2つの任務
白い石膏の肌に、ひとすじの光が斜めに差し込んでいる。
その質量と存在感は、展示会場の空気を丸ごと呑み込んでしまいそうな迫力をまといながらも、彫刻の輪郭にはどこか繊細な静けさが宿っていた。
ずっと村で暮らし、アートに触れたことなど一度もなかったアサヒは、その場の空気に言葉を失っていた。
「これはまた、実物で見ると素晴らしいねえ」
沈黙を破ったのは、焔羅だった。
「お前って、こういうの理解できるのか?」
紫が、冷ややかな声で返す。
「ぜんっぜん」
焔羅は肩をすくめ、いつもの軽口を返す。
展示会場の張りつめた静けさが、ほんの少しだけ緩んだ。
「これが、ニアが夢でみた彫刻……」
アサヒが静かに呟くと、ニアは食い気味に応じた。
「確かに夢で見た彫刻と見た目は同じだけど、なにか違う」
ニアは普段、とても恥ずかしがり屋だ。
なのに、こういうときだけ、はっきりと強く言葉を放つ。
だからこそ、アサヒはいつも彼の“触れてほしくない部分”がどこにあるのか掴みきれなかった。
「まだ、完成してないからとかか?」
アサヒが言葉を探している間に、紫が先に口を開いた。
「根本的な何かが、欠けてる気がする、夢でみたものと何かが違う」
***
「まだ、完成してないからそんなじろじろみられると恥ずかしいんだけど」
唐突に、背後から声がかかった。
振り返ると、ベリーショートの、風が吹けば飛んでしまいそうなほど細い女性と、恰幅のいい男性が台車を押して立っていた。台車にのせられていたのは女には似つかわしくない大きな岩だった。
「あなたが…クラリッサさんですか?」
アサヒの問いかけに、女はニコリと微笑んで答える。キサラギの話では、彼女は母と同じくらいの年齢だと聞いていた。
けれど、目の前のクラリッサは、少女のようで、大人の女性のようで、少年のようでもある――そんな不思議な気配をまとっていた。
「めっちゃ、べっぴんさんですね」
焔羅の言葉が放たれた瞬間、大男が女の前にぬっと立ちはだかった。
「……先生の助手のヨシュアです」
低く抑えた声には、警戒と、何か別の色が混じっていた。
その目は、焔羅を見ていない。クラリッサの前に立ちはだかるようにして、彼女が包む空気の中にいた。
「話は聞いてます。先生の彫刻が完成するまで、護衛してくださるんですよね」
焔羅に向けられた視線には、まるで「それ以上近づくな」と言わんばかりの鋭さがあった。
その眼差しの奥にあるのは――警戒、独占欲、そして侮辱への拒絶。
焔羅はふっと目を細め、ほんの一瞬、見下すような眼差しを向けた。
しかしすぐに、いつもの軽い笑顔に戻る。
「任せてくださいよー!腕っぷしは、けっこうあるんで」
***
「結局、外回りに回されちゃったよ」
焔羅の、悲しそうなふりをした軽口が下町の市場に響く。国際展が近いせいか、街は異様な熱気に包まれていた。
焔羅とレイは、護衛任務とは別件で指示された調査のため、この街へ出向いていた。
レイは、軽々と歩く焔羅の後ろ姿を見ながら、少し警戒気味に口を開いた。
「…護衛、あの三人に任せて大丈夫なのか?アサヒもニアも、戦うタイプじゃないと思うんだけど」
「あー、大丈夫大丈夫、紫ちゃんついてるし」
気楽に答える焔羅に、レイはなおも不安げな視線を向ける。すると焔羅は、少しトーンを落としながら言葉を継いだ。
「紫ちゃんさ、一応、ひとつ部隊を任されてる隊長なんだよねえ。調査隊の中じゃ一番強いよ」
思わぬ情報に、レイは少し驚いた。けれど、どこか納得もしていた。
あの背中に背負っていた大きすぎる武器。時折見せる、あの鋭い眼差し。そして――うなじにうっすら見えた、紫の石。
「ちなみに俺は副隊長。紫ちゃんの部隊限定だけどね〜」
焔羅は少し目を細め、片側の口角をゆるく上げて笑った。
その笑みに、レイはやはり苦手意識を拭えなかった。
焔羅が時折見せる、微かな――しかし確かな“悪意”。
大抵の人は、焔羅のおちゃらけた態度にごまかされて気づかない。だが、レイにはわかってしまう。
彼は、そうした微細な感情の流れに敏感すぎるのだ。だからこそ、焔羅と話すと、どっと疲れてしまう。
そんなレイの内心など露知らず、焔羅はさっさと歩を進める。賑わう市場を外れ、細い裏通りへと入っていく。
一本、二本と路地を抜けるうちに、あたりの空気はがらりと変わった。
明るくて開放的だった市場の雰囲気は消え失せ、代わりに薄暗く、どこか濁った空気が漂っていた。
昼間から泥酔してうずくまる男。
店先で客引きをするバニーガール。
古びた飲み屋から漏れ聞こえる、酒と怒号の入り混じった騒ぎ声。
「…ねえ、俺任務の内容、聞かされてないんだけど」
レイの小さなぼやきに、焔羅は振り返って、にやりと意地の悪い笑みを浮かべただけだった。