逃走と代償
焔羅がキサラギたちに背を向け、闇に消えたあと。
しんと静まり返った空気の中で、キサラギは自分の手をそっと握る小さな手に気づく。
顔を上げると、怯えた少女がじっと見上げていた。
「……とりあえず森を抜けよう。人里に降りるんだ」
そう告げた矢先、背後で木々が揺れる音がした。
空気が凍る。追手かもしれない。
キサラギは前に出て、息を殺して様子をうかがう。
茂みから現れたのは――見知った顔だった。
「…兆?」
お互いの姿を見た瞬間、胸の奥にある何かが震えた。
「生き、てた…」
キサラギの表情が、ほのかに緩む。
「…なんとか、な」
兆は傷だらけの体を引きずって近づいてくる。
まわりを見渡し、数が減った仲間たちに気づいた。焔羅も、ユラもいない。
彼は、何も言わずに目を伏せた。
***
先ほどの騒がしさは嘘かのように静かな施設の裏門。
ユラが倒れていた場所には、もう誰もいない。
他の子どもたちの姿すら消えていた。
(あの弾は……致命傷じゃなかったはずだ)
焔羅は地面を見つめ、遺体がないことに一縷の望みを抱く。
そのとき――懐中電灯の光が顔を照らした。
「いたぞ! 撃て!」
複数の銃口が向けられる。
「待て!」
一人の職員が声を上げた。
「こいつ、逃げた連中の居場所を知ってるかもしれん。拷問室へ連れて行け」
焔羅は殴られ、引きずられるように闇の中へ消えた。
***
森を抜けるためキサラギたちは、舗装されていない道をひたすら歩いていた。
誰もが疲れ果て、顔に生気がない。
きょうだいを失った者、友を置き去りにした者――声もなくただ進む。
その沈黙を破るように、一人の少年がキサラギに詰め寄った。
「なあ……お前、どう責任取るんだよ」
キサラギに詰め寄る少年の目には、憎しみが滲んでいた。
「いっぱい死んだんだよ……俺の弟も……」
少年はキサラギの胸倉をつかむ。キサラギは表情一つ揺らさない。
「こんなことなら…みんなでのたれ死んだ方がマシだった」
言葉は刃のようだった。だがキサラギは、何も言わなかった。ただ、痛みを受け止めるように、少年の怒りに身を委ねた。
「返せよ……あいつを……みんなを……」
淀んだ瞳に移るキサラギの表情は何とも言えない顔をしていた。
「じゃあ、勝手に死んどけよ」
兆の低く乾いた声。
「誰かが言わなきゃ、全員死んでた。俺も、お前も」
ひどく鋭く正しい言葉。
「やめろ、兆」
キサラギが遮る。キサラギは分かっていた。
「……いい。恨めばいい。俺を殺したいくらいに」
誰かを恨むことでしか、この痛みを保てない。
風が吹いた。
どこかで鳥が鳴いた。
太陽が、まだ遠い空ににじんでいた。
***
照明の届かない薄暗い部屋。コンクリートの壁は湿り気を帯び、鉄錆と薬品の匂いが混じっていた。
天井から垂れる水音が一定のリズムで響いている。古びた器具が棚に並び、どれも人の形に合うよう曲がっていた。
その中央、焔羅は古びた金属の椅子に縛り付けられていた。手足には縄が食い込み、口には硬い布が詰め込まれている。
足の指先が痺れていた。口の中には、自分の血の味。どこか切れているのか、もはや分からない。
目の前には一人の職員。顔は見えない。仮面のような無機質な表情で、手元の器具を淡々と整えている。
「――どこへ向かった?」
「誰が指示した?」
低く、飾りのない声。まるで天気でも聞くような調子だった。
焔羅は答えようとしても、声にならない。ただ息を吐くだけ。唇を震わせても言葉にはならなかった。
じわじわと額から汗が垂れ、耳元まで滑っていく。
彼は目を閉じ、耳を澄ました。
どこかに、ユラの気配は――。
……ない。あまりにも、静かだった。
視線を横に向けると、棚の上に血の色が残る道具が見えた。
それが何を意味するのか、彼は知っていた。
「言えば、助けてやるよ」
そっと解かれる口元の布。男の言葉が、部屋の空気に沈んだ。
焔羅の心が、一瞬だけ揺れた。
言えば――誰かが助かるかもしれない。
けれど、言ってしまえば。
キサラギも、妹も、もう二度と――。
焔羅は、目を細め、首を横に振った。
やがて、布ごしに小さく呟く。声にはならないが、その意味ははっきりしていた。
「……知らないものは答えられない」
男は無言のまま器具を取り上げた。
照明がその金属の刃先を鈍く光らせた。




