5 初恋
紬の姿は見えなかったが、きっと先に帰ってしまったんだろうと思い、そのまま僕たちは参道を下り、林を抜け、河原へと辿り着いた。
すでに日はとっぷり暮れていて、変わらず夕刻を告げるひぐらしの声が、薄闇の空気にしみ入るように響いていた。
子供たちと無事に帰還したことを村長に報告し、僕はその足で集会所へ戻った。
その際、少し相談があると村長に告げておいたので、夕食は村長やその息子、子供たち、さらに村の人々数名も交えていただくことになった。
「んで、那都くんの相談ってのは、いったい何だべ?」
「相談というか、報告というか……。今日、ちょっと不思議な体験をしたんですよ」
場が、静寂という名のざわめきが起こる。
「どのようなことでしょう」
村長の息子が聞き役を買って出た。
僕は、午後に子供たちと虫取りに行ったこと、鳥居や古い祠を見つけたこと、そこで祝詞を詠んだことなど、一部始終を語った。
子供たちもうんうんと頷き、「なんだか涼しかったんだべ」と補足を加えてくれる。
けれど報告を終えると、村人たちは一瞬だけ呆然と口を開け、その後すぐに笑みを浮かべた。
「那都くん、その林や裏山に、そんなもんあるわけねえべ」
「ええ、那都くんの空想ではございませんか」
なんと、村長も息子も、そして周囲の村人たちも皆同じ反応を見せた。
まさかそんなはずが、といった雰囲気で、ほんのわずかに小馬鹿にする仕草すらうかがえる。
「いやいや、そんなはずないじゃないですか! 確かに見たんです、この目で! それに僕は祝詞まで詠みあげたんですよ?」
ワナワナと手が震える。
それは馬鹿にされる苛立ちからか、あるいは言い知れぬ恐怖からか、自分でも定かではなかった。
子供たちも「あったんだもん」「うそじゃないもん」と必死に援護してくれる。
だが村人たちは最初から信じようとしない。嘘をついているようにも見えないし、この土地に関しては僕などよりはるかに熟知しているはずだ。
そのため、僕と子供たちはまるで神隠しにでも遭ったような感覚に包まれ、脳裏にはいっそう不可思議な記憶が焼き付けられるのだった。
「まあまあ」と場をなだめるように、婦人たちがおかずを取り分け、大人たちは酒を進める。
どうにも釈然としなかったが、これ以上言い返しても埒があかず、この場はひとまず収めることにした。
――翌朝。
僕は日の昇る直前、紫に染まりゆく空の頃に目を覚ました。
布団をたたみ、昨夜から考えていたことを実行に移す。
昨日の昼下がりに見た、あの祠をもう一度訪ねたい。
そして村長の息子に借りたカメラで、その祠を撮影するのだ。
僕はさっそく行動に移し、昨日歩いた河原を抜け、林へ入る。
この時間は暗く、前はほとんど見えない。懐中電灯を点け、足元を照らしながらゆっくりと進んでいった。
――あった。鳥居だ。
よかった、見間違いではなかった。
僕はカメラにその鳥居を収め、さらに歩を進める。
そして、その先に待っていたのは神社ではなく――
紬だった。
ハッとする。
何か見てはいけないものを見てしまったかのような感覚に襲われる。
紬はいつも通りの姿で、やはり裸足のまま。
手を後ろに組み、少し頭をかしげ、かすかな笑みを浮かべていた。
「那都、やっぱり来てくれたんだね」
紬は僕の行動を読んでいたかのような口ぶりだった。いや、予測ではなく、もはや必然と確信しているような響きだった。
「紬……君は、なぜここに?」
「那都が来ると思ったからだよ」
やはり紬との会話はかみ合わない。核心を避け、本質を明かさないまま、抽象的な言葉で煙に巻くのだ。
「いい加減、はっきり答えてくれないかな。そうやって僕を惑わすのはやめてほしい」
