番号87が残したもの
作業が終わった部屋に、重たい空気が流れていた。
金属の擦れる音も、囁き声さえもなく、子どもたちは各々の床に沈み込んでいた。
そんな沈黙を割って、扉が軋むように開く。
そこに立っていたのは、兆だった。
肩で息をし、服は汚れ、手首には擦れた痕。
片目は腫れて閉じ、唇の端から乾いた血が覗いていた。
誰も、声をかけなかった。
見てはいけないものを見るように、うつむく者。
そっと背を向ける者。
ただ一人、キサラギだけがその姿を見つめた。
兆と視線が交差する。
一瞬、兆の片目にわずかな熱が灯る。
その目だけが、まだ死んでいなかった。
ゆっくりと彼は視線を外し、誰とも目を合わせぬまま、
寝床に倒れ込むように横たわる。
その背中に、キサラギが低く言葉を投げる。
「…見ただろ。俺たちが最終的に行きつく場所」
兆は、顔を向けずに応える。
「ああ。俺はあそこに行くのも、近いだろうな」
その言葉に、焔羅が顔を伏せた。
ユラは眠っているように見えたが、布団の中で指先が小さく震えていた。
キサラギは、手に握ったままだった紙切れを見つめる。
皺だらけになったその紙には、幼い文字で書かれた脱出の計画があった。
誰かが行動を起こさなければ、何も変わらない。
壊れる順番を待つだけの日々に、終わりを告げるには——。
キサラギは、はっきりと口にした。
「……全員で、ここから出よう」
***
朝の作業が始まる前のわずかな時間。
薄明かりの差す部屋の隅で、キサラギは兆のそばに腰を下ろした。
「なあ、見張りの交代。……何分だった?」
兆は一瞬、目を細めてキサラギを見た。
キサラギは、布の中に隠していた小さな紙片を広げる。
粗末な鉛筆で描かれた、幼い筆跡の地図。
「昨日、お前が“戻ってきた時間”から逆算して、見張りの間隔を調べた。交代は、きっかり九分ごと。昼と夜では違うけど……明け方だけは例外だった。十一分、間が空く」
兆は黙って、その紙に目を落とす。
キサラギは続けた。
「俺、ここに来てからずっと考えてた。誰がどこで動いてるか、見張りの人数、扉の鍵。作業の行き帰り、どのときが一番見落とされるか。……全部、見てた」
兆が小さく息を吐いた。
「本気か」
「ああ」
それから、キサラギは順に数人の子どもたちへ声をかけていった。
夜、食事後の混乱のすきに、作業中に渡した紙切れ。
焔羅にも、ユラにも、目を見て、短く告げた。
そして、作業の終わり。
皆が静かに、そっと寝床へ戻る時間。
キサラギは焔羅と兆のそばでつぶやくように言った。
「“誰かが選ばれる”その前に、俺たちが選ぶんだ」
焔羅が目を伏せたまま、唇をかみしめる。
兆は、わずかに肩を震わせて笑った。
「選ばれる前に、俺たちが選ぶ、か。……悪くないな」
***
脱出を決行するには、全員の「静かに」「すばやく」「迷わず」動く力が必要だった。
だが、この施設でそんな訓練は許されない。全ては日常に溶け込ませる必要があった。
キサラギは、作業中のちょっとした移動や物の受け渡し、さらには休憩時の並び替えの中に“訓練”を紛れ込ませていった。
たとえば、床に落ちた道具を拾うフリをして、床のタイルの「何枚目で角を曲がるか」を共有する。
次は、作業場から食堂に移動する際の歩数を数え、特定のタイミングで「手を後ろに組む」合図を送り合う。
最初は戸惑っていた子どもたちも、次第にコツをつかんでいく。
焔羅が気づいて、声を低くして言った。
「……これって、バレない?」
「バレないようにやるんだよ」
キサラギは目を逸らさずに返す。
「バレても、“遊んでただけ”って言えるようにしてある」
焔羅は息をのみ、小さく笑った。キサラギは本当だと思わせる力がある。
***
夜。作業が終わり、各自の部屋へ戻る道すがら。
物音ひとつ立てぬ暗い廊下で、キサラギは“合図”を渡していく。
紙の切れ端には、施設内の簡易な地図と、唯一扉が半開きになる「第二管理門」の記し。
文字は使えない。すべて、矢印と記号で描かれていた。
渡すのは、直接ではない。
洗濯場の裏、床板の隙間、壊れた棚の裏側。
合図の場所に忍ばせ、決められた時間に受け取る。
“誰がどこまで理解しているか”をキサラギは一人ずつ確認した。
兆は、紙を手にして無言でうなずいた。
焔羅は、読み終えてから小さく呟いた。
「…リスクは、あるな」
キサラギは目を細めて答えた。
「あぁ、全員無事でいられるかは分からない、けどやらなければ全員死ぬのを待つだけだ」
その夜、いつもより風が強く、外の錠前がカランと鳴った。
まるで、脱出の鐘が遠くで鳴ったかのようだった。
***
その日の夕方、空はやけに赤かった。
キサラギは、予定通りに仲間の子どもたちに最終確認を終えていた。
ルートの再確認。合図の意味。逃げる順番。落ち合う場所。
全員、目で応えた。声を出す必要もなかった。
だが、その空気を断ち切るように、スピーカーが軋んだ。
「——処置室へ、番号“87”」
静まり返った部屋に、数秒の沈黙。
そして、兆が、ゆっくりと立ち上がった。
「今、なんで……」
焔羅がかすれた声を漏らす。
兆は何も言わず、ただこちらを見た。
目に宿ったあの光は、消えていなかった。
それでも、その足取りは、まるで処刑台へ向かうように重かった。
キサラギが立ち上がろうとした瞬間、兆が首を振る。
職員に連れられ、キサラギ達の横を通り過ぎた時だった。
「——迷うな、やれ」
キサラギ達にしか聞こえないくらいの小さな声。しかし強い言葉。
静かに、兆は扉の向こうへ消えた。
残された空気は、あまりにも冷たかった。
焔羅はやり場のない怒りに拳を握りしめた。
「あいつ、戻れなかったらどうすんだよ……」
キサラギは何も答えられなかった。
手の中の小さな地図が、しわくちゃになっていた。
処置室の鍵が閉まる音が、遠くで響いた。
その夜、誰も眠れなかった。




