2 弟なら下の名前で呼ぶのが当然よね
同い年の姉ができるという珍事が起きた次の日、俺は学校に来ていた。あまり話したことがないクラスメイトと姉弟になってしまった。一人っ子の俺にとっては戸惑いしかない。
「ねえ、結梨。今日の放課後さ、行きたかった喫茶店があるんだけど、一緒に来ない?」
「ええ、いいわよ」
「やった! ありがとう!」
そう言って、クラスメイトの岩崎は野上に抱きついた。抱きつかれた野上は岩崎に向かって微笑んでいた。
それはいつも通りの笑顔だった。もう少し正確に言うと、いつも教室で目にする野上だった。
昨日のあの頓珍漢なことを告げた時の彼女とは様子がまるで違っていた。今はあの時の面影は全く見られない。
「おーい、誰を見てんだよ」
不意に声をかけられて、俺は視線を正面に戻した。戻した先には爽やかな笑顔を浮かべた男子がいた。
「和哉が女子を見ているなんて珍しいな。誰か気になる子でもいるのか?」
「学、誰も見てないからな」
彼の名前は田口学。高校に入ってできた友達だ。学は俺の前の席で、今は体ごと俺の方へと向けている。
「えーと、和哉の視線の先はと」
「おい、やめろ」
「ほう。なるほどなるほど」
俺が誰を見ていたのか気づいた学は面白がるように笑った。
「野上さんか。中々のところにいったな」
「だから、見てないわ。たまたまだ」
俺の弁解に学はニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「そう恥ずかしがるなよ。確かに野上さんは美人だからな。つい見ても不思議じゃない」
「違うって言っているだろ。お前こそそんなに女子のことを褒めていていいのか? 西村に言いつけるぞ」
「沙優に言うのはやめてくれ」
俺の言葉に学は苦笑した。俺たちの話題に上がっているのは学の彼女である西村沙優だ。西村はクラスが違うが、時折俺たちの教室まで遊びに来ることがある。その縁?もあって、西村とも友達だ。
「それにしても和哉は野上さん狙いか」
「話を戻すな。いや、そもそもそんな話は無いからな」
せっかく話を逸らしたのに学が話題を戻した。
「野上さんは大変だぞ。連絡先すら知っている男子はいないと言われているぐらいだ」
「野上が鉄壁だなんてどうでもいいわ」
「じゃあ、どうして、野上さんを見ていたんだ?」
学が不思議な目で俺を見つめてきた。俺は答えるのに躊躇した。まさか野上と姉弟になってしまったなどと言えるわけがない。うっかり口にしてしまえば、クラス中から追及されるに違いない。
「相変わらず大人っぽいなと思っただけだ」
「まあ、確かにそうだな」
俺は改めて野上の方へ目を向けた。彼女は相変わらずクラスの女子に囲まれていた。女子の誰かが言ったことに対して野上は落ち着いた様子で返していた。
「なんにせよ、頑張れよ。ライバルは多いからな」
そう言って、学は俺の肩に腕を回した。
「いや、だから、狙ってなんかいないわ」
俺は学の腕を肩から外しながらそう答えた。
***
放課後になり、バスケ部に向かう学を見送った後、家に帰る支度を始めた時だ。
「菅田君、ちょっといいかしら?」
声のした方を振り向くと、野上が腕を組んで立っていた。
まさか教室で彼女から声をかけられるとは思わなかった。心なしか教室にいるクラスメイトから視線を感じる。
「どうした?」
「貴方はこれから部活に行くの?」
「いや、もう帰るところだ」
「そう。それならちょうどいいわね」
野上は嬉しそうに笑った。その顔を見た瞬間、なんとなく嫌な予感がした。
「先生からお手伝いを頼まれているのよ。力仕事だから、菅田君にお願いしたいんだけど」
野上はこちらを見つめた。どう見ても有無を言わさない目つきである。
「分かった。どこに行くんだ?」
「視聴覚室よ。ついてきてちょうだい」
野上は友達の方へと向かい、何か言葉を交わすと、教室から出ていった。
俺も慌てて彼女の後を追った。あのまま教室にいたら、俺がクラスメイトから問い詰められるかもしれないからだ。
***
「それで何の用事なんだ?」
視聴覚室に入るなり、俺は野上にそう問いかけた。視聴覚室には俺と野上以外誰もいなかった。
「悪いけど、先生の手伝いは嘘よ。菅田君に大事な話があるの」
あっけらかんにそう言った野上は真っ直ぐに俺を見つめていた。教室には夕日が差し込み、俺たち2人を照らしていた。
夕方の教室に男女が2人きり。大事な話。漫画やアニメだったら、鉄板のシュチュエーションだ。俺も昨日のことがなければ、勘違いしてしまっただろう。
