「+」春日絵美の場合
「にぃ」
何か、健二がうめき声みたいな声を出した。
「ん?」
健二は、私の彼氏。彼氏という言葉で表現するのはかなり照れくさいけど、一応私たちはつきあってるわけで、それって彼氏彼女っていう言い方をしてもいい筈。
ま、つきあってまだ一ヶ月もたってないわけだけど。
今日も、帰る途中に健二がうちに来た。よく来る。といっても、居間でごろごろしたり、ゲームしたりするだけなんだけど。今はマンガ読んでる。
今日は親もお姉ちゃんも留守で、二人きりなわけで、そういう意味ではもっとイチャイチャした方がいいんじゃないかなと思ったりもするが、健二も私も、あんまりそういうノリじゃない。自分でいうのもなんだけど、お子様だ、私。
別にこの状況、家族がいない隙を狙って健二を家に誘った訳じゃなくて、私たちの仲は家族公認の仲なのだ。私たちが付き合い始めて、数日でお姉ちゃんにばれた。私が口を滑らせたからだ。そしてお姉ちゃんはあっさりと両親の前で口を滑らせた。ただ、お母さんもお父さんも、「ごっこ」レベルだと思ってるみたいで、娘に彼氏ができたという認識ではないように見える。そう思っててくれたほうが面倒がなくていいけど。
「いてうにぃ」
健二の発音が悪いのか私の耳が悪いのか、意味不明な言葉に聞こえた。私は反射的に「は?」って言いかけて、踏みとどまった。
私は最近、反省しているのだ。健二の言うことを、ちゃんと理解できてないことが多い。健二は頭いいんだけど、そのせいか話が回りくどくて、集中力のない私はすぐついていけなくなっちゃうのだ。うまくごまかしてるつもりだったけど、最近、ちゃんと聞いてないのがバレ始めてる気がする。健二が時々がっかりしたような顔をしてるのがわかるのだ。
私はバカなんだから、聞いてたフリなんかしちゃダメなのだ。私がしなくちゃいけないのは、健二の言葉をちゃんと聞いて、理解しようと努力すること。
というわけで、なんとか意味を汲み取ろうと努力してみる。
「射て……ウニ? 何かウニに恨みでもあるの?」
……私、何言ってるんだろう。なんでこの場面で健二が海産物への恨みを言わなくちゃいけないんだ。しかもそれを私に言ってどうする。
私の言ったことがあまりにとんちんかんだったせいか、案の定、健二はポカンとしている。そりゃそうだ。
「お? ざもあにあぢゃと? うみにあとうゃち」
残念ながらまたしても意味がわからない。完全に謎の呪文にしか聞こえない。
……。今のは、さすがに意味がわからなくても私のせいじゃないよね? そう思い、意味を理解しようとせずに素直に聞き返した。
「え、なに?」
聞き返すと、やはり健二が怪訝そうな顔をする。あれ? なんか私たち、変な感じになってない?
