救済という錯覚
「全く違う場所を答えるなんて、舐めたことをしたな」
地下の拷問室は湿気に沈み、染みた壁が鈍く光っていた。棚に並ぶ錆びた器具からは、鉄の匂いが立ちのぼる。窓はなく、明かりはゆらゆらと灯のように揺れ、時間の感覚さえ曖昧にする。
焔羅は椅子に縛られていた。手足は痺れ、唇には血の味。口を塞がれ、声も出せぬまま、同じ問いだけが繰り返される。
「どこへ向かった?」
「誰が指示した?」
数時間前、焔羅は職員に全く異なる場所を告げた。少しでも時間を稼ぎ、仲間が遠くへ逃げられるように。だが、逃亡者は見つからず、従順すぎる焔羅の態度に違和感を覚えた拷問官が、再び彼に詰め寄る。無感情な手つきで、次の器具を棚から取り上げながら。
焔羅は視線でだけ、抵抗を示した。言葉にはできなくとも、その瞳は折れていないと語っていた。
職員の口元が吊り上がる。
「お前、妹がいたな」
焔羅の目がわずかに揺れる。
「……探しに来たんだろう。外で一緒に暮らしたいんじゃないか?」
棚から古びた刻印器が取り出された。顔に刺青を刻む道具だ。
――罪人の印。
顔にそれを刻まれた者は、人として扱われない烙印を背負う。
「こんなの彫られたら、もう堂々と外なんて歩けないなあ?」
黙り込む焔羅。だがその目は変わらない。
「一線目。これはたまにいるな…でもこれが第一歩だ」
職員は焔羅の目の下を静かになぞる。ぞわりと背筋に虫唾が走る
「二線目。街ですれ違っても、みんな目を逸らすだろうな」
指が少しずれ、なぞる場所が変わる。
「三線目。ここまでくると仕事も住まいも限られる。まともな生活は無理だな」
もう片方の目へ指が移る。寒気が背を撫でる。
「そして――四本目」
部屋の空気が変わった。
「最も重い罪人にだけ刻まれる、取り返しのつかない印だ」
少しの沈黙。再び、問いが投げられる。
「…もう一度聞く。どこへ向かった?誰が指示した?」
焔羅の頬を乱暴につかむと、職員はもう何度目かわからない質問を投げかけた。
「……”知らないものは答えられない”」
焔羅もまた、同じ回答を繰り返した。
「…かわいそうな妹だ、犯罪者の兄をもつなんて」
わざとらしい溜息とともに、職員が器具を構える。
***
目の下が熱い。刻まれた罪人の印が、肌にくっきりと焼きついていた。
もう、冷たい床しか見えない。
「…馬鹿な奴だな」
呟きとともに、目隠しがかけられ、耳に奇妙な装置が装着される。脳の奥で耳鳴りのような音が響き、職員の声だけが鮮明に聞こえてくる。
「妹は生きてるよ。大事なモルモットだからな、ちゃんと“生かしてある”」
焔羅の胸が、かすかに揺れた。
「逃げたやつも戻らないし、被験体も足りてない。会わせてやるよ、ただし――」
だがその声に、優しさはなかった。
「もちろんタダじゃない。新しい器具の実験に協力してもらう」
「……死ぬような内容じゃないから、安心しろ」
焔羅の腕に、透明なパッチが貼られる。見たこともない装置。その異常さを、彼はまだ知らない。スイッチを握らされる。
「押せ」
カチ。
焔羅の手が、意思と無関係に再び動く。
何度も、何度も。
「ありがとう。どうやら正常に作動してるみたいだな」
やがて目隠しが外れ、耳の装置が取り除かれる。
光と音が戻った視界に、まず映ったのは――ガラスのような瞳をした妹、ユラだった。
薬に侵された体は椅子に固定され、息も絶え絶えに痙攣している。
焔羅の目が下を向く。自分の手が――装置のスイッチを握っていた。
繋がれていた配線。押すたびに投薬されていた現実。
自分が。
自分の手が――
ユラを、殺していた。
「……だい、じょ……ぶ、……だ……いじょうぶ……だよ……おに……ちゃん……」
弱々しい声。焦点の合わない瞳。消えていく光。
職員が耳元で囁いた。
「言っただろう? ただでは帰さないって」
焔羅の中で、何かが切れた。
――あぁ、殺そう。
この部屋にいる全員を。白衣を着たこの人間たちを。
その瞬間。
時空が、歪んだ。
赤い霧が、静かに、確実に広がっていく。
ひとりの職員が喉を押さえて崩れ落ちる。
刃が走るたび、肉が裂け、血が宙に弧を描く。
それは雨粒が水面に落ちるような静かな破壊だった。
殺意も怒りも、そこにはない。
あるのはただ、正確な動き。
紫の髪とうなじの紫水晶が、宙に舞う。
一歩進むごとに、命が終わっていく。
焔羅の目に、その光景が焼きつく。
スローモーションの中で、彼女だけが異様な鮮明さを放っていた。
紫の瞳が、こちらを見た。
刃を下ろし、焔羅の前で止まる。
血塗れの白衣の山。その上に、彼女は静かに立っていた。
焔羅の胸に、言葉にできない感情が込み上げる。
――これが、救い?
そんなはずはない。
それでも、錯覚してしまった。
あまりにも美しくて。
あまりにも遠い光景だったから。




