「-」山本健二の場合
ここは彼女の家だ。
つきあい始めてまだ二週間で、まだ彼女の部屋に入れるような仲ではなかったが、こうして中学校の下校途中で彼女の家に立ち寄り、リビングで漫画を読んだりしながらダラダラ時間を過ごすくらいの仲ではあった。彼女の家族からは、まだ中学生同士の微笑ましいカップルだとたかをくくられていることもあるが、一応認められているつきあいだった。
彼女の名前は、春日絵美。
「なぁ」
僕は絵美に話しかける。絵美は漫画に落としていた目線を上げ、こっちを向いた。ずっとショートカットだと思っていたが、そういえば最近少し髪が伸びている。まだ面倒がって制服のままだ。
「を?」
お、とは何だ、と思う。絵美は時々……こういうぞんざいな言葉遣いをする。僕の中では未だに、小学校時代のガキ大将的なイメージの絵美が印象強く残っていて、こんな時はそれを思い出してしまって微妙な気分になる。
「暑いなぁ」
僕は続けてエアコンを付けないかと言おうとしたのだが、絵美がそれを聞いてぽかんとしているのを見て黙った。絵美は頭の上に浮かべた疑問符を僕に投げた。
「あつ……いな? とおいなないまづめんりね?」
「え? ごめん何だって? 今なんて言った」
後半が全然意味のわからない言葉だったので聞き返す。
ところが僕の質問に今度は絵美がキョトンとした。
「う、とな?」
「おい、絵美、さっきから何言ってんだかわかんないよ。ちゃんと喋ってくれ」
僕はそう言いながら……なんだか最近、似たようなことを言った気がするな、と思った。
ああ、思い出した一昨日だ。絵美が何だかイライラしていたので、僕は絵美に何をそんなに怒ってるのかって聞いた。だのに絵美はだってむかつくんだもん、を繰り返すばかりでさっぱり要領を得なかった。何がむかつくんだと3回聞き返したところで、お姉さんと何かあったらしいとわかり、だから何がむかついたんだと6回聞き返して、ようやく、お姉さんが絵美のお弁当を間違って持っていったことに腹を立てていたらしいことがわかった。
絵美はとにかく興奮し始めると会話にならないのだ。人の話を聞かないし、聞いても受け入れようとしない。
そういう状態の絵美といる時、僕は自分が凄く嫌な気分、うんざりした気分になることをわかっていた。正直言うと、やってけんのか僕達、とさえ思う。
「……けてどぽよおをとあ」
しかし今日のはそういうことじゃないみたいだ。明らかに、日本語じゃない。英語でもなく、およそ聞いたことのない言葉だ。まさか絵美がそんな未知の言語を習得しているなんてことは無いだろうし、習得していたとしても僕にそれを披露されても困る。
絵美と僕は、小学校の時はガキ大将と、その他大勢の子分、という関係だった。いじめられっ子というほどでもないが、時々泣かされていた気がする。絵美をガキ大将というのは大げさではなくて、絵美は喧嘩で男子に負けたことはなく、泣かせては言うことをきかせ、そんな子分を率いて遊びに行く、まさにガキ大将だった。
そんな絵美がいつの間にか女の子になっていたのに気付いたのは最近のことで、そして、いつの間にか僕らはつきあうことになった。
絵美は見た目は立派に女の子だったが、時々、あの頃と変わっていないやんちゃな本性が見え隠れする。流石にもう男子と喧嘩をすることはないが、突飛な思いつきで人を振り回したり困らせたり、自由奔放とは彼女のキャッチフレーズである。
「絵美、なんかの遊び? 説明してくんないとわかんないよ」
そう僕が尋ねると、絵美はしばらく顎に手を当てて、考える仕草をしていた。
「どぶりねていぞ。せるくあね、あまねあおらなひるそねぬ」
ぽんと手を叩いた。何か閃いたらしい。だがどうやら説明してくれる気はないらしい。
「づめぞあざゅび! けてどぽちいざときつめ、あほねざぞあなのべづぁよをぐーざぽんりよ!」」