「かう、おむ、しゃくきりにぬうゃとあぢきをきあにうら。つゅあなすゅぼゃとけろ」
なってるなってる。だって、健二、明らかに日本語喋ってないんだもん。
「……言葉がわかんない」
健二、実は外国語で喋ってるのかな。健二は私よりずっと勉強できるから、あり得ないことじゃないかも。でも、私はわからないから日本語で喋って欲しいな。
「おむ、にあきはいたぶ? そてもうすとけあにうなをきあにうわ」
落ち着いて、考えるんだ。春日絵美。健二は、私をからかうために外国語をまくしたてるようなやつじゃない。どっちかといえば、そんな訳のわからないことをしそうなのは私のほうだ。だから健二は、日本語で話してるつもりだと思う。それを理解できないのは、私と健二の間に……何かの問題が……。
そこで私は閃いた。あ、そうだ、これは何かの本で読んだ話だ。
「バベルの塔だ。それ系の、神の怒りに触れたのね」
そう、バベルだかバブルだかの塔の話だ。うろ覚えだが、たしか昔、高い塔を建てようとした人たちがいた。神様の住んでる雲の上まで伸ばそうとしたらしい。そしたらなんだかわからないけど神様が怒っちゃって、塔を壊した。で、そのついでに、人々の言葉を全部バラバラにしました、みたいな話だった気がする。……てことは、それまでは人間はみな同じ言葉を喋ってたってことかな。大阪と東京でも同じ言葉を話してたのか……。神様のせいであの大阪弁が生まれたのね。お笑い芸人はバベルの塔を建てた人たちに感謝しないと。
いけない、また思考がどっか遠くへ行こうとし始めた。
私は推理を働かせる。最近神の怒りに触れた、高い塔がある筈。最近建設された高い塔……。
私は手を叩いた。
スカイツリーか! うん、間違いない。
……とにかく、こうなったからには仕方が無い。言葉によるコミュニケーションは諦めるしかない。
「でも大丈夫! 言葉が通じなくても、今の時代にはボディランゲージがあるわ!」
まあ、バベルの塔の頃から、それはあったかもしれないが。
私は、立ち上がった。健二に向って、身振り手振りで、意思を伝えよう。
えーと……。
今日の、晩御飯は、ハンバーグが、いいな、と。私は晩御飯を示すお盆を四角で表したり、ハンバーグを現す丸を空中に描いたりしてみた。
どうだろう、伝わっただろうか。ちらりと健二を見る。唖然とした表情をしていた。いまいち伝わってない気がする。
……って、そんなもの伝えてどうするんだ。バカか、私は。
今伝えなくちゃいけないのは、そう、バベルの塔のことだ。私たちは神様の怒りに触れて、言葉によるコミュニケーションを失ってしまった。今こそ、文明に毒された私たちは自然へ帰らなければ。言葉を失い、技術を捨て、ただありのままに生きていた原始時代の心を取り戻すのだ。
私はまずバベルの塔を現すべく塔のモノマネをしたり(足を開いて立ち、手を上げる)、それをうち砕く神の怒りの形相や逃げ惑う人々を演じてみたりした。
「おーさ……。ばえすち? さなびぎすゅぼろにけにゃちはき?」
健二が、まだ言葉に頼ろうとしている。
「口で言おうとしてはダメよ! そんなの、進歩した人間のやることよ。私たちは言葉が通じない原始時代に戻ってしまったのよ! 身体で語り合うのよ!」
私の情熱で、健二の目を覚まさせてみせる! 見てて、健二!
「どう、伝わってる!? 私の言いたいこと!」
私は本能の赴くままに、全身を使って健二への思いをスパークさせる。そう、頭で考えてはダメ。心のままに。ここは家の中じゃない。ソファの上じゃない。私は心を空へと飛ばす。身体を使ったコミュニケーションは、人類共通の言語のはず。地球をまたがる心の架け橋。たとえば、ここはどこ? 日本? 違う、ここは世界。人類は今こそ、言葉という見えない境界線に縛られることなく、全ての人間が個人対個人として向き合う、そんな世界を実現するのよ。
私は開眼した。そう、この気持ち。この情熱をもって、世界を一つにする。それが私の使命。さあ、その第一歩は健二、あなたよ!
