風花の舞う午後
風に舞うように、雪がチラチラと降る。雲の隙間から差し込む日に照らされている。
強い風にはためくマフラーをしっかりと首に巻き直し、香苗は歩みを早める。
言わせなかった言葉を、今日はしっかりと受け止めなくてはならない。
智哉と待ち合わせたレストランは、昼時を過ぎて人気も疎らになっていた。
エントランスで予約の名前を告げると、まだ智哉は来ていなかった。
中庭の見渡せるテーブル席に、一人座り、窓からの景色を眺めていた。
細い枝をすっきりと伸ばす樹が中庭の中央に植えられている。ほとんど落ちてしまった赤く染まった葉は、びゅっと強く吹き付ける風に一枚、飛ばされていく。
「香苗」
大きな背中を丸めるようにして、こちらに向かって歩いてくる。
「智哉、ごめん、急に呼び出して」
「香苗の呼び出しが、急じゃないことなんてないからな」
「ふふ、そうね」
オーダーを済ませ、立ち去るウェイターの背筋を伸ばした後ろ姿を見送る。
香苗は何を話せばいいのか、わからなかった。
言葉を見つけられないまま、静かに運ばれてくる食事に向かう。
「なんだよ、改まって話があるって?」
「うーん、何て言っていいのかわからなくて」
智哉は、ゆったりとカトラリーを扱う。その指先は、美しく優雅で、香苗はいつも感心していた。
智哉が正しく躾られたことが今の香苗にはわかる。
「智哉の実家って、関西だったよね?どんな感じなの?」
「あ?なんだよ、急に。普通だよ。サラリーマン家庭の、普通の家さ」
「きちんとしてる感じね」
「なんだよ、きちんとって」
「大事に育てられましたって感じ?」
智哉は鼻で笑う。
「何を言い出んだよ、そんなことを言うために、わざわざ呼び出したわけじゃないだろう?」
メガネの奥の黒い瞳が真っ直ぐに香苗に向けられる。
知り合ってから10年以上、この瞳に自分が映っていると思ってきた。
もう、逃げて甘えているわけにはいかない。
「ねぇ、好きって言ってよ」
「気でも触れたか?何を言ってるのか、わかってんのか?」
「わかってる。言って。智哉」
笑っていた智哉から、表情が消える。言葉を発することなく、じっと見つめる智哉の視線を真っ直ぐに受け止め、もう一度繰り返す。
「好きって言って……」
智哉は、ふうっと大きく息を吐き、目を閉じている。ゆっくりと目を開けて、困ったように笑い、言葉を綴る。
「香苗、ずっと前から、暁人と付き合う前から、俺はお前が好きだ。何度もあきらめて、忘れて、どうでもいいと思っても、やっぱり、思い出すのも、会いたくなるのも、香苗なんだ。幸せに、笑っててくれれば、それでいいと思っている。でも、泣いていないか、心配になるんだ。……お前の子供なら、それでいい。俺を選ばないか?」
一言一言、香苗の心に染みるように発せられる言葉。長い間、わかっていて受け取らなかった思いは、重く温かく、心地いい。
けれども、断たねばならない。
「ありがとう。私も智哉がとても大切。とても大事。あなたの幸せを私も心から願っているの。私が甘えていることで、あなたの幸せを壊すことになるなんて、わかってなかった。ううん、わからないフリをしてたの。あなたという、選択肢を残して、逃げ道を残してたのよ。それは結局、あなたはもちろん、暁人をも傷つけてしまった。本当にごめんなさい。私は智哉を選ぶことはないわ」
涙を流す権利がないとわかってる。けれども、涙は頬を伝う。
智哉は微笑みを浮かべたまま、香苗の言葉を受けとる。
「わかってたさ。お前は、俺を選ばない。だから、泣くな。俺が忘れなれなかっただけなんだ。忘れた、済んだことだと、思ったつもりでも、いつだって心に引っかかて、昇華出来なかったのは、俺の責任だ。香苗が気に病むことじゃない」
「昇華出来なかったのは、私が言わせなかったからよ。私が甘えていたの、その想いに気づかないフリをしてたの」
「泣くな」
「ありがとう。あなたがいたから今があるわ。感謝しきれない」
「……香苗」
「地元、帰るわ。海と山しかなくて、他には何にもないところだけど、経験の浅い産婦人科医でもいいって言う職場もあるし、美結のことを助けてくれる親もいるから」
「暁人は……、一緒に行くのか?」
「うん。三人で行くわ。やり直しよ、私たち」
「そうか……、よかった」
「私、自分でも不思議でしかたないの、どうして暁人がいいいんだろ?だって、智哉のほうがずっといい人で。私、幸せになれると思うのに」
「俺もそう思う」メガネの奥の瞳が優しく細められる。
携帯電話の呼び出し音が聞こえ、智哉はポケットから、折り畳み式の携帯電話を取りだす。
[はい?……あぁ、わかった。すぐに行く]
「呼び出し?」
「術後の患者だ。もう、行く」
「私、最後まで食べるから。じゃあね。……その携帯、古すぎだし」
「不自由ないから。じゃまたな」
立ち去る智哉の背中を、香苗はじっと見つめる。
大きな背中を丸めるようにして歩く姿が見えなくなるまで、ずっとみていた。
一度も振り返ることなく、智哉は行った。
香苗は、嘘をついた。
智哉をいつまで、騙すことができるのだろうか。