何事か言葉になってない音の羅列を叫んだかと思うと、いきなり彼女が立ち上がって、激しく動き始めた。手を複雑に動かして、四角を作ったり丸を作ったり。かと思えば足も使い始め、凄い表情をしたかと思うといきなり身体を折りたたんでみたり、だんだんと前衛的な舞踏のような様相を呈してきたが、困ったことに何を伝えたいのかは全くわからなかった。
「えーと……。どうした? 言葉が喋れなくなったのか?」
「きたづあえいてさつのぞむゆ! せをとね、さをぺさそなをぐをねもりけてゆ。ろそさそたのけてどぽちいざとあぐをさざぞあなめでょつさほょそねゆ! およぞづおそらんいねゆ!」」
偉い剣幕でまくしたてられた。何ごとか叱られたようだが、さっぱり通じない。
「でい、ちそよょつり!? よそさねああそあけて!」
僕が戸惑っている間に、彼女のほうはソファの上に立ち上がって、より激しいダンスへとその動きを変貌させていった。もはや僕のほうは見ていない。初めは動きで何かを伝えようとしているのだと思ったが、どうも単に踊ることに夢中になってしまっているように見えた。
「けねそがりざゅいぬちのぞるなめてむよるとあ!」
僕は、わりと冷静にこの事態を受け止めていた。絵美といると、大抵のことには驚かなくなってくる。突飛な行動を取ることにかけては絵美の右に出る者はいない。
何が起こったか、考えてみる。まず、絵美が何か新しい悪ふざけを思いついた、という可能性。これが一番ありうる。まあこれなら、とりあえず絵美が飽きるのを待っていればいい。少なくとも絵美の家族が帰ってくれば事態は収拾される。
でもそうじゃない可能性を考えておかなくてはならない。厄介なのは、絵美が何らかの原因で日本語を忘れてしまった場合と、僕のほうが日本語を理解できなくなっている、という場合だ。まず後者の可能性を排除するため、僕はテレビをつけた。ちょうど、ニュース番組の時間だった。
「それでは続きまして、天気予報です」
画面の中では、進行の坂野アナからお天気お姉さんへとバトンタッチしていた。天気予報によると、午後から天気が崩れるとのことだ。その言葉が僕の理解できるものであるのを確認し、僕はほっとする。
「よし。僕のほうに問題があるわけじゃなさそうだ」
テレビから目を離すと、絵美がソファの上で手を振っていた。僕ではなく、どこかあらぬ方向を見つめている。踊りに夢中になるうちに、妄想の世界から帰ってくるタイミングを失ったのではないかと想像された。絵美は、そういうところがある。昔から。でも、ちょっと今日のは入り込みすぎてて、なんだか怖いなぁ。
「まをに、んらぽていー! ぞをしのざをりあかゅいちいねけてどゆぬ!? ……」
何か、僕には見えない誰かの手を取ってみたりしながら、ソファの上で歩き回ったり降りたり上ったり、もう何をやっているのかさっぱりわからない。
「ひーょ。ああとをどぞょそを……。たゅょて、でいさそね、くをざ? つるばとをおまつ。ろそさねざゅいぬちのそぞあそね?」
絵美がこっちを見てきた。なにか、見えないものが見えているのだろうか。幽霊とか? 絵美に霊感があるなんて聞いた覚えはないが……。絵美がこちらを見ながら何か言っている。……憑いてるとか言わないよな。怖くて仕方が無い。
「めい、くをざょそよ、つるばのぶちむあ、あづぁえょて・べょきし。びをむあなできこるそえれおとざをりあねのちむあはをゆ。よそさそたさずをなあかりぐをさざをのせをとめね、まつのあくとあろ」
絵美が話す言葉は、奇妙なことに一音一音がはっきり認識できるのに、日本語とは到底思えない。
「なんか、急に言葉が通じなくなった……みたいだな」
「……みたいだな?」
絵美は、頭の上に疑問符を浮かべながら、僕の言った言葉の語尾を繰り返してた。でも意味はわかっていないみたいだった。
「こっちの言葉も通じてないみたいだし」
僕の言葉が聞こえているのは間違いない。ただ、意味が理解できてないんだ。僕と同じ状態なんだろう。