「このたぎる情熱は誰にも止められない!」
バックバンドが演奏を始めた。サンバのリズム。そう、ここは南米。私の踊りで人類が一つになる。その始まりの地。ほら、聞こえてきた。観客席からの手拍子。徐々に大きくなる。次第に会場を埋め尽くしていく。立ち上がり始める人々。声を上げる。身体を動かす。飛ぶ。跳ねる。皆が興奮に飲まれていく。音が身体を包み込むビートが心臓を揺らす。
私は両手を挙げた。
スタジアムの屋根が吹き飛び、野外コンサートになった。観客の海が地平線まで続いていく。ああ、凄い。人類が一同に介している。ここはどこ? 南米? 違う。ここは世界。
やがて音楽はクライマックスを迎えた。私は踊り終える。鳴り止まないアンコールの中、スタッフのジェニファーが私が取り落としていたマイクを拾ってくれた。私はマイクに向って喋る。
「みんな、ありがとうー! ダンスは人類共通の言葉よね!? リオデジャネイロから来てくれたバンドの皆にも惜しみない拍手を! ありがとう! ありがとう! はぁっ。はぁっ……」
私はステージ脇に引っ込んだ。お疲れ様と声をかけてくれるスタッフたちと握手を交わしながら、楽屋へと戻る。
「ふーっ。いいサンバだったわ……。ちょっと、どうしたの、健二? テレビなんか見て。私の情熱は届いたの?」
ふと見ると、健二がテレビの天気予報を見ていた。もう、健二ったら。地球が一つになったというのに、天気なんかどうでもいいじゃない。
……。
…………はっ。いかん私はまたどこか行っていたらしい。
健二が、何か得体の知れないものを見るような目で私を見ている。
落ち着け、私。あやうく現実を見失うところだった。……とっくに見失ってたじゃんというツッコミをする自分の中の誰かを黙らせる。
深呼吸。ここは南米じゃない。ここは私の家。リビング。
「もう、健二ったら、テレビは別名、イディオット・ボックス。文明に毒された愚かな人類の発明品よ。私たち自然に生きる原始人はそんなもの、見てはいけないわ」
その場をごまかすために、健二に苦言を呈してみる。
健二がつぶやくように言った。
「にあき、くょえぬさなびぎてえずにけにぁ……むちうぢに」
意味はわからないが、最後の言葉を拾ってみる。理解しようとする努力はいつだって必要だ。
「……むちうぢに?」
夢中死に、だろうか。何かに夢中になって死ぬこと? それとも夢の中で死ぬことかな。違うか。
「さゃつはさなびやてずとにうむちうぢす」
「むちうぢす?」
似たような言葉がまた聞こえたのでリピートしてみる。夢中じす? じすって何だろう。
「むちうぢ……わ」
……、夢中字……わ。うーん、わからない。むちうじ……むちうぢ……輪? 違うかな。は、かな。
……むち……。あ、わかった!
「あ、そうか、ムチ打ちね! ムチ打ちをして欲しいのね!」
私は理解した。断片的ではあるが、健二と再び言葉が通じる兆しが見え始めた気がする。
要するに、健二も、私と同じ結論にたどり着いたというわけだ。すなわち、肉体によるコミュニケーションしかない、と。でも、私の幼稚なボディランゲージ(途中から踊ることに夢中になっちゃってたし)を見て、賢い健二は教えてくれているのだ。
すなわち、道具を使え、と。
そう、何も言葉を失ったからといって、道具まで捨ててしまう理由はない。ムチという道具を使って、肉体に打撃を与えるという過激な方法で、ボディ・ランゲージを進化させよう。それが健二の考えだったんだ。
私はお姉ちゃんの部屋に向った。お姉ちゃんが確かムチを持っていた筈だ。拝借しよう。机の引き出しの一番下で見つけたそれは、一見するとハタキみたいに見えるが、棒の先に何枚もぶらさがっているのは革で、勢いつけてぶつとかなり痛そうだった。
