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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第八章 責任のありどころ
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大人のいない館の中で

 刃が舞うたびに、命が音もなく絶えていく。紫の動きは研ぎ澄まされ、誰一人として抵抗する間もなく床に倒れていった。

 血の匂いが部屋を満たす中、最後に彼女が向き合ったのは――焔羅だった。

 無表情のまま、紫は刀を静かにゆっくり構える。赤く濡れた刃が光を反射し、焔羅の額に一筋の光を走らせる。

 けれど焔羅は、ただ黙って彼女を見ていた。恐怖も拒絶も、そこにはなかった。

 それは、まるで――救いを求める者の瞳だった。

 刃の先にあるものを、赦しのように受け入れようとする視線。

 紫の手が、わずかに震えた。

「……どうして、そんな目で見るんだ」

 そう呟いた瞬間、彼女の顔に、これまで一度も見せたことのない――弱々しい表情が浮かんだ。

 その一瞬、焔羅の胸に焼きついていた記憶が重なる。

 誰かに怯え、誰にも救われず、ただ感情を凍らせて生きていたあの小さな妹。

 紫の姿が、それと重なった。

 気づけば、焔羅は彼女を抱きしめていた。

 刀はするりと手から落ち、床を鳴らした。紫の身体は、ひどく軽かった。

 まるで、生きていることさえ信じられないように。

 その瞬間――紫の脳裏に、ある声がよみがえる。

『お前、私の腹から生まれたら良かったのにな』

 それは、かつて唯一の理解者だった“叔母”の声。

 優しく、哀しく、残酷な愛情の言葉。

 その声が響いた瞬間、紫のうなじに埋め込まれた石がふっと淡く光り、そして静かに、その輝きを収めた。

 まるで、その言葉が彼女の中の何かを鎮めたかのように。


***

 館の扉が軋んだ音を立てて開くと、内側に広がっていたのは、重たく淀んだ空気だった。

 鉄の匂いが鼻をつき、誰の気配もないその空間は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。

 焔羅は黙って奥へと歩き、紫はその少し後ろをついてくる。

 床には血のような染みがいくつも残り、壁には刃物が突き刺さったままの箇所さえあった。

 それでも紫の表情は変わらない。ただ黙々と、記憶をなぞるように歩いていた。

 ふたりはかつて紫が暮らしていたという部屋にたどり着いた。

 薄いカーテンが破れたまま垂れ下がり、小さな机には、埃をかぶったままの薬瓶や記録用紙が無造作に散らばっている。

 その部屋の中央に立ち尽くす紫は、まるで魂の抜けた人形のようだった。

 焔羅は無言で椅子を拭き、紫の肩をそっと押して座らせる。

 乱れた髪を手櫛で整え、水を汲みに行き、割れたコップに注いで差し出す。

 紫は、その一連の所作をただじっと見つめていた。

「……ずっと、どうやって生きてきたんだ?」

 焔羅の問いに、紫は少しだけ目を伏せた。

「……基本、この部屋から出ちゃダメだったの。ずっと、ここにいた」

 声はどこか淡く、空気に溶けるようだった。

「人とも……ほとんどしゃべったことないから。どう話していいかも、よくわからない」

 焔羅は驚いたように眉をひそめた。

「……ひとりも?」

 紫はわずかに間を置き、小さく答えた。

「……一人だけ。話してくれる人はいた」

 焔羅はそれ以上は聞かなかった。ただ、そっと笑って言った。

「……じゃあ、まずはその人のマネから始めてみたら? 口調でも、言い方でも、真似していい。無理して自分の言葉で話さなくてもさ」

 紫はほんの一瞬、目を丸くした。

 そして、唇をわずかに緩める。

「……悪くないかもな」

 それは、ほんのかすかな笑みだった。

 けれどその微笑みに、焔羅はふと胸を掴まれるような感覚を覚えた。

 ――救われたような気がした。


***

 森の奥の古びた館で、ふたりだけの日々が始まった。

 最初は、紫に付き添うことでしかなかったはずの時間が、いつのまにか焔羅にとっても必要なものになっていた。

 朝、目を覚ますと隣に座って黙って焚き火を見ている紫がいて。

 森の奥の館で、焔羅と紫は静かに暮らしはじめた。

 そこには、時間が積もったような空気と、血の鉄臭さだけが残されていた。

 紫は、最初こそ感情のない人形のようだった。

 しかし、焔羅が食事をつくり、風呂を沸かし、話しかけるたび、少しずつ目の動きが変わっていった。

 洗い方も、箸の使い方もぎこちないまま。

 人間のすることが、ひとつずつ新しくなっていく。

 焔羅は、それを手伝いながら、自分が人の役に立とうとしていることに気づく。

 それが自分にとって、こんなにも救いになるとは思わなかった。

 紫は、自分を救った存在だった。

 けれど、ふとした瞬間に気づいてしまう。

 自分が紫に何かを投影していることに。

 ――あのとき守れなかった妹。

 ――誰にも助けてもらえなかった自分。

 ――誰かを救いたいと願う、癒えない痛み。

 そして、何よりも――救われたような錯覚を与えてくれる“象徴”だった。

 紫を甲斐甲斐しく世話することで、焔羅は自分の中の欠けた部分すべてを埋めようとしていた。

 赦されたい。認められたい。

 誰にも助けられなかった自分を、紫を助けることでまるで自分を救ったという錯覚を得たかった。それはもはや、執着と同じものだった。

 時おり、焔羅の心に黒い影が差した。

 何もしていなくても、突然世界が色を失うような瞬間。

 呼吸が浅くなり、心臓の音だけがやけに響く。


 ――もう、終わってもいいかもしれない。


 誰にも望まれていないなら、せめて自分の手で終わらせたい。

 その気配に気づいたのか、紫は焔羅の横でぽつりと呟いた。

「……私がお前を殺してやる」

 焔羅は顔を上げた。紫は真っ直ぐにこちらを見ていた。

「誰でもない、私がお前を殺す。だから――私が殺すまでは、勝手に死ぬな」

 その言葉に、焔羅の胸が少しだけ痛んだ。

 怒りでも優しさでもない。

 それでも、確かに引き止められた気がした。

 紫もまた、焔羅に何かを見ていた。

 救済者としてか、鏡としてか、それともただの同類としてか。

 ふたりはゆっくりと、静かに、互いに依存し始めていた。

 救われなかった無力な子供が少しでも傷が癒えるように。

 それはあまりにも間違った方法だと二人は気づいていた。


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