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離婚の理由  作者: 大楠晴子
第3章 智哉
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初霜のおりた朝

 今年初めて霜がおり、色づいた木々がうっすらと氷をまとい、日差しを受けて光っている。空は高く青く澄渡る。




 市立病院の七階南外科病棟の医師、西口智哉は気がかりな患者のもとに向かう。


 今日は外来での診察があるため、パソコンの前に座り、電子カルテで血液データを素早く確認し、病室に向かう。


 四人部屋の窓側、ベッドの端に腰かける木村万由花は長い髪を櫛でとかしていた。いつものパジャマとは違い、温かそうなローゲージニットに細身のパンツを合わせている。その小さな背中に向かって、智哉は声をかける。


「おはようございます。調子はいかがですか?」


「あっ、先生、おはようございます。大丈夫ですよ」


 パッと振り返った青白い顔は、尖った顎が目につく、かさついた唇を緩ませて、にこやかに答える。

 見る限り、大丈夫そうには見えない。事実、その患者の体は悪性の腫瘍に蝕まれている。


「今日は退院ですね、石川先生が自宅に診察に見えますし、訪問看護にも伺うことになっています。何かあればいつでも」


 もう医師として、この患者に求められていることはないのだろうか。

 こうして、緩和医療に切り替え、退院していく背中を見送る度に自分の無力を思う。


「ええ、わかっています。本当にありがとうございました。皆さんにお世話になりました」ふらりと立ち上がり、頭を下げる。


 お大事にしてください、その言葉が適切かどうかはわからないが、そう言って病室を後にする。


 浮腫み丸太のように太い足、大きくせりだした腹部、骨の浮いた細い肩、彼女に残された時間は、そう多くはない。おそらく、満開の桜をその目に映すことはないだれう。




 大腸に悪性の腫瘍が見つかったときには、すでに肝臓と肺に転移があった。手術によって、大腸の腫瘍は取り除いたけれど、腹膜への転移も見つかり、肝臓と肺の腫瘍は手術による根治は望める状態ではなかった。


 化学療法が唯一の治療法であったが、彼女はこれを拒否した。

 抗がん剤は多剤を併用し数日続けて投与することを数週間に一度、定期的に行う。効果や血液データ、体調を見ながら、何度も行う。


 彼女の訴えは、化学療法に期待していた智哉にとって受け入れがたいものだった。


 外来に現れた万由花は、青白い顔を長い髪で隠し、唇をかんでいる。

「先生、私は化学療法はもう、……嫌です。寿命が延びるかもしれないということに何の意味があるのですか?化学療法の点滴の後、体がだるくてベッドから起き上がれなかったんです。二週間ちかくも。そうして、二週間後にはまた、化学療法……。延びた分だけ、ベッドにいるんです。何もできない。私はもう、いいんです」


 化学療法の効果があれば、彼女の腫瘍は小さくなる。しかし、それがなくなることはなく、身体中に広がり、蝕むことには変わりはない。


「薬の種類を変えるか、または、今の抗がん剤の量を減らしてみましょうか」

 万由花はフルフルと首を振り、うっすらと微笑む。

「少し治療を休みますか?また、治療をしたくなったらしましょう。……別の病院に変わってもいいのですよ?木村さんが納得できる治療を受けるべきですから。一度、ご自宅でご家族とも、相談して下さい」

 顔を上げた万由花は、にっこりと笑う。

「先生、ありがとうございます。とりあえず、痛みだけ……、痛み止の薬だけください。先生に不満があるわけじゃないんです。私、先生にはよくしていただいたと思っています。でも、抗がん剤はもういいんです」


「……僕は何も。治療はしばらくお休みしましょう」


 思い詰めた目をした患者は、32歳。諦めてしまうには、若すぎる。

 若いからこそ、ガン細胞の増殖も早いのが現実だ。

 のんびりしている時間はないが、抗がん剤を受けるのは患者自身だ。強要することはできない。


 彼女の体調が回復すれば、また治療を受ける気になると智哉は思っていた。



 しかし、彼女が抗がん剤を受ける気になることはなかった。

 次に彼女に会ったのは、外来の診察室ではなく、7階南の外科病棟の一室だった。

 肺の腫瘍の影響から呼吸苦が強く、ほとんど食べることができなくなり、救急外来を受診。そのまま緊急入院した万由花はげっそりと痩せほそっていた。

 沈痛な面持ちの母親が隣にぴったりと付き添い、彼女の手を握っている。


 肺に溜まった水を抜き、高カロリーの点滴によって彼女の体調は改善された。けれども、やはり抗がん剤の投与は拒否された。残された時間は、もう残り少ない。

 自宅での最後を迎えるための準備を看護師とともに進め、今日が退院の日だ。


「先生、木村さん、やっと退院ですね。少しでも、長く過ごせるといいですね。ずっと、帰りたいって言ってみえたから」瞳の奥に悲しみを浮かべながらも、微笑むのは、看護師の福田紗知。肩で切り揃えた髪を耳にかけて、智哉を見上げるように話しかける。

