バカはおまえだ
「――さてクイズのお時間です。いま一階のトイレででっかいうんこをしたのは誰でしょう?」
正午。
ホームルームが終了し、輝いた顔で、クラスメイトたちが部活や自宅に向かう。
勇樹も真っ先に帰ろうとしたのだが、それより先に、クラスメイトの高橋健に声をかけられてしまった。クラス内で唯一の『友人』である。
勇樹はスクールバッグを持ちあげ、健に背を向けた。
「じゃあな」
「おぅい! ちょい待てよ!」
健がとんでもないスピードで勇樹の前に回りこむ。
「バカめ、逃げられるとでも思っていたのか! さあ勇樹、クイズの答えを言いたまえ! いま一階のトイレででっかいうんこをしたのは誰?」
「…………」
「正解はオレだ! どうだ、わかんなかったろ。かっかっか!!」
健は唾を飛ばして笑い転げるが――
岡本に「うるせえ!」と怒鳴られ、
「しぃません!」
と馬鹿みたいに謝る。それを見て、勇樹は頭痛を感じた。
理解不能で頭のおかしい変人。それが彼だ。ゆえにクラスでも孤立していて、必然的に『底辺組』とされる二人が友人となった。
のだが。
正直、勇樹はうんざりしている。たしかに自分も底辺だが、かといってこんな奴に関わりたくもない。
ちらと視線を転がす。
彩坂真由が、席に座ってバッグのなかを整理していた。そのまわりには、クラス内でも活発な男子生徒が六人。なかには他クラスの生徒もいて、彩坂と和やかに談笑している。
その彩坂が一瞬こちらを見た気がして――
勇樹は慌てて、視線をそらす。危ないところだった。
「うんこ食べたい」「うんこになりたい」という健のくだらない話をスルーしながら、昇降口に向かう。そのままため息をつき、校門を出て、大通りに向かった。
●
大型店舗の立ち並ぶ、学生や社会人でごった返す大通り。デパートの壁面に設置された大型液晶が、かわいらしいアイドルを映し、やかましくCMを流す。路上演奏をする若者や、献血を頼み込む集団を尻目に、勇樹たちは自宅へと向かう。
帰ったらなにをしようか――などと考えていると、唐突に健がまともな話題を振ってきた。
「にしてもきょうはびっくりしたよなー。彩坂さんの夢」
――日本の腐ったペット業界を徹底的に潰したい! それが私の夢です!
ああ、と思い至って歩行速度を緩める。
「おまえも驚くことがあるんだな」
「黙らっしゃいうんこ野郎」
そう言って、健はにやりと目を細める。
「てか、勇樹はちょい嬉しかったんじゃねーの?」
「なんで」
「おまえもペット好きじゃん。特に犬」
脳裏に愛犬ポッチの顔が浮かぶ。嬉しそうに尻尾を振るシュナウザー、帰宅した勇樹に飛びついてくる小さな老犬。
勇樹は我を忘れている自分に気づき――すぐさま頭を振った。
「関係ないね」
「かーっ。なんでそう冷めてんのかね」
健は大げさに肩をすくめると、両手で持っているスクールバッグを背にまわし、あくまで軽い口調で訊ねてきた。
「てかよ。彩坂の言っていたことは本当なのか? 『腐ったペット業界』ってやつ」
「ん……まあな」
勇樹は、自分でも異常だとわかるくらい犬が好きである。ペットに関するテレビ番組が放送されていたら飛び込むし、犬関係の本を見かけたら即購入する。ペットショップを巡って一日を過ごすこともある。
中学に進学して以降、勇樹は学業よりもペットに関する勉強ばかりを優先した。おかげで学校での成績は悲惨であるが、ペットの知識であれば誰にも負けないという自負がある。
これまで読んだ大量の本のうち、特に印象的な文面を思いだす。
――なにが入っているのか疑わしいドッグフード。
ヤクザと癒着するブリーダー、ペットショップ。
葬儀屋と癒着する獣医師。
おもちゃ同然に犬を購入する飼い主。
日本人は総じて動物を舐めている。口が利けないからと、好き勝手に扱っているのだ。
