底冷えの朝
風の音が聞こえない。底のほうからしんと冷える静かな朝。
八畳一間のアパートは、吐く息が白い。
智哉は布団の中に入ったまま、呼び出し音を響かせる携帯電話を引き寄せる。
[はい?]
[先生?ターミナルの寺崎さん。血圧50台まで低下。レベルは三桁、レートも40台まで一度、落ちて、今は80台です。]
[当直医は?]
[来てます。早めに来てもらってもいいですか?]
[あぁ、すぐ行く]
時計を見ると、6時半を回ったところだった。
夜中に連絡がなかったことを喜ぶべきか。
重い体を引きずるようにして起き上がり、身支度を整え、病院に向かう。
こうして、呼び出されることにもすっかり慣れてしまった。
昼夜を問わず、患者の状態は変わっていく。それは、医師の予測に反することも多々ある。
週末の道路は空いていて、フロントガラスから見える、明け始めた暁の空は、細い雲が長く、赤く染まっている。
病棟で、死亡宣告と診断書を書き終え、医局に向かう。
医局のある棟の暗い廊下は、週末で朝が早いせいか、いつもにまして静かだ。
ボサボサの頭に、眠そうに目を擦りながら歩いているのは、暁人だった。
「おう、早いな?当直か?」
後ろから声をかけると、びくりと肩を震わせる。
「あぁ、お前か」
いつになく声に張りがなく、振り向いたその顔の色も悪い。
「忙しいのか?へばってるじゃないか?」
「……」
言葉少なく、うつむく暁人に智哉は、先日会った、香苗の顔が心に過る。
「暁人、どうしたんだ?何があった?家に帰ってないのか?」
「何かあったのは、智哉のほうだろう?」暁人は顔を上げずに、声を震わせて問う。
「……香苗が、お前と地元に帰るって言ってた」
「はあ?何言ってるんだ?俺じゃない、それは智哉、お前の間違いだろう?」
「いや、香苗は暁人と三人で、地元に帰ると言った」
言葉を区切り、はっきりと言う。それは、智哉自身にも、染み渡るようだった。
「暁人……、香苗はいつだって、お前を選んでいる。それは初めからずっと、変わらない」
「違う、本当はお前が好きなんだ。お前だって、待ってたんだろう?他の女と浮気をする俺に愛想を尽かして、自分のところにくるのを待ってたんだろう?」
「待ってない。……でも、俺は香苗のことが好きだった。それは間違いない。……思い切り、フラれたから、心配するな」
「……信じられるわけがないだろう?」
「俺のことはともかく。香苗のことは信じてやれよ?お前を選んでいるんだ。暁人、お前だって、香苗が好きなんだろう?信じてやれよ?」
「香苗はきっと、智哉を選べばよかったって後悔する。俺は香苗を幸せにしてやれない」
「なんだって、そんなに自分のことを信じられないんだよ?香苗にはお前しかいないんだ」
「お前がいる……」
智哉は携帯をポケットから取りだし、フラップをあけ、両手でしっかりと握る。
ゆっくりと暁人の目の前に差し出し、一気に絞り込む。
携帯は思いの外、簡単にぱきりと二つに分かれた。
「これでいいな。香苗にはお前しかいない」
目を見開き、呆然と立ち尽くす暁人の肩をぽんと叩き、智哉は廊下を進む。
すぐに新しい電話を買いにいかないといけないけれども、気がかりな患者もいない週末、呼び出しを気にすることなく、過ごしてもバチは当たらない。




