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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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心地よい静寂の夜

 マグノリアの門扉には、『close』の看板がかけられているけれど、まだ灯りが奥のほうで点っている。


 智哉は毛布を手に、門扉をくぐる。

 小道を足早に進み、飴色のドアの前にたち、そっと押したけれど、ガコンと響き、そのドアは開かなかった。


 毛布を片手にたたずんでいると、ガチャリと解錠する音が聞こえ、ゆっくりとドアが開かれる。


「はい?もう、閉店なんですけど……」

 ショートカットの小さな頭がドアの隙間から出てきて、白い顔にアーモンド型の目が智哉をとらえる。

 一瞬、大きく見開かれたけれど、すぐにゆっくりと閉じらる。恐る恐る、開かれた瞳はしっかりと智哉を見つめる。


「……あの、どこかで会いましたか?」

「……」

「……すみません、仕事柄、たくさんの人にお会いしますが、なかなか覚えきれないんですよ」

「……いいんです」短い黒い髪をかき上げ、困ったように微笑む。


 ぐうううーーー


 空腹に耐えかねた胃が大きく鳴った。


「……!」


「……ぶっ!ハハハハハ〜」

 大きな瞳を細めて、頬を赤らめて笑い始めた彼女はお腹を抱えている。

 なかなか笑いを治めることができないらしく、目に涙を浮かべている。


「はぁ、……何か食べていきなよ。三顧の礼って?」


「えっ?」


「だって、三回目じゃない?」


「ああぁ、この毛布を返しに何度か来たけど、誰もいなかったような……。この毛布をサワさんに……。多分、借してもらったんですけど、お見えになりますか?」

 小脇に抱えた毛布を差し出す。


「まっ、とりあえず入ったら?沢さんはいないし、毛布を貸したのは私だし。ご飯何でもいいならご馳走するよ」


 閉店後のためか、店内の灯りは抑えられ、昼間の雰囲気よりもさらに落ち着いており、ひっそりとしている。


 キッチンの前のカウンター席に座る。

 キッチンからカウンター越しに話しかける。


「毛布を貸してくれて助かりました。お陰で風邪も引かずに済みました」

「店の駐車場で凍死しちゃったら、営業妨害でしょ?」

「いや、そんな寒くないから」

「ふふ、嫌いな食べ物ってある?聞いてもこれしか作れないけど」

 キッチンとカウンターの間に積まれたかごを少し脇にずらすと、コンロの前でフライパンを握る姿がよく見える。

 白いシャツに黒いパンツ、膝丈のエプロンをキリリと結んでいる。頭にバンダナはなく、短い黒い髪が照明の光を受けて、艶々と光っていた。


 細く刻まれたキャベツの上に、豚肉の小間切れと玉ねぎの炒めもの。ふんわりと湯気を上げる。それに白いご飯と、豆腐とキノコのお味噌汁。白菜の漬物。


「どうぞ。最高のソースがかかってるから!きっと美味しいよ」彼女はにっこりと笑う。

 智哉は手を合わせてから、箸を取る。

 炒めものは、甘辛のタレは生姜がピリッと効いている。少し歯ごたえが残る甘い玉ねぎと豚肉はご飯が進む。それにも増して、豚肉の旨味の出たタレが絡んだキャベツが白いご飯に抜群に合う。