特にペットフードは信用できない。よく勘違されているが、いま出回っているフードに比べれば、人間食のほうが明らかに犬にとって健康に良い(ただし材料は選ぶこと)。
なぜかといえば、人間食の素材として失格となった食材や、栄養などまるでない食材、ひどい場合は動物のフンが、フードに混ざっているからである。
現在獣医師が経営していられるのも、ペットフードのおかげだという皮肉すらある。最近になって施行されたペットフード安全法も、添加物を規制するばかりで、根本的な解決策にはなっていない。
勇樹も、昔はペットフードを盲信していたものだ。その信頼がガラリと崩れたのは、中学生になって徹底的に調べてからである。
冷たい風が吹き抜け、勇樹は言った。
「彩坂の言ってることは間違いない。だが悪事を根絶するなんて絶対無理だ」
「そっか? やればできんじゃね?」
「……そう思うならやってこいよ」
「おマジで? おーし、いっちょ本気だすぜっ!」
健はうおおおおおおおと走りだし、大男にぶつかり、頬を張り飛ばされて戻ってきた。
「すまん勇樹。たしかに無理だった」
あまりのくだらなさに勇樹が無視していると、健は咳払いをし、話題を変える。
「でさあ勇樹。おまえの夢にも驚いたぜ」
「…………」
「おうい、無視かよ将来のニートくん」
「……俺は身の丈に合った夢を志望してるだけだ」
異性と付き合うこともできず、何事にもやる気のない自分が、社会に出てもたかが知れている。それだけのことだ。
「でも、昔はペットフードの製造会社に勤めるのが夢だったんじゃないのか」
「昔の話だ」
「なんでだよ。おまえほどの知識があって、もったいないじゃん」
「うっせーんだよ」
不機嫌な声を発し、歩行速度を上げる。
健は「お、おい」と言って隣に並んだ。
「怒るなよ。なな、な?」
「…………」
「俺だって友人としておまえを心配してんだ。なあ、考えなおして――」
ふいに、健が言葉を切った。
勇樹は不審の顔を向けた。この変人が自分から会話を中断するのは珍しい。
「お、おいアレ……」
健の指差す方向に、勇樹も顔を向けた。
息を呑んだ。
高校生とおぼしき五人の男が、店と店の間の小路で犬を囲んでいる。なにが楽しいのか、犬をいたぶっては下品な笑い声をあげている。犬は抵抗できないようすで、ギャンギャンと悲痛な悲鳴をあげていた。
通りすがりの人々は、顔をしかめて通り過ぎるだけだ。厄介事には巻き込まれたくないという表情である。
犬は血を吐いていた。あのまま殴りつづければ、命にも関わるかもしれない。にも関わらず、男たちはさらに下品に笑いながら犬を蹴る。殴る。踏む。
――っ……!
勇樹のなかで激情がスパークし、
「持ってろ」
健にスクールバッグを放り投げた。
「はあ? なんで俺が――」
健を無視し、勇樹は猛然と男たちに歩み寄った。
男たちを他校の生徒だと判断する。宮坂高校とは制服が違う。学ランのボタンを全開にし、ワイシャツを剥き出しにしてズボンをずり下げるその姿は、ブレザー着用を義務としている宮坂高校では絶対に見られない姿だ。
勇樹は男たちの目前にまで近寄り、太い声をかける。
「おい」
全員が振り向いた。怪訝そうな顔をしていたが――勇樹の頼りない外見を見るや――軽蔑と威嚇を込めた笑みを浮かべる。うちひとりが嘲笑とともに返答した。
「なぁんだよ」
「その犬を放せ」
「はあ?」
嘲笑の音量が増す。
「オマエどこ校だよ」
ふうとため息をつく。どうしてこの流れで学校名を聞かれなけばならないのか。
勇樹は尖った視線を向けた。
「放せ。その犬の気持ちがわからないのか」
「はっ、おまえいい加減にしろ――ヨッ!!」
顔面に衝撃が走った。
勇樹は思わずよろめく。鼻が折れそうな感覚を感じて、初めて自分が殴られていることに気づいた。
「カスが、調子に乗ってんじゃねえ!!」
他の四人も我先にと拳を放ってくる。そのどれもが、勇樹には目を追うことさえできなかった。