「みたいだし?」
苦笑する。なんか、子供に言葉を教えてる気分だ。
「みたいだ……よ」
その部分は助動詞であまり意味はないんだが、絵美は、初めて日本語に接するみたいに最後の言葉をオウム返しにする。カンガルーの語源の話を思い出した。原住民があの動物は何というのか聞かれて現地語で「知らない」と答えたのを勘違いした、という話だ。
「ん、せいお、みたいたぬ! みたいたわさつへさあねぬ!」
やおら、彼女は何事か頷いて、嬉しそうに隣の部屋に走っていった。何だろう。何を思いついたんだろうか。
「さてと……どうやって意思の疎通をはかろうかな」
考える。事態をどう好転させるべきか。僕は比較的、物事に動じない性格だと思う。どんな時でも落ち着いて考えれば、活路を見出せると思っている。好きな言葉は、人間は考える葦である、だ。人間は考えるからこそ大宇宙よりも偉大なのだ。考えることだけは、どんなピンチでも忘れてはいけない。
たとえ、目の前に、革の鞭を持ち、蝶の形の伊達眼鏡をかけた、妙に嬉しそうに頬を紅潮させた彼女が現れたとしても。
……僕は目が点になった。
「……何が起こってるんだ……?」
絵美は、鞭を肩に振り上げながら、こっちに近づいてきた。その鞭と伊達眼鏡のセットから、「女王様」という言葉が浮かぶ。服は学校の制服のままだったが、それがまた一層怪しさをかもし出すのに一役買っている。とか言ってる場合じゃない。
「くをざなせをとさゃまぽんょそとをつ……。けをとけてめんれいおてえぬうたっをねはまちでいがねおきさどさゅわさょっつつゆおょそぉ」
どうも、僕の理解を超えたところで何かとんでもないことが起こっているようだった。なぜ彼女はそんなSM用品を持っているのか。そういう趣味だったのか。そしてどうやらその鞭の狙いは紛れもなく僕のようだが、僕はどうすればいいのか。
「え、絵美、落ち着け。冷静に。何をしようとしてるのかわからないが、話し合おう」
「ろそさめのざむつぞくで……ぽをどりおよぬ、くをざ。くをざねめてむつありなきそあづねけまゃくーさゅをょつ、けいあいけてゆぬ!」
鞭が空気を切り裂く音を立てて、僕に襲いかかった。すんでのところで回避したが、座っていたクッションが裂け、羽毛が部屋に舞った。その思わぬ攻撃力の高さに背筋が寒くなる。
「ちょっと、タイム、タイム! まってくれ、絵美、落ち着け!」
「とをづなぐりねくをざ! なぐつあつのあさねせちいののおるとあろ!」
彼女の攻撃が、ツルツルに磨かれた机を打ち据え、傷を作る。ああ怒られる、と僕は思った。僕がじゃなくて絵美が、絵美の家族に、だが。そんな僕の心配をよそに、彼女のテンションはとどまるところを知らない。
「えーっへっへっへ。こん、えてとさきとこあ!」
変な笑い声を上げながら、迫ってくる絵美。
僕は廊下に飛び出し、玄関を目指した。殺される。もしくは、人間としての尊厳を奪われる。言葉の通じない彼女が何をわめいているのか、何となくわかるような気もするが、何故そんなことになったのかが全くわからなかった。……それはある意味いつもどおりだったが。
「シャレにならないって!」
その時、玄関の扉が急に開いたので、勢い余って外に飛び出てしまった。そこにいたのは彼女のお姉さんだった。お姉さんは器用に僕を半身でかわしたので、僕は廊下に倒れこんでしまった。
「ん、えぬいたっをえおうら」
「○×△※☆……」
お姉さんのほうも、何か理解できない言葉を発した。まさか、絵美だけじゃなくて、お姉さんのほうも……? それとも、おかしいのはやっぱり僕の方なのだろうか。
絵美も驚いた顔をしたが、鞭を姉に向って差し出して何か言った。
「もょぼら、えぬうたっをめけてどねちいざとあぐをさざぞあなめでょつありゆいぬ! ざっん、けるづけまゃなくーさゅんそょ」
