プロローグ【劣等種に生まれた自分を、そして人間どもを、俺は怨む】
動物を『勝ち組』と『負け組』に分けるのならば、自分は間違いなく負け組に属するだろう。
なぜならば、我々は人間に翻弄されるだけの種族だから。外見・知能ともに、人間のオモチャとして申し分のない奴隷。一生を人間に奉げ、文句さえ言うことは許されない。それが自分たちだ。
――地球が許せない。人間どもを抹殺しなくば気が済まない。
人っ子ひとりいない森林。そこを何処へともなく歩きながら、カーレッジはそう思った。
『カーレッジ』というのは、前のペットショップで店員につけられた名である。由来は、勇敢そうに見えるから――らしい。
人間ごときにつけられた名など使用したくもないが、名前がないと何かと不便である。せめて自分改名するか……
カーレッジが思想に耽っている、そのときだった。
「ギャァン!」
背骨が破砕するかと思った。上空から固い物体が落ちてきたのである。
カーレッジは咄嗟に頭上を見上げた。
二羽の鳥が、カーレッジのちょうど真上を飛んでいる。その二羽の鳥が、さらに大量の石を降下させてきた。
――くそっ。
カーレッジはダッシュでそれをやり過ごすと、天空に向かって吼えた。
「なんの真似だ、貴様ら!」
「わー犬がしゃべてってきたー」
「犬のクセに生意気ー」
嘲笑とともに、野鳥が再び石を落としてきた。
かろうじてそれを避ける。激昂したカーレッジが抗議の怒声をかけるも、石がやむ気配はない。
くそっ! カーレッジは毒づき、駆け出した。
空からの視界がきかないであろう場所を探すうちに、高い木の密集するポイントを見つけた。ここなら野鳥も追ってこられまい。カーレッジは無我夢中でそこに飛び込んだ。
やわらかな土の上を駆け、もう充分だと感じたところで足を止めた。荒い呼吸とともに顔をあげ、野鳥たちがいないのを確認し――ほっと一息つく。
地面に腰を落とし、うつ伏せの姿勢になる。
鳥ごときに追いかけ回される自分を情けなく思いながら、カーレッジは目を閉じた。ここ三日の記憶が鮮明に瞳に浮かぶ。
ずっと野鳥から逃げる日々だった。彼らは決まって、汚い罵声を浴びせてくる。
――捨て犬。
――負け犬。
こう呼ばれるには訳がある。
カーレッジーは数日前、ペットショップに捨てられた。五年もショーケースに監禁され、いいようにたらいまわしにされた挙句、あっさり手放された。
その理由ははっきりしている。
売れなかったからだ。
太く成長しすぎた足。獰猛な身体つき。他の犬と比べて、自分はかなり凶暴な外見をしている。
いや、それも仕方がないといえば仕方がないと思う。自分は『ゴールデンレトリバー』という種類に分類されるらしい。犬のなかで最も体格のある種族だそうだ。とはいえ、そのゴールデンレトリバーのなかでも、自分は群を抜いてでかい。実際、これまで見かけたどの犬よりも自分は大きかった。
人間にとって、そんな犬は魅力的でないらしい。
産まれて間もない子犬ばかりを購入し、大きなレトリバーには目もくれない。ショップ側も、さまざまな対策を練って自分を売ろうとしたようだが、結果は惨敗。
かくして、ショップ店員は深夜、無情にも自分を手放した。
不味かった飯……態度の悪い店員……思い返すたびに虫唾が走る。
グルルルルル……
無意識のうちに唸っている自分に気づき、カーレッジは苦笑した。
――だが、もうストレスにさらされることはあるまい。
自由。そう、自由なのだ。ショップに見捨てられたのはむしろ光明である。気ままに出歩ける幸せは、人間などに振り回される子犬どもには決してわかるまい。
ふんわりとした解放感が込み上げ、カーレッジはまどろんだ。
起きたらなにをしようか、そう考えながら、目を閉じた瞬間――
カーレッジはさっと顔を上げた。
匂いがする……それも、忌々しい人間の匂い。嗅ぐだけで怒りが込み上げるような、悪魔どもの悪臭。
顔をしかめ、カーレッジはさっと立ち上がった。どこか遠い場所に逃げておきたい。
そのとき、
「いたぞ!」
という、野太い声が耳をつんざいた。
さらに、
「で、でかい……報告通り、アレは危険だな」
「慎重にいこう。前も同業者が深手を負ったばかりだ」
という声。どうやら人間は複数人いるらしい。
振り返り、声のした方向に目を凝らす。
やはりだ。忌々しい人間が三人もいる。なぜか丈夫そうな衣類を身につけ、片手にはロープを持ち、油断のない視線をこちらに向けて――
と、形容しがたい戦慄が、カーレッジの全身を舐めあげた。
恐怖を感じた明確な理由はない。本能がカーレッジのなかで危険信号を発していた――逃げろ、と。
次の瞬間には、カーレッジは駆けだしていた。全身の筋肉をフルに使い、全力で走る。
「そっちへ行ったぞ、鈴木、頼む!」
「あいよ!」
知らぬ言葉で人間が声を交わしたあと、
カーレッジは怖ぞ気を感じて立ちどまった。
目の前にも、三人の粗暴そうな人間が立っていたからだ。
「さあそこまでだ。逃げても無駄だぞ」
――なんだ、なんなんだ!