「あぁ、そうだな」

「なんだか、気分が滅入ってしまいますね、先生って最近、切なくなるような患者さんが続いてませんか?」

「あまり、気にはならないけど、そうかな?」

「淡々としてますもんね、先生って。素っ気ない訳じゃないですけど、なんかこう」

「冷たい?」

「いやっ!そんなつもりじゃないですっ!何て言ったらいいのか……。患者さんと話すときも、普通っていうか、感情が出ないっていうか、事実をそのまま、さらっと話す感じ……?」

 言葉を選ぶようにいいよどむ紗知は、智哉から視線を外し床を見つめている。


「事実をそのままだな。分かりやすく、簡潔に話すようにしてる。曖昧な言葉は誤解を招くから、患者はやっぱり、自分に都合のいいように解釈しがちだから、遠回しには言わないね」

「はあ……、そうですか」

「納得できない?……何度か痛い目に遭って、こうなったんだよ。前は、希望的なことも、自分の感想も、話したりしたこともあったよ」

 紗知は顔を上げて、智哉に微笑みかける。

「先生にも、そんなころがあったんですね」

「最初から、おじさんだった訳じゃないから」

 智哉の言葉に紗知はおじさんなんて、と首を振る。


「そう!西口先生にも痩せてたころがあった」

 切れ長の目を細めて笑う男性看護師の高井駿が、いつの間にかやってきていた。

「それは、言わなくてもいいんじゃないか?それに高井も知らないだろう?」

「ハハっ!知らないっす」

 全く悪びれる様子はない。

「そんなに痩せてたんですか?今もそんな太ってませんよ。うん、全然、大丈夫ですよ」

「30才を過ぎてから、食べたものがそのまま腹の肉になる。高井も笑ってられるのも今のうちだ」

「嫌なこと、言いますねぇ、でも俺は大丈夫っす。細身の家系なんで」

 駿は自慢気に智哉を見つめ、その言葉に紗知が答える。

「高井さん、それ羨ましいです、ホントに。私、太りやすいし、両親も太ってますもん。食べたら食べた分だけ、きっちり身になるんですよね。わかっててもやめられないんです、甘いもの……。太ると思いつつ、夜中にアイスクリーム食べちゃいます」

「福田ちゃん、夜勤の時も結構食べるね、確かに」

「夜勤の時って、ちょっと満腹中枢おかしくなるんですよっ!食べても食べても、足りない?あぁもういいや!ってなります。明日からダイエットするって」

「その明日って、永遠に来ないな」

「……先生」がっくりと項垂れる紗知。

「やっぱり先生、嫌なこと言いますねぇ」駿は大袈裟に顔をしかめてから、笑う。



 看護師達との軽口は、仕方がないとわかってはいても滅入る気分を少し軽くしてくれる。

 いつの間にか看護師たちは異動によって顔ぶれが変わっても、その役目を誰かが果たしてくれる。



 外来での診察を終え、たまった書類を書き、病棟の患者をみて回る。カルテを記載し、検査のオーダーを入力し、必要な薬を処方し、点滴をオーダーし、指示をだしておく。


 一日は瞬く間にすぎてしまう。

 白衣を脱いだときには、外は暗く冷たい風が吹いていた。

 職員駐車場に向かう。車の後部座席に丸めた毛布がふんわりと、外灯の光を受けていた。

 借りたものをそのままにしておくことは、どうにも落ち着かない。


「返しに行かないと……」


 エンジンをかけて、最初の信号を右に曲がった。




 小高い丘を切り開き造成された、静かな住宅街。その丘を登りきったところに広く緑の濃い公園があり、その公園を少し東に行ったところにある、建物に向かう。

 辺りは暗く、月のない夜。

 昨日と同じように車を停める。

 門灯に照らされる『close』の看板がさげられている、アイアンの門扉の奥の小道を進む。

 こじんまりとした建物の白い壁がぼんやりと浮かびあがる。どっしりと構えた飴色の木製のドアの前に智哉は立ち、そっと押す。予想通りにしっかりと閉ざされていた。

 ドアの横には『cafe magnolia』と小さな木製のプレート。


「カフェ、マグノリア?」こぼれでた言葉が静かに響き漂う。


 時刻は20時を回ったところだった、すでに閉店したようだ。


「……出直すか」

 智哉は踵を返した。




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