だが、お姉さんに途中で遮られた。お姉さんは思い切り絵美の頭を引っぱたいた後、蝶の眼鏡と鞭を取り上げ、足音を立てて部屋に引っ込んでしまった。
……さては、あの鞭と眼鏡はお姉さんのものだったんだな。
「あそぉ……。もょぼら、ぐをさざおあねけまゃなくーさゅをのぼむぬ。はょぼそきとをつ、もどをざをねしりけてぞろ」
彼女は何事かぼやきながら頭をさすり、立ち上がった。
そうだ。
そこで僕は一つ思いついた。
一つ、確かめておこう。玄関の電話の横に置いてあるメモ帳を手に取る。
メモ帳に「これを読んでくれ」と書いて、絵美に見せる。
絵美はメモを見て、口を開いた。
「これをよんでくれ?」
通じた! ……いや、違う違う。これは通じてるとは限らない。書かれた文字を意味もわからず読んだ、というだけのような気がする。
そこで、もう一言書いて、絵美に見せる。反応は……同じだった。ただオウム返しに書かれたとおりに読んで、不思議そうにこっちを見ている。やはりダメか……。
だが、一つはっきりした。これが文字だということは認識できているらしい。文字自体は読めているが、読み方が僕と絵美で異なるということかもしれない。彼女に起きたこの言葉のトラブルがなんなのか、少しだがヒントが得られたような気がする。
「これに何か書いてくれ」
言って、僕は絵美にメモ帳とペンを渡した。絵美も理解したようで、頷いてペンをとり、何かメモ帳に書いている。これで、たまたま絵美の今使っている言語に共通する文字があっただけなのか、それとも平仮名であることはわかっているが読み方が間違っているだけなのか、はっきりさせられる筈だ。
「のあ。づかちゆ」
絵美が差し出したメモ帳を見ると……猫の絵が描いてあった。
「絵じゃなくて。文字。文字を書いてくれないか」
だが、絵美は満面の笑顔で、手をおでこの上に持っていき、猫の耳を作った。いや、猫なのはわかるってば。
仕方ないので、絵美の書いた猫の絵に、吹き出しを加えてみた。これで、ここに何か猫のセリフを書いてくれる筈だ。鳴き声かもしれないが、いずれにせよ文字を書いてくれる。
……だが、絵美が吹き出しの中に書き加えたのは、魚の絵だった。
僕は、諦めた。
*
居間に戻った。するとお姉さんがいた。
「あ、お姉さん、こんにちは」
言葉が通じないかもしれないが、一応、挨拶してみる。
「あら健二くん。こんにちは」
済ました顔で挨拶された。
なんだ、通じるじゃないか。やはり、さっき玄関での謎の言葉は自分の鞭を振り回してる妹を見て慌て、声にならない声を上げただけ、ということだったのだろう。
「あの、お姉さん、絵美が変なんです」
「絵美はいつも変よ」
酷いことを言う。
「それはそうなんですけど、今日のはちょっと違うんですよ。言葉が通じないんです」
「言葉が通じない? それもわりといつものことだと思うけど」
うっ。お姉さんの絵美に対する評価が低すぎる。
「とにかく、絵美と話してみればはっきりしますよ。おーい、絵美ーっ」
呼んでみてから、通じないんだったと玄関に行こうと思ったが、絵美は絵を描くのに飽きたのか戻ってきた。手にしたメモ帳を僕に渡す。見ると、猫は5匹になっていた。
「あ、絵美、人の部屋から勝手に物を持ち出さないでよね」
「げむを、えぬうたっを。くをざぼもらそあょつあいおよ」
絵美の言葉に、お姉さんの動きが止まった。そして僕のほうを見る。
「マジなの?」
「マジみたいなんですよ。どうしたらいいんでしょう」
聞いてみたが、お姉さんだってこんな事態は初めてだろう。
「どうって言われても……。そ、その、絵美はどう思ってるのよ?」
なぜかお姉さんは顔を赤くしながらそう答えた。言葉の通じない絵美に代わり、僕が答える。
「そりゃあ……絵美は困ってると思いますけど」
「困ってるって……! ちょっと絵美、何されたの?」
お姉さんが血相を変えた。あれ、ちょっと、僕の仕業ってことにされたのか?
