霜降月のグリズリー
始まりはいつも足音もなくしのびより、記憶は曖昧で、思うようにはいかない。
季節が巡ることに似ている。ほんのすこし肌寒さを覚えると、次の瞬間には身を切るような風に吹かれる。
いつの間にか、冬になっているように、いつの間にか、始まっていた。
7階南の外科病棟は冬の気配を全く感じさせない。そこで働くスタッフがはいつも半袖の白衣で、室内の気温は空調により一定だ。エレベーターを降りたところで、看護師の平原綾音がむっつりと歩み寄ってくる。
「ちょっと、どういうつもりなのよ?」
「なんだよ、藪から棒っていうのは、今の平原さんみたいなのを言うんだよ」
「そんな冗談いらないから。……丸野よ。私がこんなこと、言えた道理じゃないのは、重々承知だけど、なんで丸野なのよ。他にもっといるでしょうよ?」
「ほんとに、それを平原さんか言うのは、ちょっと納得できないな、妻子のある男と付き合ってた平原さんの言葉じゃぁ」
「だから、それを承知で言ってるの」
「……妻子があるわけでも、彼女がいるわけでもない、何の問題がある?」
「そういうことじゃないのよ、わかってるでしょうよ?どう考えても役不足でしょ?先生と丸野じゃ、種類が違うよ、犬と猫?いやっ、チワワとグリズリー?それくらい違うでしょう」
「ひどい言われようだな、熊かよ?」
「クマはクマでも、先生が、蜂蜜好きな、赤いシャツ一枚のお気楽なクマなら、全く問題もないのよ!」
「蜂蜜は結構、好きだし、俺が赤いシャツ一枚だと、間違いなく警察のお世話にならなきゃいけなくなるぞ」
「……いっそのこと、穴に挟まったまま、動かなくていいし」
「一体、俺の何をもって不釣り合いと言うのか?さっぱりわからないな」
「丸野が満更でもないのはわかってたけど、適当にあしらうと思ってたのに」
「あからさまに好意を寄せられて、断る理由がないだろう?何の問題がある?」
「先生は、あからさまな好意を寄せられたら、誰とでも付き合うの?」
「ダメか?法律上の問題もない、倫理に反することもない。それとも、俺は誰とも付き合っちゃいけないか?いつまで、可哀想な男でなけりゃいけないんだ?」
長いまつげをしばたたせ、その目を伏せる。噛み締めるように、ふうっと長く息を吐き、にこりと微笑んで智哉の顔を見る。
「……そうね。騒ぎ立てることじゃないね。……丸野さ、バカで真っ直ぐでいい子なのよ、大事にしてやってよ」
「……妙にいい人じゃないか?」
「大人げないのは、私だって気づいただけよ」
「まぁ、お互い様だからな?」
「ふふ、そうね。私は不倫してた女。西口先生は浮気された男?」
「浮気されて離婚した男だろ?」
「自虐的ね」
「事実だからな」