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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
19/31

最初の信号を右に

 

 冷たい風が吹き、街中がイルミネーションで飾られる。


 駅前のレストランで、毎年恒例の外科病棟の忘年会がある。


 智哉は、受付の研修医に会費を払い、席に座ると、隣は看護師の紗知だった。

 白衣の時とは異なり、毛先を緩くカールさせた髪が肩から背中へと流れている。


「先生、こんばんは〜」にっこりとツヤツヤした唇をほころばせる。髪をかきあげたときに、耳朶の大振りなピアスが揺れる。

「……髪伸びた?」


「ふふふふっ、似合いますか?ウィッグですよ、カツラ!友達の美容師がやってくれたんです」


「髪の毛が長いだけで、感じ変わるもんだな、別人みたいになる」

 白衣に見慣れた看護師たちは、私服に着替えると印象が大きく変わる。

 病棟以外ですれ違っても、気付かない自信があった。

 体のラインに柔らかく沿うニットに膝上のスカート、黒いタイツにピンヒール姿の紗知は白衣のときより、醸し出す雰囲気が女らしい。

 そんな紗知に智哉が、苦々しく笑ったことを紗知は気付かなかった。



「ここの料理って、美味しいんですよね?楽しみです」紗知はニコニコしている。

「あぁ、福田さんは忘年会初めてだった?」

「まだ、外科に異動して8ヶ月ですよ、ホントにまだまだ慣れないことばっかりですもん」

「あれ、そうだったかな?もっと前からいる気がするけど」

「それって態度が大きいってことじゃないですか?うれしくないです」

「いや、堂々としてて、物怖じしないってことで誉めてるんだけど」

「いやいや、誉められてる気がしませんって。ホントに外科って手術の人だけじゃなくて、化学療法の人も、ターミナルの人もいて、手が回らないって言ったら、叱られそうですけど、業務こなすのが精一杯ですよ」

 長い髪を指に巻き付けながら、紗知は口を尖らせている。智哉の顔を覗き込むように見つめる。

「……そうかな」智哉は紗知の望む言葉を吐くこともできたけれど曖昧に笑った。


 毎年、変わらない忘年会。若い看護師たちによるアイドルの余興や、ビンゴ大会があり、賑やかに会は進む。


 一人一人にサービスされる料理は、美しく盛り付けられている。ナイフとフォークで食べる食事は今一つ、好きになれない。ホカホカと湯気をあげる白いご飯が一番上手いと智哉は思う。


 ーーあの豚肉と玉ねぎの炒めもの、旨かったな。


 思い出したことに自嘲の笑みがこぼれる。


「そういえば、先生」

 並べられる料理を口に運びながら、紗知は智哉にしきりに話しかける。


「木村さん、自宅でのんびり過ごされているみたいですよ。お母さんが病棟に挨拶に見えてて」

「あぁ、木村さんね」すこしでも有意義な時間を過ごしてほしいと思う。

「でも、ホントに家族さんが一番つらいですよね、しかも子供を看取るのって……、私、子供いませんけど、想像するだけで切なくなりますもん」

「あぁ、そうだな」

「生きていかなきゃいけないんですよ。どうやって乗り越えるんだろ。時間が解決するものなのかな?自然に受け入れてなんとかなっていくんですかね」

「どうなんだろうな」


 トイレにたった智哉にホールで駿が歩み寄る。


「先生……」いつになく言葉が続かない駿の顔はアルコールのせいか、赤く染まっている。

「なんだよ、真っ赤な顔して。何か言いたいことでもあるのか?」想像はつくけれど、あえて問う。


「いや、楽しそうに福田と話してたなぁと思って……」


「チラチラ、こっち見てたから、そんなことかと思ったけど、高井、福田さんが好きなのか?」


「先生、そんなことじゃないっすよ。俺は茉莉子だけ……、違いますって!」


「しれっとのろけやがって、元気か?佐倉さん」


「元気っす。……いや、だから違いますって!……先生が福田のこと好きなら全然問題ないんすよ」はぁと大きくため息をついて、がりがりと頭をかく。


「慣れないことするもんじゃないな、高井。……わかってるから、俺もそんな馬鹿じゃない。同じ失敗はしない。……禿げるぞ」


「やめてくださいよ。ホントに嫌なこと言う。親父もじいちゃんも禿げてるから、心配してるんすからっ」

「俺だって、多少学習するんだよ。高井に牽制されるほど、トラブル起こした自覚はないんだけど、平原さんの遺言か?」


「遺言って……、怒りますよ、生きてるし平原さん。循環器なんかいきたくないって、ただでさえ怒って。…………あの凶悪なクマを見張ってて、春になるまで、冬眠から覚めなくていいからって」