「おえっ……」
すさまじい吐き気が、勇樹の胃をかきまわした。どうやら腹部を強打されたらしい。耐え切れず、前のめりの姿勢になる。
そのつんのめった顎を、今度は下から突き上げられた。脳天が回転するかのような激痛に、勇樹は声にならない悲鳴をあげる。襲ってくる拳を防ぐことすらできなかった。勇樹はそのまま仰向けに崩れた。
「おらおらおら、どうした!? 返事してみろよカスがよォ!!」
喧嘩の経験など、幼少期からまったくない。相手の攻撃を防ぐ方法や、反撃する方法すらも、勇樹の頭にはない。相手の攻撃に黙々と耐えるしかできない。
攻撃の嵐にありながらも、勇樹はできる限り視線を巡らせた。
さっきまで殴られていた犬が、怯えたようにこちらを凝視している。
その犬を介抱すると、背を丸め、勇樹はひらすらに攻撃に耐えつづけた。
●
「――きろ」
どこからか声が聞こえる。
「起きろ、勇樹!!」
耳元で怒声が響いた。一瞬にして意識が戻った。
どうやら自分は地面に横たわっているらしい。うっすらと目を開けると、そこに見覚えのある顔があった。
「た……高橋……?」
「高橋……、じゃねーだろバーロー。無茶しやがってよ」
高橋健はため息をつくと、「あーあひでえ傷だな」と言いながら勇樹の全身を見回してきた。
ひらめくものがあった。勇樹は慌てて上半身を起こすと、視線を左右にぶんぶん動かした。
「犬は!? さっきの犬は!?」
「無事だよ。ほれ」
健はよいしょと老犬を抱え上げた。トイ・プードル。見たところ老犬。さっきの犬に間違いない。不良どもに殴られて所々に傷があるが、とりあえずは命に別状はなさそうだ。犬特有の純粋な眼差しで、ハッハッと口呼吸を繰り返している。
「よかった、無事だったか……」
それだけでもう充分だった。健に抱き上げられたままの老犬の顎下を、優しく撫でてやる。
穏やかな気持ちで、勇樹は健に尋ねた。
「あいつらは?」
さっきの不良グループのことである。健はにやりと口角を上げて言った。
「よく聞けよ。俺が、俺がだぜ? 警察の声真似してやったんだよ。そしたらあいつら一目散に逃げていった。まあ高校生なんてこんなもんよ」
いやおまえだって高校生だから――というツッコミは、今回ばかりはしなかった。なにはともあれ、健の馬鹿さ加減に救われたのは事実である。
「しかしまあ、おまえの馬鹿さ加減にゃ呆れるよなぁ」
思考がシンクロしたような健の発言に、勇樹は驚いた。
「なんだと?」
「だってよ、あの怖い連中にわざわざボコられにいったんだぜ? これを馬鹿と呼ばずしてなんと呼ぶ」
「馬鹿はおまえだ」
「いや、おまえだろ」
「は? おまえだから」
「いやいや、おまえだし」
「ざけんな。おまえだ」
「そっちこそふざけんな。おまえだ」
不毛な論争を数分繰り返してから、二人は意味もなく笑った。それから重い腰をなんとか持ち上げ、健に預けていたスクールバッグを受け取る。
「で、勇樹。どうするよこの犬」
「なにが」
「このまま逃がすか? もしかしたら飼い主が探してるかもしれないし」
暗い気分になるのを抑えつつ、勇樹はゆっくりと首を横に振った。
「いや、こいつ、たぶん捨て犬だ。人が大勢いる場所で散歩する奴がいるかよ。首輪もついてないしな」
「…………」
健は黙り込んだ。老犬を撫でていた手が、ふと止まる。
勇樹も顔をうつむかせた。
さっきまで散々に殴られていた犬を無責任に逃がすのは、さすがに心が痛む。
それに、健は知らないだろうが、捨て犬は基本的に愛護センターに保護される。『保護』というのは名ばかりで、実際は『処刑』と言ったほうが正しい。愛護センターに収容された犬は、その半数以上が、一酸化炭素中毒によって殺される。
ならば、勇樹が取りうる行動はひとつしかない。
「高橋。その犬、今日から俺が飼うよ」