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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第八章 責任のありどころ
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救済という錯覚

「全く違う場所を答えるなんて、舐めたことをしたな」

 地下の拷問室は湿気に沈み、染みた壁が鈍く光っていた。棚に並ぶ錆びた器具からは、鉄の匂いが立ちのぼる。窓はなく、明かりはゆらゆらと灯のように揺れ、時間の感覚さえ曖昧にする。

 焔羅は椅子に縛られていた。手足は痺れ、唇には血の味。口を塞がれ、声も出せぬまま、同じ問いだけが繰り返される。

「どこへ向かった?」

「誰が指示した?」

 数時間前、焔羅は職員に全く異なる場所を告げた。少しでも時間を稼ぎ、仲間が遠くへ逃げられるように。だが、逃亡者は見つからず、従順すぎる焔羅の態度に違和感を覚えた拷問官が、再び彼に詰め寄る。無感情な手つきで、次の器具を棚から取り上げながら。

 焔羅は視線でだけ、抵抗を示した。言葉にはできなくとも、その瞳は折れていないと語っていた。

 職員の口元が吊り上がる。

 「お前、妹がいたな」

 焔羅の目がわずかに揺れる。

「……探しに来たんだろう。外で一緒に暮らしたいんじゃないか?」

 棚から古びた刻印器が取り出された。顔に刺青を刻む道具だ。

 ――罪人の印。

 顔にそれを刻まれた者は、人として扱われない烙印を背負う。

「こんなの彫られたら、もう堂々と外なんて歩けないなあ?」

 黙り込む焔羅。だがその目は変わらない。

「一線目。これはたまにいるな…でもこれが第一歩だ」

 職員は焔羅の目の下を静かになぞる。ぞわりと背筋に虫唾が走る

「二線目。街ですれ違っても、みんな目を逸らすだろうな」

 指が少しずれ、なぞる場所が変わる。

「三線目。ここまでくると仕事も住まいも限られる。まともな生活は無理だな」

 もう片方の目へ指が移る。寒気が背を撫でる。

「そして――四本目」

 部屋の空気が変わった。

「最も重い罪人にだけ刻まれる、取り返しのつかない印だ」

 少しの沈黙。再び、問いが投げられる。

「…もう一度聞く。どこへ向かった?誰が指示した?」

 焔羅の頬を乱暴につかむと、職員はもう何度目かわからない質問を投げかけた。

「……”知らないものは答えられない”」

 焔羅もまた、同じ回答を繰り返した。

「…かわいそうな妹だ、犯罪者の兄をもつなんて」

 わざとらしい溜息とともに、職員が器具を構える。


***

 目の下が熱い。刻まれた罪人の印が、肌にくっきりと焼きついていた。

もう、冷たい床しか見えない。

「…馬鹿な奴だな」

 呟きとともに、目隠しがかけられ、耳に奇妙な装置が装着される。脳の奥で耳鳴りのような音が響き、職員の声だけが鮮明に聞こえてくる。

 「妹は生きてるよ。大事なモルモットだからな、ちゃんと“生かしてある”」

 焔羅の胸が、かすかに揺れた。

 「逃げたやつも戻らないし、被験体も足りてない。会わせてやるよ、ただし――」

 だがその声に、優しさはなかった。

「もちろんタダじゃない。新しい器具の実験に協力してもらう」

「……死ぬような内容じゃないから、安心しろ」

 焔羅の腕に、透明なパッチが貼られる。見たこともない装置。その異常さを、彼はまだ知らない。スイッチを握らされる。

「押せ」

 カチ。

 焔羅の手が、意思と無関係に再び動く。

 何度も、何度も。

「ありがとう。どうやら正常に作動してるみたいだな」

 やがて目隠しが外れ、耳の装置が取り除かれる。

 光と音が戻った視界に、まず映ったのは――ガラスのような瞳をした妹、ユラだった。

 薬に侵された体は椅子に固定され、息も絶え絶えに痙攣している。

 焔羅の目が下を向く。自分の手が――装置のスイッチを握っていた。

 繋がれていた配線。押すたびに投薬されていた現実。

 自分が。

 自分の手が――

 ユラを、殺していた。

 「……だい、じょ……ぶ、……だ……いじょうぶ……だよ……おに……ちゃん……」

 弱々しい声。焦点の合わない瞳。消えていく光。

 職員が耳元で囁いた。

 「言っただろう? ただでは帰さないって」

 焔羅の中で、何かが切れた。

 ――あぁ、殺そう。

 この部屋にいる全員を。白衣を着たこの人間たちを。

 その瞬間。

 時空が、歪んだ。

 赤い霧が、静かに、確実に広がっていく。

 ひとりの職員が喉を押さえて崩れ落ちる。

 刃が走るたび、肉が裂け、血が宙に弧を描く。

 それは雨粒が水面に落ちるような静かな破壊だった。

 殺意も怒りも、そこにはない。

 あるのはただ、正確な動き。

 紫の髪とうなじの紫水晶が、宙に舞う。

 一歩進むごとに、命が終わっていく。

 焔羅の目に、その光景が焼きつく。

 スローモーションの中で、彼女だけが異様な鮮明さを放っていた。

 紫の瞳が、こちらを見た。

 刃を下ろし、焔羅の前で止まる。

 血塗れの白衣の山。その上に、彼女は静かに立っていた。

 焔羅の胸に、言葉にできない感情が込み上げる。

 ――これが、救い?

 そんなはずはない。

 それでも、錯覚してしまった。

 あまりにも美しくて。

 あまりにも遠い光景だったから。




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