「そんなこと、わかってる」


「心配してるんすから」


「……それもわかってる」


 一体、どれくらいの時間がたてば、冠を外すことを赦されるのだろうか。


 ーー丸野と付き合ってた先生、浮気されて離婚した先生。


 心配という言葉は、される側の感情は考慮されない。する側の自己満足だと智哉は思う。






 病院を出て、最初の信号を右に曲がる。

 住宅街を抜けて、カフェマグノリアに向かう。

『close』の看板が門灯のひかりを受けている。


 小道を進み、ドアを開けると、チリリンと優しい音が響く。


「もう、閉店なんです……、先生か。いらっしゃい」


「この前、借りた本を返しに。それに前、食い逃げしたから、支払いも」


「賄いみたいなものだし、とてもお金をもらっていいような代物じゃないから、いいよ」


「それじゃ、なんだか申し訳ないな」


「別にいいよ、ホントに。……じゃまた、毒味してくれる?パンケーキ」


「そんなことでよければいつでも」


「とりあえず、座ってよ。先にご飯食べるでしょ?今日は最高のソースかかってるかな」


「いや、今日はホントに。本を返しに来ただけだから」


「パンケーキの毒味してほしいから、すわって」

 蓮子はにこりと微笑み、カウンターを指差す。抗いがたい何かを感じて、智哉はカウンターに座る。


 カウンターの向こうのキッチンに立つ、蓮子は冷蔵庫を覗き混み、調理を始めた。


 この前と同じように、静寂は智哉を優しく包み込む。



 お待たせ、明るく声がかかり目の前にはパンケーキではなく、カリカリに焼かれたチキン。


「いいから、冷めないうちに食べて」

 もう作っちゃったしねといたずらっぽく笑う。


 智哉は箸をとり、手を合わせる。

「いただきます」


 チキンを口に運ぶ、皮は見た目通りにカリカリ、噛むとじゅわっと肉汁が出る、チキンは漬け込んであったのか、とても柔らかい。

 チキンの脇には食べやすい大きさにちぎられたレタスとサンチュ。ホカホカと湯気をあげる白いご飯、お味噌汁はまた、ほんのりと柚子の香り。沢庵は歯ごたえがいい。


「うまい」


「それはどうも、後でパンケーキ食べて」

 カウンター越しに、蓮子はにこりと微笑み、メモを見ながら、ボウルを抱えている。

 パンケーキの試食を終え、智哉は思ったままに感想を述べる。

 そして、眠ってしまう前に席を立った。

 その手にはまた、蓮子に薦められるままに本がある。


「じゃね」蓮子は智哉に手を振る。


 智哉は幾度となく蓮子に問いたかった。けれども、それを口にすることができなかった。


 ーー夫が家でまっているのではないのか?


 智哉には蓮子の考えていることがわからなかった。







 月が南に登っている、満月を過ぎたばかりなのか、わずかに欠けている。

 風はないけれど、少しずつ空気は冷たさを増していく。

 智哉は病院からの帰り道、最初の信号を右に曲がってしまった。

 借りた本を返しに行くだけと、誰に語るわけでもなく、言い訳をする自分がおかしかった。


 車を停めて、小道を進み、ドアを開けるといつものように、優しい音が響く。


 そのあと、明るくかかるはずの声が、今夜は聞こえない。

 いつもと変わらない薄暗い店内。キッチンだけが煌々と光っている。


「こんばんは」

 おとなう声が響くけれど、反応はなく、智哉はぼんやりと立ち尽くす。


 ゴソリとキッチンの奥のほうで、音がして、そろそろと足を踏み入れる。


 業務用の冷蔵庫の前に、しゃがみこむ蓮子の姿があった。


 膝を抱えて項垂れている。うなじが光をうけて白くうかびあがり、細い肩が震えている。

「……なんで、よりによって今、来ちゃうかなぁ」

 明らかに涙を含むその声を聞いて、智哉は蓮子に近づけなかった。

 その震える肩を抱いて腕の中に閉じ込めてしまうことは、とても簡単で魅力的だったけれど、抗った。


「……」

 どうすることもできず、ただ立ち尽くす。


「……私、わかってなかった。……先生、太ったし、おっさんになってるし、……もう、やだよ」

 蓮子は、真っ赤な目をソロリと智哉に向け、溢れそうになる涙を必死に堪えている。


「……泣くのを我慢するととんでもなく、不細工になるから、泣いたほうがいい」


「……不細工って」笑った拍子に、ポロポロと涙が落ちる。


「太ったとか、おっさんになったとか、失礼なのはお互い様だろう?……旦那とケンカでもしたのか?」


 蓮子はビクッと肩をすくめて、智哉を驚いたように見つめる。


「……いない。いないよ」

 蓮子は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。


 智哉は、泣き続ける蓮子の傍らに立ち、白いうなじを見つめていた。


「私は一人なんだよ……」



「……そうか、だったら問題ないな」

 智哉は冷蔵庫の前の蓮子の隣に座り込み、腕を伸ばし、震える細い肩を抱きよせる。

「……先生」

 肩を強張らせる蓮子をぎゅっと、その腕の中に閉じ込めてしまう。


「泣いていいぞ?」


「……泣けなくなるし」


「そうか?遠慮はいらない」


「……」智哉の腕の中で蓮子はじっと動かない。


 智哉も蓮子に何を言うわけでもなく、じっと動かなかった。


 冷蔵庫のモーター音、時計の秒針が時を刻む音、走り去る車のエンジン音、蓮子の作業音は聞こえないけれど、いつもの心地よい静寂に包まれる。



 腕の中の蓮子は温かく、智哉はまぶたが落ちてくるのを堪えきれなかった。


 ぐぐぐぐぐぐぅー



「寝てる……」


 涙が乾いた蓮子の言葉は、智哉には届かずに静寂のなかに消えた。




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