「でも、なんでムチなんだろう」
私は、今一度冷静になる。そう、生身の肉体だけでなく道具を使えというところはわかる。でも、なんでムチ? 大体、なんで叩く必要があんの? 痛いじゃん。
「まさか……」
驚愕の事実に気付いてしまった。これはあれじゃないだろうか。健二は、つまりその、ハイヒールで踏まれたりとかするのが好きな人だということ……なんじゃないか。お姉ちゃんが昔酔っ払って喋ってたのを聞いたことがある。世の中には、鞭でしばかれたりハイヒールで踏まれたり、えーと蝋燭を……どうするんだっけ、まあとにかく、痛い思いをするのが好きな人がいるらしいのだ。
「嘘でしょぉ……」
健二がそういうのが好きな人なのだとしたら。お姉ちゃんは言っていた。人の好みは様々なんだから、そういう人がいてもけして引いたりしてはいけないと。大事なのは、わかりあうことだと。
そうだ。わかりあわなくては。正に今、私がしなければならないことはそれなのだ。理解して、できれば協力してあげたい……。ん? 何に協力するんだ? まあいいや、そもそも何をすればいいのかがわからないし。とりあえず鞭で叩けばいいのは確かだ。叩こう。
「あと……これもつけたほうがいいような気がする」
見つけたものの中に、蝶の形をした眼鏡があった。傍にあった雑誌の表紙の人の格好から推測すると、これもまた、必要なアイテム。重要なファッション要素なのだ。形から入る意味で使わせてもらうことにする。本当はこのやたら露出度の高い黒い水着みたいな服も必要なのかもしれないけど、お姉ちゃんがそれを持ってるか知らないし、さすがに恥ずかしいのでやめておく。
「よし」
私は緊張しながら、居間へ戻った。手にした鞭が、妙に重く感じられる。これで健二を叩くのだと思うと、しかもそれを健二が望んでいるのだと思うと、まったく訳がわからないけど、どこかワクワクしている自分がいるのに驚く。
「……にねぎかさゃとれあぢ……?」
私の姿を見て、呻いた健二。
「健二にそんな趣味があったなんて……。こんなこともあろうかとお姉ちゃんの秘密道具の隠し場所を知ってて良かった」
喜んでいるのか戸惑っているのかセリフからはわかんないけど、表情は明らかに後者ね……。大丈夫、勇気を出して。何事も、やってみるしかない。なんかもう後にはひけない気分だし。
「お、おむ、かつてこ。ろうそうぬ。にぬんすらえさすとれはきをきりにうぎ、ひにすいかえ」
健二が、手をパーの形に広げてこちらに示した。どういう意味だろう。十回やってくれってことかもしれない。いきなり十回も。
「私も初めてだけど……頑張るからね、健二。健二の求めている肉体でのコミュニケーションって、こういうことよね!」
ええいと力を込めて健二を狙ったのに、当たる寸前で健二が避けた。
「つっぁな、ちうめ、ちうめ! みぁとけわ、おむ、かつてこ!」
ソファの上のクッションが破れて舞い散った羽毛を見ていたら……急に楽しくなってきた。
「なんで逃げるの健二! 逃げていては意思の疎通は図れないわ!」
逃げ惑う健二を追い回し、一撃をお見舞いしようと鞭を振る。あ、そうだ、高笑いをしなくては。
「おーっほっほっほっ。さあ、おとなしくなさい!」
健二が廊下に飛び出したので、それを追いかける。
「すゅろぬにりにうぁと!」
気のせいか、健二がただただ恐怖しているだけに見えるが、健二の望んだことだ。最後までやってあげなくては。
健二が玄関の扉に取り付こうとしたところで、扉が開いた。現れたのはお姉ちゃんだった。
「あ、お姉ちゃんおかえり」
