暁のマグノリア
「おいっ早くしろよ。遅れるぞ。なんでもっと早く準備ができないんだよ。いっつもギリギリじゃないか」
あからさまに顔をしかめて、夫の聡は長女の優樹菜を抱き上げる。
「そんなこと言って、いつまでも寝てて、手伝ってくれないから、遅くなるのよ。私のせいにしないで」
「うわっ、濡れてる。これおしっこじゃないか?昨日、乗せたときに気付かなかったのか?!」
八人乗りのワンボックスカー、後部座席のチャイルドシートがしっとりと濡れていることに気付いた聡は蓮子を睨む。
「遅かったし、暗かったから気付くわけないじゃない」
それは嘘だった、ぐっすりと眠ってしまった小さな体を抱いたとき、ズボンが濡れていたことに、蓮子は気付いていた。
それから、優樹菜を起こし、お風呂に入れて、寝かし付けていたら、チャイルドシートが濡れていたことをすっかり忘れていた。
聡の帰宅はいつも遅く、家事も育児も協力してくれないことにが、蓮子は不満だった。
「車にのせる前に、トイレにつれていけばいいだろう?」
「車にのせる前に、寝ちゃったのよ。そんなの言われなくてもわかってるから。早く乗ってよ!本当に遅れるから」
蓮子はあわただしく運転席に座り、エンジンを始動させる。
これ見よがしに、大きく舌打ちをした聡は、小さな優樹菜を膝にのせて、助手席に乗り込む。
走り出した車に警告音が響く、運転席の蓮子はシートベルトをカチリと締めると、音はすぐになりやむ。
カーステレオから流れるアニメの主題歌に合わせて、優樹菜は歌い始める。
高い声は、メロディーと外れていたけれど、楽しそうに明るい。
ダッシュボードに寄りかかるように前を見つめている姿に、苛立っていた気持ちが少しずつ凪いでいく。
フロントガラスから見た空には、飛行機雲が長く延びていた。
目を開けると、まだ辺りは暗く、静まり返っていて、枕元の目覚まし時計の秒針がコチコチと時を刻む音だけが響いている。
手を伸ばして、時計を手繰り寄せて時刻を確認すると、いつもの起床時間より、まだ少し早かった。
蓮子は大きくため息をついて、ベッドから出る。
8畳ほどの寝室のほぼ中央にベッドがおかれ、北側の腰高窓の横にチェスト、反対側にはクローゼットとユニットバス、ミニキッチンがある。
こじんまりとしたユニットバスで身支度を簡単に整え、寝室を後にする。
狭い廊下を抜けて、扉を一つ開ければ、そこは、蓮子の店、カフェマグノリアのキッチンだ。
灯りをつけて、膝丈のエプロンをきゅっと結ぶと、背筋が自然と伸びる。
開店までに、いくつかのケーキを焼き、ランチのカレーを仕込み、パスタのソースを作る。一年以上前から定休日以外、ずっと続けている。
カフェの経営は、沢真喜子と佐々木美鶴の助けを借りることで、難なく起動に乗った。
朝の仕込みと、昼のランチタイムは目が回る忙しさだけれども、あわただしく体を動かしていたい蓮子にとって、願ってもないことだった。
開店は10時、真喜子はコーヒーなど、ドリンクメニューを、美鶴は、オーダーや配下膳を担当している。
二人の助けがなければ、一日たりともカフェは成り立たない。
二人分の給与を支払うために、今日も蓮子は黙々と、仕込みを始める。
少しずつ、外が明るくなり、南側の窓から赤くなびく雲が見える。空はまだ群青で東の空から徐々に赤さが増してくる。
蓮子は手を止めて、庭に出る。
庭の中央にある大きな木蓮の葉はすっかり落ちて、細い枝の先の短い銀色の毛におおわれた小さな芽が朝日を浴びて赤く染まっていくのを少しの間、見ていた。