「那都、私は嬉しい。あなたが来てくれて、本当に嬉しいんだよ」
やはり会話は噛み合わない。
……いいだろう、ならば僕にも考えがある。
「紬、僕の予想を話してもいいかい?」
紬はどうぞ、と言わんばかりに手のひらを差し出した。
「僕がこの村に来てから、幾度か小さな違和感を覚えた。数は多くないけれど、その違和感の中心には、いつも君がいた気がする」
紬は口角をわずかに上げ、ただ微笑んでいる。
僕は続けた。
「昨日、君が消えた後、僕たちは村に戻って村長さんたちに話した。けれど全く取り合ってもらえなかった。これは君のしていることなんだよね?」
紬は頷きも否定もせず、ただ微笑みを保ったまま。
「昨夜、皆で夕飯を食べたとき、誰も紬のことを話題にしなかった。一緒に神社を見た子供たちですら、君の名を口にしなかった。まるで存在そのものがなかったかのように。――これがどういうことなのか、説明してほしい」
紬の表情は変わらない。
「この土地はもともと雨の多い地域のはずだ。西には連山があり、北からの風がぶつかれば、毎夕のように夕立が降る。それがここ十数年もなくなったのは……君が人間として生まれてしまったからじゃないのか」
そのとき、わずかに紬の目が細められた。
「紬がいつも水を浴び続けている理由もわかる。君は自分で殻を破ろうとしていたんだろう。でも、それはきっと無理難題なんだ」
紬は唇を噛む。
「そしてこの鳥居と小さな神社。これは君の御神体だね。はっきりわかる。君はこの地の神様なんだろう」
僕はきっぱりと、予想ではなく、そう言った。
すると紬は、ぽろりと涙を流した。
「……あはは。よくわかったね。えらいね、那都」
目尻を指で拭いながら、僕を褒める。
「私は何十年、何百年とこの土地に在り続けた雨と水の神だよ。空には私の巣がある。そこから舞い降りて、この地にずっと雨をもたらしてきたんだ」
紬はつたい涙をすっとちぎると、僕に近寄ってきた。
「この神社は村人には見えない。ずっと私と私の祖先が守ってきたもの。でも那都には見えたんだね。嬉しい。そして、この半神半人の身体を解放してくれた。本当に嬉しい」
そう言って、紬は僕を抱きしめる。僕より頭ひとつ分大きい彼女は、僕を包み込むようにぎゅっと抱きしめた。
「私はやっと空へ帰れる。最後に那都に会えてよかった。本当にありがとう」
別れの言葉とともに、抱擁の力が緩みはじめる。
僕は紬の腰に手を回し、必死に抱きしめ返した。
「ねえ! もう会えないの? これでお別れなの? 嫌だよ……せっかく出会えたのに……」
僕の言葉に、紬はハッとしたように腕に力を込め直す。
「……那都、ありがとう。あなたは強いから、大丈夫だよ」
「違う……僕は君が好きなんだ。一目見たときから……」
「ありがとう。でもきっとまた会える。私は空から、ずっと那都を見ているから」
そう言って紬は力を抜き、なぜか僕の腕もほどけてしまった。
「あ……いやだ……離れないで」
大粒の涙が溢れて、よく彼女の顔がわからない。
「あはは、那都。あなたは子供じゃないんじゃなかったっけ?」
そうだ。僕はただ大人ぶっているだけの子供。勉強ができる、父の手伝いができる――ただそれだけの、すべてにおいて庇護下にある、ただの子供。
「那都、思い出をありがとう。私はずっと忘れない。この暑い夏に起きた、この奇跡を」
紬は言い終えると、キラキラとした光に包まれ、美しい模様の鱗を持つ麗しい龍の姿へと変わった。
頭にあるそのふたつの角には、僕が祠に捧げた布が巻かれていた。
「ありがとう、紬。僕もずっと、きっと忘れない」