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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第八章 責任のありどころ
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責任のありどころ

 アサヒは、中庭の木陰に座り込んでいた。

 膝の上には開きかけた歴史のノート。

 今日の座学で渡された内容が頭にうまく入ってこないまま、ぼんやりとページをめくっていた。

 風が一度、軽やかに吹き抜ける。

紙がめくれ、ふと「前勇者」の項が目に入った。

 その人物が突如として現れ、天空の棟に向かったきり戻ってこなかったこと──そんな一文が、無機質に記されている。

 アサヒはふと空を見上げた。

 青がまだ柔らかく残る午後の空に、意識の一部が吸い込まれていく。

 なぜだかそのとき、彼の思考は、かつて医者だった父の面影へと滑り落ちていった。

「……何してる」

 その声に、アサヒは振り返る。

 キサラギが立っていた。いつものように気配を感じさせず、いつの間にか近くにいたらしい。

「……キサラギは、前の勇者に会ったことある?」

 唐突な問いかけに、キサラギは少し黙り込んだ。

 そして、ゆっくりとうなずいた。

「あるな。……気になるのか?」

 アサヒはノートを閉じ、息を吐く。

「少しね」

「……お前みたいな穏やかなやつじゃなかったな」

 キサラギは、懐かしむように言葉を継いだ。

「どっちかっていうと、“魔王”って呼ばれてる方が似合いそうな感じだった」

「……ええ……」

 アサヒは苦笑するしかなかった。

「でも、カリスマ性はすごくあった。あいつが現れると、不思議と“何とかなる”って思わせる空気があったんだ」

 アサヒは小さくつぶやく。

「僕は逆に心配されるよ。……“こんなんで大丈夫か”って」

「……まあ、今思えば、前の勇者も──だからこそ、ああいう性格だったのかもしれないな」

 アサヒは黙ったまま、うつむいた。

 キサラギは空を見上げたまま続けた。

「勇者ってのは、万能じゃない。たった一人で、世界全部を助けるなんて無理だ。勇者が現れて救えるのは、“おおよその人間”だけだ。それが現実だ」

 キサラギの言葉が静かに響く。

「全部を救えるのは──御伽噺の中の勇者だけだよ」

 風がまたノートをめくる。

 キサラギの脳裏に、前の勇者の姿がよぎる。

 誰よりも深く傷ついていたのに、ひたすらに“強いふり”をしていた背中。

 そして、目の前で俯くアサヒを見つめた。

  ──こんなガキに勇者をやらせる、この世界の残酷さが、胸にじわりと染み込んでいく。



***

 子どもたちを、それぞれの“帰るべき場所”へ送り届ける日々が続いた。

 古い知人に引き取られる子もいれば、元の村に帰る子もいた。なかにはキサラギの顔を見た瞬間、涙をこらえきれず抱きつく子もいた。「ありがとう」と絞り出すように言う子、「一緒に来ちゃダメ?」と小さな声で尋ねる子。ある子は、手の中で皺くちゃになった折り紙を渡してきた。

 けれど、そうではない子もいた。

「……俺は忘れない、弟もあの施設の奴らも……お前も」

 憎しみをにじませた瞳で、キサラギをにらみつけて去っていった少年。その背中を見送るたび、キサラギは何も言わなかった。ただ黙って立ち尽くしていた。

 そのたびに、自分の手がどこまで血で汚れているのかを、嫌でも思い知らされた。

 全員を送り届けたあと、誰にも呼ばれることのなかった少年がひとり残った。

 兆だった。

「……俺には、帰る場所なんてない」

 そう言って、ぽつりと笑った。その笑顔がひどくぎこちなく、痛々しかった。

 兆は最近、よく手から物を落とすようになっていた。スプーン、工具、作業着のボタンさえ。

 食事も残すようになった。味がしない、というわけでもなく、ただ途中で箸が止まっていた。言葉が聞き取りづらくなり、何かを考えるのにも時間がかかるようだった。注射痕のまわりには、ぶつけた覚えもないのに広がっていくような紫色のあざ。

 おそらくは施設で投与された薬の後遺症。

 それでも、ふたりは一緒にいた。

 キサラギは掃除夫の仕事を見つけ、兆も資材運びなどの力仕事を手伝った。朝に目を覚まし、飯を食い、誰とも目を合わせず、黙々と働いて、薄暗い部屋でまた眠る。淡々とした日々だったが、不思議と息は合った。

 だが、その日――兆は突然倒れた。

 呼吸は浅く、唇は紫がかり、汗が止まらない。声をかけても反応が遅い。キサラギは脈を取りながら顔をしかめ、そして、一度だけ深く息を吸った。

 こうなることはどこかで気づいていた。あんな拷問を受けてただで生きられるはずはない。

――救うことが、生かすこととは限らない。

 そんな考えが、いつのまにか根を張っていた。

 兆の口から悲鳴が出る前に、楽にしてやるべきだと。

 そしてその役目は、自分しかいないと思っていた。

 震える手で物置の奥にしまっていた短刀を取り出した。あのとき、施設を出るときに奪ってきたものだ。

 ――人間のままでいさせたかった。

 肩で息をしながら、短刀を振り上げる。

 耳の奥で、自分の心臓の音がうるさいくらいに響いていた。

 震える手を一生懸命押さえつける。

 もう目を背けてはられない。

「兆……ごめん……」

 ――キサラギは痛々しい顔で短刀を振り下ろす、その寸前。

「……どけ」

 低く、よく通る声が背後から響いた。

 キサラギが振り向いたその先に、見覚えのある男が立っていた。

 黒いロングコート、隠しきれない傷痕。勇者の剣を抜いた勇者、そんな新聞記事に乗っていた男。 だが今、その男は違う顔で名乗った。

「俺は医者だ。見せてみろ」

 その瞬間、手にしていた短刀が、指から滑り落ちた。

 音もなく床に転がる刃。それより先に、キサラギの膝が崩れ落ちた。

***

 いつも通りの沈黙だった。焔羅と紫、二人きりの生活。

 誰も訪ねてこない。誰も探しに来ない。

 この世界に、他人はいない。


 その音は、扉の向こうからだった。

 木を叩く音、重い足音、土埃。

 焔羅が立ち上がり、紫が手を止める。


「誰か、来た……?」


 焔羅の声は震えていた。


 開いた扉の向こうに、見慣れない人影の横にキサラギ達が立っていた。


 傷だらけの服。砂まみれの足元。

 その中のひとりが、焔羅と目を合わせた。


 何かが、終わった気がした。

 そして、何かが始まる気もした。

 でもその何かが、きっと“救い”なんかじゃないことだけは分かった。大事な時は誰も助けてくれないことを二人は身に染みて知っていたからだ。


 紫は、声も出さず、その場に座り込んだ。

 焔羅は、視線を外せなかった。



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