「べ、別に僕は何もしてませんよ」
「健二くんは黙ってなさい! 絵美に聞いてるの」
怒られる。いや、だから、絵美に聞いたってわからないんですってば。
「えぬうたっを、ろそさのとなめこるつとあゆ。ろそさぽそそけいてさつそぞくづ……」
「け、健二くん、そっちなの……?」
「でょため、ぞてえめい……」
「ど、ど、……!?」
お姉さんが、何か絵美の言葉に衝撃を受けたらしいが、それ以上に僕は驚いた。
「ダ、ダメよ、二人ともまだ中学生なのに、早すぎるわ」
……なんてこった。
お姉さんは、どうも絵美と会話ができているらしい。
となると……おかしいのは僕なのか? いや、違う。僕はお姉さんと話ができている。
どういうことだ。
僕は混乱してきた。僕と絵美の間でだけ、言葉が通じない……? そんなことってあるのか?
「お、お姉さん……。絵美が言ったこと、理解できるんですか?」
僕がおそるおそるそう言うと、お姉さんは僕を睨んできた。
「理解……。理解ね、まあ、理解はできるわ。でも、今はまだダメよ。いい? そういうのは、もっと色んな段階を踏んでからにしなさい」
「……はい?」
そういうの? 何の段階だ?
「何の話ですか?」
「とにかく貴方達、まだつきあい始めたばっかりでしょ。どこで覚えたのか知らないけど、時期尚早です」
ダメだ。さっぱり言ってることがわからない。いや、絵美と違って言葉はわかるが、内容がわからない。
「言ってることがわからないんですけど……」
「それにしても健二くんがそういう子だとは思わなかったわ。大人しそうな顔して人を油断させておいて……」
お姉さんは、どうも話に熱が入ってしまうと人の話が耳に入らなくなるタイプらしい。考えてみれば、絵美もそうだ。僕は時々うんざりしている。こっちの話を聞かずにまくしたてられたりすると、次第に何も言う気がなくなってくる。
そう、そうなんだよな。絵美はよく、僕の話を聞いてないんだ。僕が熱心に喋ってる時に「あ、ほら猫だよ猫、見て見て」じゃないだろ。確かに猫は可愛いし、絵美が猫好きなのは知ってる。猫は今見なくちゃ逃げるかもしれない。わかってるよ。だから我慢して、怒ったりはしなかったさ。ただ……正直、恋人としてつきあい始めて二週間なのにこんなにイライラするなんて、僕ら、この先つきあってて大丈夫なのか? って思う。
そんなことを考えて思考が飛んでいた。ふと見ると絵美がこっちを見ている。まだぶつぶつ言っているお姉さんをよそに、僕に何か話しかけている。
「くをざ、げむを……えぬうたっをぼ」
僕は、肩をすくめて、首を振った。わからない、という意思表示だ。
「ほぞ、ろそさねけてど、ろおよとあ?」
僕は、立ち上がった。今日は帰ろう。一晩寝れば、解決しているかもしれない。
「絵美、お姉さん、僕、失礼します」
「あ、健二くん、ごめんなさい、怒ったかしら。別に責めてるわけじゃないんだけど、ただまだ早いと思うのよ」
お姉さんが何の話のことを言ってるのかわからないが、僕は取り繕った。
「あ、気にしないで下さい。その話は関係なくて。僕、今日用事あるんで」
何の話かはわからなかったが、関係ないのは確かだろう。
「そ、そう……。気をつけて帰ってね」
僕は学校の鞄を持って、玄関のほうへ向かう。と、絵美が声をかけてきた。
「くをざ、でけあきね?」
「何言ってんの絵美。健二くん、帰るって言ってるじゃない。お見送りしなさい」
お姉さんが通訳してくれた。ああ、そういえばお姉さんに事態を理解して貰って、通訳して貰うって手もあるなと思ったが、僕はそうしなかった。
「くをざ、おうりね? でいさそね?」
絵美を見つめる。僕はどんな顔をしていたのか。色んな気持ちが混じっていただろう。
ふいに絵美が、おびえたような顔をして、それから怒ったような顔をして、そして泣きそうな顔をした。
言葉は無くても、僕はその表情で、なんとなくわかった。
伝わってしまったんだ。僕の思ってることが。今僕が思ってること、いや普段から思っていたこと。それが絵美に伝わったんだ。
絵美と話す時に時折感じている、小さな苛立ち、小さな不快感。言葉なんてものがなければ、それを感じずに済むかもしれない。このまま言葉が通じなければ……。
僕はそう思ってしまったのだ。
それが絵美に伝わってしまったのだとしたら、辛かった。言葉が通じなかったら、二人の関係は早晩破綻するだろう。それなのに僕は……。それでもいいと思ってるというのか。
絵美に、ごめんと言いたかった。でも、僕にはそれを伝える手段がもうない。
僕は背を向けた。玄関で靴を履き、ドアを開ける。背後で絵美が立っている。
でも、別れの言葉はなかった。
*
絵美のマンションから通りまでの路地を、歩いていく。
もう絵美には会うことすらないのでは、という気がした。そんなことはあり得ないのに。明日学校へ行けば嫌でも会う。嫌……? 嫌なんてことはない。ただ、ほっとしていないか、僕は今。なぜ……?