 お味噌汁は、ほんのり柚子の香りがする。


「うまい」


 黙々と箸を進める。ご飯のおかわりをして、たっぷりと盛られていたキャベツを少しも残すことなく、平らげる。


「ふふ、本当にお腹が空いてたんだね。空腹に勝るソースはないわ」


「ご馳走様でした。最高のソースは、空腹か。なるほど」箸を置いて手を合わせる。カウンター越しに、彼女がにっこりと笑う。


「お茶、飲む?」


 智哉が頷くと、彼女は湯気を上げる大きめのマグカップを差し出す。そこには緑の液体がなみなみと注がれている。


「……お茶」


「うん、お茶。こんな店してるけど、私がコーヒー淹れると美味しくないんだよね。コーヒーは沢さんの担当なの。それに食事の後ってお茶が飲みたくならない?」


「わかる気がする。……店をしてる?」


「うん、私がオーナー。私の淹れるコーヒーが不味いことを見かねた沢さんが、一緒に働いてくれてる。もう一人の子は、あまりの手際の悪さを見かねて……。私は調理担当」


 智哉の前の皿を手早く下げて、洗う姿は、さすがに無駄がなく自然だ。

 この店のオーナーとは、にわかに信じられないが、嘘をつく理由は見当たらない。

 智哉は首をかしげ、もうひとつの疑問を思い出す。


「……そういえば、どこかで会ってますか?」


「もう、何年も前。ちょっとお世話になった」

 緩んでいた頬が一瞬にして強ばり、苦々しく答える。彼女にとって思い出したくない記憶とともに、智哉がいるのだろう。


「そうですか……、お名前を教えてもらってもいいですか?」


「本当に……、本当に何も覚えてはいないんだね」表情を消して、呟いた。夏川蓮子と。


 名前を聞いても、やはり何も思い出せない。この言葉が適切かどうか、わからないけれど、他に思い当たる言葉もなく、すみませんと、智哉も呟いた。


「いいの、先生が謝ることない。私、まだ仕事するから、適当にくつろいで」


 蓮子はボウルとレードルを手にして、紙にメモを取りながら、フライパンを温めている。じゅっとならして、生地を流し入れる。黙って作業をする姿を眺めていたけれど、やはり記憶の中に心当たりはない。


 静かだった。テレビがあるわけでもない、キッチンでの作業の音と、時折走り去る車のエンジン音が聞こえるだけだった。

 しかし、その静寂は智哉の居心地を悪くするものではなく、むしろ好ましいものだった。


 これだけ静かであれば、智哉の車が駐車場に入ってきたことにすぐ気付くだろう。そして、店の大きな窓から駐車場が見える。いつまでも停まったままの車が気になってしまうことが容易に想像できる。



 ぼんやりとお茶を啜っていた智哉はカウンターの横に本棚に気付き、立ち上がり歩み寄る。たくさんの本や雑誌が並べられていた。

 その中には学生の頃に読んだ本があり、懐かしさに手に取る。パラパラとページをめくり、思わず頬が緩む。ふと、その横には、同じような背表紙があり、その本がシリーズ化したことに気付く。

 その本を手に、カウンターに腰掛ける。


 ページをめくり、本の世界へと身を委ねる。


「先生、甘いものって好き?」

 一瞬にして、引き戻された智哉は、カウンター越しに覗き込まれ、黒い瞳と視線がぶつかる。本から目を離し、手元にあったペーパーをしおりがわりに挟み、本を閉じる。


「あ、わりと好きかな」


「ちょっと、毒味してよ?試作中」

 ホッとしたように、智哉の前に皿をおく。

 10センチほどの丸いパンケーキ。ムラのないきつね色の上に散らされた冷凍のベリーと生クリーム、粉砂糖で飾られている。

 ナイフを当てると、なんの抵抗もなく刃がパンケーキに入っていく。

 ふわふわのパンケーキは、冷たいブルーベリーと生クリームと、合わさって、ベリーが残る。


「……美味しいよ」


「あっ、そういうのいいから。ちゃんと教えて」


「……ベリーが残る。それに酸味が強い。パンケーキ食べてるって気がしない」


「なるほど、パンケーキを軽くしすぎなのか、ベリーを止めるか……、生クリームを増やそうか……、あっ、ありがとう。邪魔してごめん、続き読んで」


 本を引き寄せ、開く。





 ……先生、先生?


 ふわりと石鹸の香りがする。


「寝てもいいけど、ここじゃゆっくり眠れないよ。せめて、あっちのソファーにしたら?」

 蓮子は智哉の肩をたたく。


「あ……」

 カウンターに突っ伏して、眠っていたらしく、肩や首が痛む。体をうんと伸ばすと、関節がコキリと音を立てる。

 隣には、頬を赤く染め、艶々した蓮子が立っている。白いシャツも、エプロンも身に付けてはおらず、ゆったりとしたカーディガンとパンツを着ていた。明らかに入浴を済ませた姿に智哉は驚き、うっかり眠ってしまった罪悪感を抱く。


「いやっ、帰るよ」あわてて立ち上がり、ドアに向かう。


「先生、これ読んでて、寝ちゃうって……、相当、疲労たまってるんじゃない?」


「……」


「多分、続きが気になるよ?いつでもいいから、持っていって」


 続きが全く気にならないと言えば嘘になるけれど、この本を持っていくことは躊躇われた。

「……いや、でも」


「いいって。時々、お客さんに貸してるし、自分の好きな本って読んでほしいし」本を智哉に押し付けるように渡しながら、蓮子は笑う。


「また、返しにくるから」智哉は店を後にする。

 月のない暗い夜、星が瞬いていた。



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