お姉ちゃんは飛び出してきた健二に驚いたみたいだが、私を見て顔面蒼白になった。口をぱくぱくさせながら指さしているのは私が手に持っている鞭。
「○×△※☆……」
ん? ……ははーん。そうか。神様の怒りに触れたのは私と健二だけじゃない。お姉ちゃんもまた言葉が通じなくなっているのだ。
となると、この鞭はお姉ちゃんが使うべきね。餅は餅屋。鞭は鞭屋。鞭屋じゃないけど、持ち主であるお姉ちゃんが装備するのが相応しいわ。
私は鞭を差し出した。
「やっぱり、お姉ちゃんも言葉の通じない原始時代に戻っているようね! じゃあ、これでコミュニケーショあたっ」
途中でひっぱたかれた。へたりこむ。うぅ……。お姉ちゃんのボディランゲージはまだまだ道具を使わない時代のものだったようだ。
「いたぁ……。やっぱり、原始時代のコミュニケーションはダメね。ひっぱたくなんて、野蛮人のすることだわ」
私はそう結論する。後で、お姉ちゃんに道具の大切さをわからせなくては。
ふと見ると、健二がメモ帳に何か書いていた。こちらに見せる。
私は書いてあるままに読み上げた。
「さろんらあどけろ?」
そう書いてあった。意味はわからなかった。
すると健二は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに眉を寄せて何か考え始めた。健二はどうやら、この事態を解決させようと頭をひねってくれているらしい。さすが健二。
健二は更に何か書いて、見せてきた。
「くせ、すにうき」
読んだ。やっぱり意味はわからない。健二がじっとこっちを見ている。なんか恥ずかしいな。私が首を傾げると、健二は諦めたように首を振った。
「さろぬにぬききうとけろ」
と言って、メモ帳とペンを差し出される。書け、と言われているのだと理解する。ああ、そうかそうよね。私は前に健二が言っていたことを思い出す。文字というものがどうやってできたか。それは、絵だ。例えば犬という字は犬の絵。山という字は山の絵。それを、どんどん省略して簡単にしていったのが、字なのだ。
人類は再びそこからやり直しになったということだ。私は理解する。さすが健二。つまりこれに絵を描いて、それを文字に発展させていこうってことなのかも。
私はちょっと考えて、猫を書こうと決めた。猫が好きだし、今の猫っていう漢字は難しすぎるから、新しくもっと簡単な字に変えたいと思ったのだ。
「はい。できたよ」
可愛く描けた猫の絵を健二に見せる。
「おずゅにけと。やず。やずんきうとけろにうき」
怪訝な顔をしている。何を書いたって聞いてるのかな? 猫だってことがわからなかったのだろうか。私は猫のポーズをしてみた。わかる? 猫よ、猫。
すると健二は、私の絵に吹き出しを付け加えた。お? なに、どういうこと?
……私はちょっと考えて、吹き出しの中に魚の絵を書いてみた。猫だってことを表すには、魚かな、と思ったのだ。
でも健二は興味をなくしたように、居間に戻ってしまった。何よもう。上手に書いたつもりだったのにな。
私はもう少しだけ、猫さんの絵を練習することにした。
*
居間に戻ると、お姉ちゃんが戻ってきていた。
「あ、絵美、人の部屋から勝手に物を持ち出さないでよね」
「ごめん、お姉ちゃん。健二がやりたいって言うから」
そう言うと、お姉ちゃんは怖い顔をした。あ、しまった。
健二のほうを見て、お姉ちゃんが言う。
「マジなの?」
「みずむちうにあどせわ。ばえすちりううあどすっえ」
健二の答えは相変わらず意味不明。
……。
あれ? 待って、今、お姉ちゃんの言葉、普通に通じたよね?
……? えーと、どういうことだろ、これ。神様の怒りはお姉ちゃんには向かわなかったってこと?
