プロローグ
浦和発の電車に長い長い時間揺られ、僕はようやく栃木の地を踏んだ。北に行けば少しは涼しいのかと思っていたが、それは大きな勘違いだった。この地域は想像以上に暑く、むしろ埼玉よりも暑いのではないかとさえ思う。
「……とんでもない日差しと蝉の声だ」
夏休みを利用して、各地の依頼をこなし修行せよと父に言われ、今回はこの地に来た。大きなキャリーバッグには祈祷に使う祭具を詰め込み、さらに高校一年生の平均よりもだいぶ小柄な僕の背には、数日分の旅支度を収めた登山用のリュックがずしりとのしかかっている。
ここから依頼先の村まではバスを利用する。しかし時刻表を確認すると、予想通り――いや、予想以上に――便が少なく、1時間に一本すらない。思わず肩を落とし、出発までの時間を駅に併設された喫茶店で過ごすことにした。
「ソーダください」
「かしこまりました。はい」
「えっと、アイスは頼んでないですよ?」
「いいのよ。サービスしてあげる」
なんとも気前のいい店だった。本当はシュワッとしたソーダを喉に流し込みたかったのだが、せっかくだから糖分もとっておこうと、クリームソーダに浮かぶアイスをスプーンですくい上げる。
手帳を開き、依頼内容を改めて確認する。村の概要や、僕が行うべき祈祷の種類などを復習しているうちに、バスの時間が迫ってきた。会計を済ませ、先ほどアイスを添えてくれた女性に礼を言う。
「ぼく、遠くから来たの?ずいぶん大きな荷物ね」
「……一応、高校生なんですけど」
「あら、ごめんなさい。失礼しました」
「いいんです。いつもそんな風に扱われますから」
「そう。これからどこへ行くの?」
「ある村で雨乞いの祈祷を。仕事で向かうんです」
「へえ……もしかして神主さんなの?」
「はい。今は修行中の身です」
「そうなんだ、偉いわね。頑張ってね」
女性はにこりと笑い、「帰りにも寄ってね」と言ってくれた。頭を撫でられそうになったが、スッと身をよける。あまり僕を子ども扱いしないでほしい。
やがてバスが到着し、僕は重い荷物をなんとか車内へと運び込む。空いた席に腰を下ろすと、バスはガタガタと揺れながら発車した。道が悪いのか、車両が古いのか――しかしその独特の揺れは、あまり体験することのない感覚で、妙に心地よかった。うとうとと眠気に襲われる。
車内放送に起こされ、目的の停留所に着いた。バス賃をチャリチャリと払い、荷物を抱えて車外へ出る。ここからは徒歩だが、道は意外にも整備されており、キャリーバッグの小さな車輪も大きくがたつくことなく転がっていく。
側溝に気をつけながら緩やかな坂を登り切ると、目の前が一気に開けた。そこに広がっていたのは、今回の依頼先――村の風景だった。
田畑が一面に広がり、丘陵地帯の中でも低い平野に農地が配置され、山や川からの水が全体へと行き渡るよう綿密に設計されている。家屋はところどころに点在しており、古めかしさの中に手入れの行き届いた美しさがあり、まるで絵画のような田園風景だった。
だが、この村には重大な難題がある。雨が極端に少ないのだ。もともと水の乏しい地域であり、育てられる作物は品種改良によって少ない水でも育つものばかり。日本人特有の職人技と改良の積み重ねによって支えられてきた。
しかし今年は特に厳しい。雨は少なく、冬の雪も乏しかったため、山からの湧き水も減少し、村は渇水状態に陥りつつあった。危機はすぐそこまで迫っている。
本来なら、この切迫した依頼を僕が引き受けるかどうか、父も迷ったという。しかし父はある情報を耳にし、僕を行かせることにしたらしい。その「あること」が何かは、帰ったら教えてくれるそうだ。仕事には影響しないが、僕にとっては重要なことらしい。――いったい何だろう。
考えても答えは出ない。ともあれ、まずは挨拶だ。僕は田園へと足を踏み入れた。
「よう来たべな。……あんれ? ぼくちゃん、神主さんはどこだべ?」
「……えっと、聞いてませんか? 高校生の息子を向かわせると」
「ああ、聞いてるべよ。でもその高校生はどこだべ?」
まあ、この手のやりとりにはすっかり慣れている。依頼を受けるのも今回が初めてではないし、徹頭徹尾バカにされたまま終わった仕事だってある。それでも僕には、一応数々の実績があるのだ。もう少し、人を見た目で判断するのはやめてもらいたい。
かくかくしかじかと説明をすると、対応してくれた村長なる人物は、その奥方とともに深々と頭を下げ続けた。そこまで平身低頭されると、かえってこちらが恐縮してしまう。
「あの……村長さん、気にしていませんから。どうか頭を上げてください」