わけがわからないまま、カーレッジは引き返す。
が、すでに背後にはさきほどの人間三人が立ちはだかっていた。彼らは警戒しているかのようにカーレッジをにらみ、ロープを乱暴に振り回している。カーレッジはあんぐり口を開け、立ち尽くした。
逃げられない……
そう悟るのと、首に強烈な圧迫感を感じたのは同時だった。呼吸ができなくなり、唾液を垂らしながら、必死に空気を求めて喘ぐ。器官が潰されるほどの激痛に、視界が滲んでくる。
な……なんなんだこれは……
懸命にもがくが、人間の足蹴によって動くこともままならなくなる。
意識をなくす寸前、さっきの野鳥たちの声が耳に届いた。
「やーい負け組負け組ー」
「アハハ、犬に生まれた時点で負け犬さ」
★
はっと目が覚める。カーレッジは身体を起こした。
首筋に鈍い痛みがある。身体のあちこちがズキズキと悲鳴をあげる。立っているのも困難で、思わず腰を落とした。
と同時に、懐かしい香りが鼻を刺激した。
それは同族の匂い。
辺りを見まわすと、ここは暗く狭い空間のようだった。数十の犬たちが死んだようにうつ伏せている。
どうなってんだ? レトリバーが小首をかしげると、背後から太い声がかけられた。
「目覚めたかな」
振り向くと、やはり生気のない目をした犬がたたずんでいる。
「あんたは?」
「きみと同じ身分の者さ。……さぞ、きみも大変だったんじゃないか?」
身体に残る激痛を思いだす。憎悪に燃える炎を抑えつけながら、レトリバーは別の質問を投げた。
「……ここはどこだ?」
「トラックのなか。一度くらい入ったことあるだろう」
「ああ……」
そういえば、ショップに捨てられる直前にガタガタ揺れる乗り物に乗せられた記憶がある。
「なあ、これはどうなってんだ? 俺たちはどうなる」
「おいおい、それを訊くのかい?」
哀れむようにカーレッジを見つめてから、犬は続けた。
「行く先は動物愛護センター。俺たちは人間に保護されたんだよ」
「保護だと!?」
意外な言葉に、レトリバーは腰を上げた。思いもよらず大きな声になった。じろりと睨んでくる犬たちに謝ってから、話を続ける。
「どういうことだ。人間が俺らを助けたのか」
「はっ。なわけあるか」
俺も他の奴から聞いたんだがな、と前置きしてから、
「殺処分。俺たちは殺されに施設に向かう」
そのセリフが理解できず、レトリバーはぽかんと口を開いた。思考が真っ白になる。
やがて、かすれた声で返答した。
「おい……オレがなにかしたかよ……おい」
「……いや」
「こんな馬鹿な話があるか? なあ、おい。意味わかんねえよ……」
「…………」
「ちくしょう、ちくしょう! ふざけんなァッ……」
レトリバーは声にならぬ悲鳴をあげた。
――犬に生まれた時点で負け犬さ。
野鳥の言葉が脳裏をかする。そしてひたすらむせび泣く。
そのときである。
眩しい光が、優しく自分を包み込んでいた。