見ると、お姉ちゃんと健二も普通に話ができてるように見える。
「困ってるって……! ちょっと絵美、何されたの?」
お姉ちゃんが急に私に聞いてきた。え、何されたって……? 何の話だろう。
健二が慌てて何か言った。
「ぼ、ぼてぬぱきのにぬやすとみそあわ」
「健二くんは黙ってなさい! 絵美に聞いてるの」
あれ、お姉ちゃん、何を怒ってるんだろう。
「お姉ちゃん、私は何もされてないよ。私が叩こうとしてただけで……」
「け、健二くん、そっちなの……?」
そっち……? そっちって、どっちだろう。……ああ、そっか。言葉がわからないのは、私か、健二か、という話だ。
「どっちも、だと思う……」
「ど、ど、……!?」
お姉ちゃんは目をまたたいた。
「ダ、ダメよ、二人ともまだ中学生なのに、早すぎるわ」
そう言って、お姉ちゃんは頭を抱えた。中学生なのに? それって何か関係あるんだろうか。
すると、健二が、お姉ちゃんに何か言った。
「か、かのおしあ……。おむぎうゃちさち、るきうどくれあどせき?」
お姉ちゃんはやっぱり怖い顔をして答える。
「理解……。理解ね、まあ、理解はできるわ。でも、今はまだダメよ。いい? そういうのは、もっと色んな段階を踏んでからにしなさい」
健二は何を言ったんだろう。色んな段階って何だろう。
「……ひう?」
健二の方を見るが、健二も首をひねっていた。
「にあはひにすどせき?」
「とにかく貴方達、まだつきあい始めたばっかりでしょ。どこで覚えたのか知らないけど、時期尚早です」
「うゃとれさちぎをきりにうあどせこば……」
「それにしても健二くんがそういう子だとは思わなかったわ。大人しそうな顔して人を油断させておいて……」
あ、お姉ちゃんもしかして、これは健二のせいだと思ってるってこと? お姉ちゃんてば、酷い。これは、神様がスカイツリーに怒ってやったことなのに。
「健二、ごめん……お姉ちゃんが」
健二が肩をすくめた。気にしてないさ、という仕草だ。やっぱり健二は優しい。
「まだ、私の言葉、わからない?」
わからないらしく、健二は答えず、立ち上がった。
「おむ、かのおしあ、ぱけ、すてろうすみせ」
「あ、健二くん、ごめんなさい、怒ったかしら。別に責めてるわけじゃないんだけど、ただまだ早いと思うのよ」
「い、かなさとあづきぞこあ。たはひぬすひきあこうにけと。ぱけ、くっえらえずいれあど」
やっぱり……お姉ちゃんと健二は話ができてる。神様は、お姉ちゃんには怒りを向けなかったらしい。もしかして、私と健二だけってこと?
話ができないのは、私と健二の間でだけってことなの?
え。
……なんで?
なんでよりによって、私と健二、なの? 私たち……。
つきあってるのに。
まだ二週間だけど。恋人なのに。なんで? どうして?
バベルの塔的な怒りなら、人類みんなにぶつけないとおかしいんじゃないの? 私と健二の間だけを裂こうとするのはなんで? 私と健二が何かしたの?
私は……今初めて、事態の重大さに気付いた。
気がつくと、健二が玄関へ向かっている。
「健二、どこ行くの?」
「何言ってんの絵美。健二くん、帰るって言ってるじゃない。お見送りしなさい」
お姉ちゃんが後ろから言った。なんでお姉ちゃんにだけわかるのよ。私なのに。私が健二の彼女なのに。
「健二、帰るの? どうしたの?」
じっと健二を見る。健二も、私を見ている。
え……。
健二の表情を見ていたら、私は気付いてしまった。
健二の目に浮かんでいるのは、悲しみと、諦めと……ほんの少し、安堵だった。
……。
なんで。
何をほっとしてるの?
……でも、その言葉を口にすることができなかった。
だって、わかっていたから。
健二は、私のことをうざったい女だと思い始めてる……気がしていたのだ。ここ最近。つきあって二週間なのに。ううん、子供の頃から知ってる仲だもん、隠し通せるわけないよね。
それで、嫌いになったんだ。私を。
だから、言葉が通じなくなって良かったってこと?
そうかもね。言葉なんか通じなければ、自分の話ばっかりで健二の話を理解しない私とお喋りしなくて済むもんね。
健二、そういうことなの?
いい機会だってこと?
