2 予感
時刻は十八時前。いよいよ祭りの時間が近づいていた。僕はすでに昼寝から目を覚まし、服も神主の装束を身に纏っていた。
祭具をバッグから取り出し、今回初日に使うものをひとまず揃え、小さな台車を借りて、祭りの本拠地である村の中心の広場へと向かった。
太鼓や横笛の楽器を演奏する隊がすでに編成され、その者たちはヤグラの上へと進んでいく。ヤグラは三段になっており、上から二段目に太鼓、その下に笛、そして地上には舞を舞う者たちがいた。僕が向かうのはその一番上で、そこには祭壇が設けられているようだった。
村人数人に手伝ってもらい、ようやく僕はヤグラの最上段に到達した。
「那都くん、少し足が震えてるけど、だいじょぶだべか」
村人の若い男が、心配そうに声をかけてきた。もとから僕は高所が苦手で、こんなヤグラのてっぺんに登らされるなんて、まったく聞いていない。しかも屋台骨がしっかりしていないのか、それとも別の理由なのか、グラグラ揺れるという、ちょっとしたスリルを味わわせてくる仕様になっていた。
「だ、だいじょうぶです」
僕がそう答えると、下にいる若者たちは一様に片頬を釣り上げて笑っている。バカにしやがって。僕はこれまで幾多の艱難辛苦を乗り越えてきたんだ。これしきのこと、どうということもない。
そんなやり取りを経て、ようやく祭りの定刻となる。鼓笛隊は演奏を始め、舞を舞う者たちは神秘的な様子で華麗に舞った。
同時に祈祷を始めてください、と言われていたとおり、僕は父から指定されていた祝詞を詠み上げ始める。お供物や蝋燭などは村のものを使うとよい、とも言われていたので、あらかじめ村人にお願いしていた。
やがて一時間ほど経ったころだろうか。少し風が吹き始めた。肌寒いというか、どこか季節外れな風向きと風量を思わせるものだった。次第に空は曇り始め、ポツポツと小さな雫が降り出した。
村人は一斉に喜び、恵みの雨だ、神様に届いた、那都くんのおかげだ、と口々に騒ぎ出した。その後、祭りも一区切りを迎え、雨足がほどよく強まったところで、各自撤退を始めた。僕も皆の様子を確認し、村人数人に手伝ってもらいながらヤグラを降りた。
「ほんとうに嬉しいべ。ようやく恵みの雨が降ってくれたべ。那都くんのおかげじゃ。ほんとうにありがとう」
村長は深い感謝の面持ちで僕の手を掴んできた。村人たちも手を合わせ、まるで僕に祈るように、神に捧げるように「ありがたや」と迫ってくる。
「今日の雨は小雨のようですし、明日からもまたこの儀式は続けましょう」
僕はそう言って皆をなだめつつ、明日以降の計画を示唆した。やがて村人たちは集会所で宴を開き、僕もそれに参加し、このひとときの喜びを共に分かち合った。
夜もだいぶ更け、酔い潰れる者も出てきたころ、僕は酒は飲めないながらも雰囲気に飲まれてしまい、ほどよい酔い心地を味わった。
トイレに行きたくなり、集会所の広間を出て、廊下を進む。そこは昔ながらの作りのせいか、縁側に面した少し開けた部分があり、庭へと出ることもできる。その場所に差し掛かったとき、ふと空を見上げると、雨雲はすでに去り、わずかな恵みだけを残して、一面の星空へと変わっていた。
「こんな程度の雨じゃ、なにも変わらないな……」
そう一人ごち、また近い未来のことを思案しながらトイレを済ませ、広間へ戻る途中、ふと縁側に紬の姿を見つけた。
蝋燭の光すらない薄暗い廊下に、紬はぽつんと腰を下ろしていた。祭りの装束を纏い、まるで雨にでも打たれたかのように髪や衣が濡れ、雫がポタポタと廊下の板に落ちていた。
「紬、こんなところでどうしたの? それに、そんなに濡れていたら風邪をひいちゃうよ」
僕は紬のことをよく知らないが、一般的に暑い季節だろうと身体を濡らしていては、気化熱で体温を下げすぎてしまう。冷えた身体は免疫力を奪い、病を招くものだ。そんな心配から、思わず声をかけていた。
「那都」
紬は庭に視線を向けたまま、僕の名前を呼んだ。それは間違いなく僕への問いかけだった。
僕は返事をせず、というより少し考え込んでいた。そのわずかな間を置いて、紬はすぐにこう言った。
「絶対無理だよ」
「……え?」
咄嗟に口をついて出たのは、たった一文字。紬がなにを言わんとしているのか、まったくわからなかった。
紬はさらに続ける。
「絶対無理だよ。私がどんなことをしても無理なんだもん」
「紬、なにを言っているのかよくわからないよ」
ちゃんと一から説明せよとまでは言わないが、せめて脈絡くらいは教えてくれなければ会話にならない。
「いいんだ。そのうちわかるよ。でも那都、あなたに期待してるからさ」
そう言って紬は庭へ歩き出した。カラン、と音もしない。
僕は追いかけはせず、たださきほどの「どんなことをしても無理」という言葉だけが頭の中を支配した。あの暗い横顔から発せられた言葉は、それほどに印象的だった。
僕は再び広間へ戻り、宴の続きへと身を投じた。
翌朝。やはり雨は続かなかったようで、地面はすでに乾き始めていた。
「まあ初日にしてはこんなもんだべ。那都くん、今日からもよろしく頼むべ」
村長はそう言って僕を励ました。僕も実感していた。この感覚は――少し不安が残る。僕の少ないながらの経験からもわかる。この予感はあまり良くない。
そして、その良くない予感は的中する。
二日目、三日目も祭りは催され、初日と同じように雨雲は現れたが、やはり雨足が強まることはなかった。
それどころか四日目には、雨雲すら姿を見せなかった。流石に僕も嫌な胸騒ぎを覚えた。このままでは足りないどころか、余計な期待によって不安ばかりが膨らんでいく。
僕は集会所の電話を借りて父に連絡したが、「今のままで間違っていない。祈祷も変に変えるべきではない」と言われるばかりだった。
しかし、五日目を迎えようとするこの切迫した焦燥感は、どうしても拭えなかった。このまま同じことを繰り返しても無意味なのではないか、と。
これまでの数日間、僕は懸命に取り組んできた。手を抜いたことなど一度もない。全身全霊を祈祷に捧げてきた。僕にできることは、今のところそれだけだ。それ以上の力を、この身から搾り出すことなどできやしない。
僕はまだ未熟であることを重々承知していた。少し鼻にかけるところも、少し謙遜するところも、少し尊大な物言いだって、すべて僕という姿を形づくる要素に過ぎない。確かに同級生より優れている部分は自覚しているが、その一方で置き去りにしてきた部分も多い。そうやって足りない部分に気づき、後から埋めていくことで、僕は成長してきたつもりだった。
それなのに――この焦燥感はなんだ。いままでの依頼でも、達成できなかった事案はあった。そのたび父は言葉をかけてくれた。もちろん父だって失敗の経験があってこそだろう。だが、今のこの感覚はちがう。
そして、五日目の朝を迎えるころには、すでに僕の身体に不調が兆し始めていた。