こんなことで、終わるものなのか、と思った。いや、とっくに終わっていたのかもしれない。僕は絵美が好きだったのか?
「きわご!」
何か叫び声が聞こえた。振り向くと、絵美がマンションの一階の出口のところで僕を見ていた。
僕はきびすを返し、絵美に背を向けて歩き出す。
「かろげ!」
絵美の声が聞こえる。
何語なのか全くわからない。だがそう聞こえるのは僕だけなのだ。絵美の言葉がそんな意味不明な文字の羅列になって聞こえてくるのは、世界中で、僕だけ。世界中で、僕だけが絵美の言葉を理解できない。そして僕の言葉だけが絵美に伝わらない。
なぜ僕なんだ。誰よりも僕が……絵美を知りたいと思っているのに。絵美のことを、僕はまだ何も知らないのに。
「おれぐ!」
絵美の声が聞こえる。
絵美は、一歩も動かずにただ僕を呼んでいる。僕との距離が、徐々に伸びていく。僕と絵美はこの先交わることのない別の人生を歩んでいく。
……それでいいのか?
よくはないさ。
だが、どうしようもないんだ。僕は絵美と話ができない。僕の言葉は絵美に伝わらないし、絵美の言葉は僕にはわからない。手遅れなんだ。こうなってしまった原因は全くわからないけど、もう遅いんだ。僕と絵美は、二度と話ができない。仕方が無いじゃないか。
「えるぎ!」
絵美の声が聞こえる。
絵美の言葉がわからない。絵美も僕の言葉がわからない。
その時、僕の中の誰かが囁いた。
……そんなの、元からそうだったじゃないか。
絵美は、僕の言葉なんか聞いてなかったよ。わかってたんだろ? 僕の話なんか面白くないからさ。聞きたくないからさ。耳に入ってくるけど、理解はできない。今と同じだよ。
お前だってそうさ。お前は絵美の話を聞いてやろうとしてたか? 絵美の言うことを真剣に聞いてたか? 言葉で説明するのが下手な絵美のせいにして、気持ちを理解してやろうとなんてしてなかったじゃないか?
ああそうさ。
わかってるよ。
僕と絵美は、ずっとすれ違ってた。
つきあうその日から。いや、もっと前からかもしれない。
「うりが!」
絵美の声が聞こえる。
わかっていた。
絵美は、僕の名前を呼んでいるのだ。さっきから、聞こえている意味不明な言葉は、全部、僕の名前なのだ。
なんだ、絵美、通じるじゃないかよ。
自分が涙を流していることに気がつく。
「いらぼ!」
僕は立ち止まった。
涙を拭く。
そうだ、僕はもう気付いている。絵美が教えてくれたからだ。
どうすればいいのか。
どうすれば、僕の言葉を絵美に伝えられるのか。
どうすれば、絵美の言葉を聞けるのか。
僕は180度向きを変えて、走った。絵美のもとへ。涙を拭きもせずに僕を呼び続ける絵美のもとへ。
絵美は顔を伏せていた。絵美の前に立った僕に、ようやく気がついた。
「くを……ざ」
僕は深呼吸をする。さあ、絵美。覚悟はいいか? こうすれば、僕らは通じ合える。
「絵美、ただいま」
返事を待った。
「おかえりなさい……。健二」
聞こえたのは、間違いなく絵美の言葉だった。