「菅田君の下の名前は何かしら?」
「……そんなことを聞いてどうする?」
けれど、俺は知っている。野上が俺を呼び出すことなんて"アレ"しかないからだ。
「決まっているじゃない。弟なら下の名前で呼ぶのが当然よね」
そう突飛子もないことを口にしながら野上は子供のように笑った。昨日、目にした笑い方と全く同じだった。勝手に期待して今は少しだけ残念な気持ちになった自分を恨みたかった。
「和哉だよ」
「なるほどね。和哉君、和哉君、和哉君、和哉君、和哉君ね」
「怖いわ。真顔で何回も言うなよ」
「確認作業よ。弟の名前ぐらい違和感なく呼べるようにしないとね」
野上は当たり前のような顔をしていた。
「ねえ、和哉君」
「な、何だよ」
女子から、それも学校で1番だと言われるぐらい美人の女子から下の名前で呼ばれて、俺は心臓がドキドキした。呼んでいる本人は弟の名前を言っているだけだとなのだが。
「私のことを『お姉ちゃん』って呼んでくれない?」
野上は上目遣いでこちらを見てきた。思わず「呼びます!」と叫んでしまうとこだった。
「頼むからそれだけは勘弁してくれ。一昨日までただのクラスメイトだったんだ。急にそんな風に言われても難しい」
「確かに同級生からいきなりそんなことを言われても戸惑うわよね」
「……その自覚はあったんだな」
そこまで分かっているのだったら、姉呼びをお願いするのをやめて欲しいのだが、野上が前言撤回する気配はない。一体何が彼女をそこまで駆り立てているのだろうか。
俺は制服のポケットからスマホを取り出した。
「なら、せめてこれにしないか?」
俺は手に持ったスマホを野上に見せた。
「スマホ? ああ、メッセージでやり取りするのね」
野上は納得したような顔をしていた。
「そうだ。口にするより文字の方がまだ呼びやすいからな」
「そういうことね。それならそうしましょうか」
野上は鞄からスマホを取り出した。俺もスマホのSNSアプリを起動した。お互いのスマホを合わせて無事に連絡先を交換した。まさか俺のスマホに西村以外の女子の連絡先が入るとは思わなかった。
「ありがとう、和哉君。これからよろしくね」
「ああ、そうだな」
野上と連絡先を交換することになったが、これで何とか同級生を姉と呼ぶことはとりあえず回避できた。
「それじゃ解散しましょうか」
スマホを鞄に入れた野上は鞄を手に持って、視聴覚室の出口まで歩き始めた。
「悪いけど、ちょっと待ってくれないか」
教室から出ていこうとする彼女の背中に向かって俺は声をかけた。
「何かしら?」
呼ばれた野上はこちらを振り返った。
「俺たちの関係、つまり姉弟になったことだけど、クラスの、いや、学校の奴らから隠しておこう」
「それはどうして?」
「ほら、俺たちのことをいちいち人に説明するなんて面倒くさいだろ」
俺が彼女に向かって言った言葉は嘘ではない。けれど、それだけではなかった。
野上は学校中の男子から人気である。そんな彼女に突然弟(俺)ができてしまったら学校中から注目されるに違いない。それはできれば避けたかった。
「そうね。私たちは複雑な関係だからね」
「その言い方だとまるで俺たちが人に言えない関係みたいだな」
「分かったわ。私たちのことは他の人には秘密にしておきましょう」
野上は納得したような顔を浮かべた。目的を達成できて俺はホッとした。
「それじゃあ、帰りましょうか。あまり長くいると他の人に私たちの関係がバレちゃうわ」
「だから、その言い方だと別の意味に聞こえるんだが」
「別の意味って?」
野上は真面目な顔をして、首を傾げていた。俺は正直に言うべきか迷った。
俺が言わないのを不思議に思ったのか彼女は俺との距離を詰めた。その結果、野上は触れてしまうそうなほど俺のすぐそばにいた。
「ねえ、どういうことなの?」
「ほら、恋人みたいってことだよ」
俺は顔を逸らしながら、そう答えた。クラスメイトに面と向かってそんなことを言うのは恥ずかしかった。
「何を言っているのかしら? 姉弟に決まっているじゃない」
野上は呆れた表情を浮かべていた。若い男女が2人でいたら、姉弟ではなく、恋人だと考える人の方が多いと思うが、彼女の常識では違うらしい。
「なんにせよ、これからよろしくね、和哉君」
「ああ、よろしく」
そう言って、俺たちは視聴覚室から出て、別れた。よろしくと彼女は言ったが、俺と野上は何も変わらないだろう。住んでいる家も違うし、学校でもほとんど関わりがない。
これでいつも通りの日常に戻るに違いない。この時の俺はそう考えていた。




