大人のいない館の中で
刃が舞うたびに、命が音もなく絶えていく。紫の動きは研ぎ澄まされ、誰一人として抵抗する間もなく床に倒れていった。
血の匂いが部屋を満たす中、最後に彼女が向き合ったのは――焔羅だった。
無表情のまま、紫は刀を静かにゆっくり構える。赤く濡れた刃が光を反射し、焔羅の額に一筋の光を走らせる。
けれど焔羅は、ただ黙って彼女を見ていた。恐怖も拒絶も、そこにはなかった。
それは、まるで――救いを求める者の瞳だった。
刃の先にあるものを、赦しのように受け入れようとする視線。
紫の手が、わずかに震えた。
「……どうして、そんな目で見るんだ」
そう呟いた瞬間、彼女の顔に、これまで一度も見せたことのない――弱々しい表情が浮かんだ。
その一瞬、焔羅の胸に焼きついていた記憶が重なる。
誰かに怯え、誰にも救われず、ただ感情を凍らせて生きていたあの小さな妹。
紫の姿が、それと重なった。
気づけば、焔羅は彼女を抱きしめていた。
刀はするりと手から落ち、床を鳴らした。紫の身体は、ひどく軽かった。
まるで、生きていることさえ信じられないように。
その瞬間――紫の脳裏に、ある声がよみがえる。
『お前、私の腹から生まれたら良かったのにな』
それは、かつて唯一の理解者だった“叔母”の声。
優しく、哀しく、残酷な愛情の言葉。
その声が響いた瞬間、紫のうなじに埋め込まれた石がふっと淡く光り、そして静かに、その輝きを収めた。
まるで、その言葉が彼女の中の何かを鎮めたかのように。
***
館の扉が軋んだ音を立てて開くと、内側に広がっていたのは、重たく淀んだ空気だった。
鉄の匂いが鼻をつき、誰の気配もないその空間は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
焔羅は黙って奥へと歩き、紫はその少し後ろをついてくる。
床には血のような染みがいくつも残り、壁には刃物が突き刺さったままの箇所さえあった。
それでも紫の表情は変わらない。ただ黙々と、記憶をなぞるように歩いていた。
ふたりはかつて紫が暮らしていたという部屋にたどり着いた。
薄いカーテンが破れたまま垂れ下がり、小さな机には、埃をかぶったままの薬瓶や記録用紙が無造作に散らばっている。
その部屋の中央に立ち尽くす紫は、まるで魂の抜けた人形のようだった。
焔羅は無言で椅子を拭き、紫の肩をそっと押して座らせる。
乱れた髪を手櫛で整え、水を汲みに行き、割れたコップに注いで差し出す。
紫は、その一連の所作をただじっと見つめていた。
「……ずっと、どうやって生きてきたんだ?」
焔羅の問いに、紫は少しだけ目を伏せた。
「……基本、この部屋から出ちゃダメだったの。ずっと、ここにいた」
声はどこか淡く、空気に溶けるようだった。
「人とも……ほとんどしゃべったことないから。どう話していいかも、よくわからない」
焔羅は驚いたように眉をひそめた。
「……ひとりも?」
紫はわずかに間を置き、小さく答えた。
「……一人だけ。話してくれる人はいた」
焔羅はそれ以上は聞かなかった。ただ、そっと笑って言った。
「……じゃあ、まずはその人のマネから始めてみたら? 口調でも、言い方でも、真似していい。無理して自分の言葉で話さなくてもさ」
紫はほんの一瞬、目を丸くした。
そして、唇をわずかに緩める。
「……悪くないかもな」
それは、ほんのかすかな笑みだった。
けれどその微笑みに、焔羅はふと胸を掴まれるような感覚を覚えた。
――救われたような気がした。
***
森の奥の古びた館で、ふたりだけの日々が始まった。
最初は、紫に付き添うことでしかなかったはずの時間が、いつのまにか焔羅にとっても必要なものになっていた。
朝、目を覚ますと隣に座って黙って焚き火を見ている紫がいて。
森の奥の館で、焔羅と紫は静かに暮らしはじめた。
そこには、時間が積もったような空気と、血の鉄臭さだけが残されていた。
紫は、最初こそ感情のない人形のようだった。
しかし、焔羅が食事をつくり、風呂を沸かし、話しかけるたび、少しずつ目の動きが変わっていった。
洗い方も、箸の使い方もぎこちないまま。
人間のすることが、ひとつずつ新しくなっていく。
焔羅は、それを手伝いながら、自分が人の役に立とうとしていることに気づく。
それが自分にとって、こんなにも救いになるとは思わなかった。
紫は、自分を救った存在だった。
けれど、ふとした瞬間に気づいてしまう。
自分が紫に何かを投影していることに。
――あのとき守れなかった妹。
――誰にも助けてもらえなかった自分。
――誰かを救いたいと願う、癒えない痛み。
そして、何よりも――救われたような錯覚を与えてくれる“象徴”だった。
紫を甲斐甲斐しく世話することで、焔羅は自分の中の欠けた部分すべてを埋めようとしていた。
赦されたい。認められたい。
誰にも助けられなかった自分を、紫を助けることでまるで自分を救ったという錯覚を得たかった。それはもはや、執着と同じものだった。
時おり、焔羅の心に黒い影が差した。
何もしていなくても、突然世界が色を失うような瞬間。
呼吸が浅くなり、心臓の音だけがやけに響く。
――もう、終わってもいいかもしれない。
誰にも望まれていないなら、せめて自分の手で終わらせたい。
その気配に気づいたのか、紫は焔羅の横でぽつりと呟いた。
「……私がお前を殺してやる」
焔羅は顔を上げた。紫は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「誰でもない、私がお前を殺す。だから――私が殺すまでは、勝手に死ぬな」
その言葉に、焔羅の胸が少しだけ痛んだ。
怒りでも優しさでもない。
それでも、確かに引き止められた気がした。
紫もまた、焔羅に何かを見ていた。
救済者としてか、鏡としてか、それともただの同類としてか。
ふたりはゆっくりと、静かに、互いに依存し始めていた。
救われなかった無力な子供が少しでも傷が癒えるように。
それはあまりにも間違った方法だと二人は気づいていた。