「いんや、本当にすまねえ。気を悪くして帰ってしまうんじゃねえかと……」
「そんなことしませんよ。ともかく、お話を伺いましょうか」
そう言って僕は村長夫妻に連れられ、村の集会所へと案内された。到着するや否や、村人たちもどやどやと集まってきて、場はにわかに熱気を帯びる。
「それじゃ、みんなに紹介するべ。このお方が雨乞いの祈祷を引き受けてくれた花木さんだべ」
「花木那都と申します。今回はよろしくお願いします」
その場がざわつく。村長と同じように、年齢を見て驚いているのだろう。
「まあまあ、みな静かに。花木さんは立派なお方でな。高校一年生だども、もう大学生にもなってるらしいべ」
「いえいえ、それほどでも」
一応そう答えつつも、鼻は高くなる。事実は事実なので、否定しても仕方がない。ここは少し謙遜しておく――いつもの流れだ。
集会所の面々は「えらいわねぇ」「たいしたもんだべ」と感嘆しきりだったが、僕は空気を切り替えることにした。
「村長さん、紹介はそこまでにして。お仕事の内容をお願いします」
「わかったべ。そんじゃ、オラのせがれから説明させてもらうべ」
紹介された村長の息子が丁寧にお辞儀をし、状況を語り出した。雨乞いの祭り――舞いや演奏を奉じ、神へ祈るという儀式は、古くからの村の風習らしい。毎年その時期になると、祭りのおかげか、あるいは自然の巡りか、雨はそこそこ降ってきたという。
だが今年は違った。依頼で聞いていたとおり、水という水に困り果てている。そこで全国神職会を通じて父へ依頼が届き、僕が派遣されることになった。
「……というわけです。お話しした内容はすでにお父上に伝えております。御坊ちゃまでいらっしゃる那都様には、大変荷が重いお願いかと思いますが……」
まさに神頼みの依頼だ。自然相手ゆえ不確定ではあるものの、数ある仕事の中では比較的やりやすい部類に入る。雨がまったく降らないなど、そうそうあるものではないからだ。
「大丈夫です。こう見えて父に連れられて全国を飛び回っていますから。似たような依頼も数多く経験済みです。大船に乗ったつもりで安心してください」
あまりに尊大な物言いに場は一瞬静まり返ったが、驚きというより「若さゆえの自信か」とでも受け取っている様子だった。
「そうですか、それは心強い。那都様にはなるべく快適に過ごしていただけるようにいたしますので、達成までの日々、どうかごゆるりと」
村長の息子はとても丁寧な物腰で、あの失礼な出だしだった村長と同じ血を引いているとは思えないほどだった。
「ありがとうございます。ただ、那都“様”はやめてください」
「んじゃ、那都“くん”でいいべ」
村長がそう言うと、場に苦笑いが広がる。僕はそれで構わないので、少しだけ微笑んでみせた。
さてさてと、お茶をつぎ直され、村で作られた団子を頬張りながら、今後行われる祭りの日程について打ち合わせをする。そんな折、一人の少女が集会所に姿を現した。
「紬、また水浴びなんぞして……水がもったいねえって言ったべ」
「紬」と呼ばれた少女は、制服のような白いセーラー服に紺の膝上スカートを身につけていた。顎のあたりで切りそろえた髪を両耳の上で小さく結び、透き通るような青白い肌をしている。そして村長の言葉どおり、なぜか頭から水を浴びたあとのように、滴をまとっていた。
「だって、暑いんだもん」
ぶっきらぼうに言い返すその姿は、妙に印象的だった。
「那都くん、すまんねえ。この娘はオラの孫で、紬っていうんじゃ」
村長が紹介すると、奥方が補足で年齢と学校を教えてくれる。僕より一つ年上の高校二年生らしい。
「今回の依頼で参りました、花木那都と申します。“神職”をしております。紬さんの一つ下の高校一年生です」
「わあ、ずいぶん育ちのいい男の子だね。和田紬です。よろしくね、那都」
いきなり呼び捨てにされた。けれど、そういう性格なのだろう。僕は気にせず向き直る。
「はい、何日かこちらでお世話になります。よろしくお願いします、紬さん」
「“紬”でいいよ。ここにいる間、私になんでも言いつけてね、那都」
そう言い残し、紬は颯爽と立ち去った。まるで台風のように現れ、風のように去っていく姿は、人であふれるこの集会所に、清涼な一陣の風を吹き込んだかのようだった。
「では那都くん、祭りの時間まで、こちらでお休みください」
時刻は午後二時を回ったところ。祭りまで四時間ほどある。せっかくだから長旅の疲れを昼寝で癒そうと、ありがたく横にならせてもらった。やがて村人たちも集会所を離れ、それぞれの仕事や持ち場へと戻っていった。