなく、智哉はぼんやりと立ち尽くす。
ゴソリとキッチンの奥のほうで、音がして、そろそろと足を踏み入れる。
業務用の冷蔵庫の前に、しゃがみこむ蓮子の姿があった。
膝を抱えて項垂れている。うなじが光をうけて白くうかびあがり、細い肩が震えている。
「……なんで、よりによって今、来ちゃうかなぁ」
明らかに涙を含むその声を聞いて、智哉は蓮子に近づけなかった。
その震える肩を抱いて腕の中に閉じ込めてしまうことは、とても簡単で魅力的だったけれど、抗った。
「……」
どうすることもできず、ただ立ち尽くす。
「……私、わかってなかった。……先生、太ったし、おっさんになってるし、……もう、やだよ」
蓮子は、真っ赤な目をソロリと智哉に向け、溢れそうになる涙を必死に堪えている。
「……泣くのを我慢するととんでもなく、不細工になるから、泣いたほうがいい」
「……不細工って」笑った拍子に、ポロポロと涙が落ちる。
「太ったとか、おっさんになったとか、失礼なのはお互い様だろう?……旦那とケンカでもしたのか?」
蓮子はビクッと肩をすくめて、智哉を驚いたように見つめる。
「……いない。いないよ」
蓮子は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
智哉は、泣き続ける蓮子の傍らに立ち、白いうなじを見つめていた。
「私は一人なんだよ……」
「……そうか、だったら問題ないな」
智哉は冷蔵庫の前の蓮子の隣に座り込み、腕を伸ばし、震える細い肩を抱きよせる。
「……先生」
肩を強張らせる蓮子をぎゅっと、その腕の中に閉じ込めてしまう。
「泣いていいぞ?」
「……泣けなくなるし」
「そうか?遠慮はいらない」
「……」智哉の腕の中で蓮子はじっと動かない。
智哉も蓮子に何を言うわけでもなく、じっと動かなかった。
冷蔵庫のモーター音、時計の秒針が時を刻む音、走り去る車のエンジン音、蓮子の作業音は聞こえないけれど、いつもの心地よい静寂に包まれる。
腕の中の蓮子は温かく、智哉はまぶたが落ちてくるのを堪えきれなかった。
ぐぐぐぐぐぐぅー
「寝てる……」
涙が乾いた蓮子の言葉は、智哉には届かずに静寂のなかに消えた。