……。
……。
もう健二と話せない。
……。
……。
私は、そんなの絶対、いや。
私が呆けていると、お姉ちゃんの声がした。
「何ぼーっとしてんの、絵美。健二くん、帰っちゃったわよ」
私は駆け出した。
*
「健二!」
私は一階まで降りたところで、健二を見つけた。
健二は振り向いて、少しだけこっちを見つめて……くるりと向き直って歩き出した。
「健二!」
私は健二を呼ぶ。
私の声は、健二には何と聞こえているのだろう。私が聞く健二の言葉と同じように、きっと意味不明な言葉になってしまっているのだろう。
「健二!」
私は健二を呼ぶ。
それでも、名前を呼ばずにはいられなかった。本当は、駆け寄って掴んで引き止めたかったのに、足が動かない。健二はすたすたと歩いていく。
「健二!」
私は健二を呼ぶ。
聞こえていないはずはないのに、健二が立ち止まってくれない。どうして? これでもうお別れなの? なんで?
「健二!」
私は健二を呼ぶ。
なんで……こんなことになっちゃったんだろう。私、何を間違えたんだろう。
私は、もっと健二の話をちゃんと聞くべきだった。理解すべきだった。
それに、もっと上手に話すべきだった。ちゃんとわかるように話さないと、健二だって困るだろう。私の話は支離滅裂で、しょっちゅう話が飛ぶし。お姉ちゃんにも言われる。お姉ちゃんだって似たようなものなのに。
「健二!」
私は健二を呼ぶ。
もう、やり直せないのだろうか。私は健二が……好きなのに。
その時、私の中の何かが叫んだ。
だからって、一生我慢し続ける気!?
はっきり言えばいいのに。健二の話、回りくどくってさ、聞いてて飽きちゃうでしょ。もっと短く言えないの? って。
ねえ、本当はさ、ほっとしてるのはあなたのほうなんじゃないの?
自分から告白した手前、言えなかったんでしょ? でも、嫌なとこ全部我慢して、それでやってけると思ってんの?
無理だよ。
「健二!」
私は健二を呼ぶ。
健二の話を理解しようと努力する? 違うでしょ。そんなことじゃないのよ。
本当は、言葉が通じるかどうかなんて、問題じゃないのよ。わかってんでしょ?
そう。私はわかってる。
私は言おうとしなかったのだ。言わなくてもわかってくれる、そう思って健二に甘えていたのだ。健二は優しい。でも、超能力者じゃないんだ。私が何に腹を立てているか、どうして欲しいのか、言わなくちゃ、わかんない。話をそらしたってだめ。話が長くて退屈なんだったら、そう言わなきゃいけないんだ。喧嘩になったっていい。
こんなにお喋りなのに、私は肝心なことは何も言ってない。
私たち、ずっとそうだった。いくら言葉が通じてたって、全然伝わってなかった。
私は下を向いてぼろぼろと泣いていた。もう、後の祭り。私が今何を思ったって、健二に伝えることはできない。
神様の怒りによって言葉をバラバラにされた人々の中に、恋人はいたのだろうか。二度と大切な人に、自分の言葉で気持ちを伝えることができない。考えられないほど、辛いことだっただろう。
もう一度健二を呼ぼうとした。でもダメだった。声が出なかった。いいや、と思った。健二に伝わらないなら、もう声なんか出なくていい。
前に誰かがいた。息が荒い。
健二だった。
「けん……じ」
私は名前を呼ぶ。
健二が戻ってきていた。もしかしたら、最後の別れを告げに来たのかもしれないと思った。死刑宣告だ。でも、何を言われても、健二の言葉は今の私には通じない。
だから何を言われても、平気。
健二が背筋を伸ばした。
健二を睨んで、微笑んでやろうとして。
何が起きたのかわからなかった。
健二が私を、抱きしめていた。
自然に見上げる格好になる私の視界に、空が広がる。
「絵美、ただいま」
耳の傍で聞こえたのは、紛れも無く健二の言葉だった。
健二の……言葉だ……。
「おかえりなさい……。健二」
私は健二の背に回した手に力を込めた。