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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第八章 責任のありどころ
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番号87が残したもの

 作業が終わった部屋に、重たい空気が流れていた。

 金属の擦れる音も、囁き声さえもなく、子どもたちは各々の床に沈み込んでいた。

 そんな沈黙を割って、扉が軋むように開く。

 そこに立っていたのは、兆だった。

 肩で息をし、服は汚れ、手首には擦れた痕。

 片目は腫れて閉じ、唇の端から乾いた血が覗いていた。

 誰も、声をかけなかった。

 見てはいけないものを見るように、うつむく者。

 そっと背を向ける者。

 ただ一人、キサラギだけがその姿を見つめた。

 兆と視線が交差する。

 一瞬、兆の片目にわずかな熱が灯る。

 その目だけが、まだ死んでいなかった。

 ゆっくりと彼は視線を外し、誰とも目を合わせぬまま、

 寝床に倒れ込むように横たわる。

 その背中に、キサラギが低く言葉を投げる。

「…見ただろ。俺たちが最終的に行きつく場所」

 兆は、顔を向けずに応える。

「ああ。俺はあそこに行くのも、近いだろうな」

 その言葉に、焔羅が顔を伏せた。

 ユラは眠っているように見えたが、布団の中で指先が小さく震えていた。

 キサラギは、手に握ったままだった紙切れを見つめる。

 皺だらけになったその紙には、幼い文字で書かれた脱出の計画があった。

 誰かが行動を起こさなければ、何も変わらない。

 壊れる順番を待つだけの日々に、終わりを告げるには——。

 キサラギは、はっきりと口にした。

「……全員で、ここから出よう」


***

 朝の作業が始まる前のわずかな時間。

 薄明かりの差す部屋の隅で、キサラギは兆のそばに腰を下ろした。

「なあ、見張りの交代。……何分だった?」

 兆は一瞬、目を細めてキサラギを見た。

 キサラギは、布の中に隠していた小さな紙片を広げる。

 粗末な鉛筆で描かれた、幼い筆跡の地図。

「昨日、お前が“戻ってきた時間”から逆算して、見張りの間隔を調べた。交代は、きっかり九分ごと。昼と夜では違うけど……明け方だけは例外だった。十一分、間が空く」

 兆は黙って、その紙に目を落とす。

 キサラギは続けた。

「俺、ここに来てからずっと考えてた。誰がどこで動いてるか、見張りの人数、扉の鍵。作業の行き帰り、どのときが一番見落とされるか。……全部、見てた」

 兆が小さく息を吐いた。

「本気か」

「ああ」

 それから、キサラギは順に数人の子どもたちへ声をかけていった。

 夜、食事後の混乱のすきに、作業中に渡した紙切れ。

 焔羅にも、ユラにも、目を見て、短く告げた。

 そして、作業の終わり。

 皆が静かに、そっと寝床へ戻る時間。

 キサラギは焔羅と兆のそばでつぶやくように言った。

「“誰かが選ばれる”その前に、俺たちが選ぶんだ」

 焔羅が目を伏せたまま、唇をかみしめる。

 兆は、わずかに肩を震わせて笑った。

「選ばれる前に、俺たちが選ぶ、か。……悪くないな」


***

 脱出を決行するには、全員の「静かに」「すばやく」「迷わず」動く力が必要だった。

 だが、この施設でそんな訓練は許されない。全ては日常に溶け込ませる必要があった。

 キサラギは、作業中のちょっとした移動や物の受け渡し、さらには休憩時の並び替えの中に“訓練”を紛れ込ませていった。

 たとえば、床に落ちた道具を拾うフリをして、床のタイルの「何枚目で角を曲がるか」を共有する。

 次は、作業場から食堂に移動する際の歩数を数え、特定のタイミングで「手を後ろに組む」合図を送り合う。

 最初は戸惑っていた子どもたちも、次第にコツをつかんでいく。

 焔羅が気づいて、声を低くして言った。

「……これって、バレない?」

「バレないようにやるんだよ」

 キサラギは目を逸らさずに返す。


「バレても、“遊んでただけ”って言えるようにしてある」

 焔羅は息をのみ、小さく笑った。キサラギは本当だと思わせる力がある。

 ***

 夜。作業が終わり、各自の部屋へ戻る道すがら。

 物音ひとつ立てぬ暗い廊下で、キサラギは“合図”を渡していく。

 紙の切れ端には、施設内の簡易な地図と、唯一扉が半開きになる「第二管理門」の記し。

 文字は使えない。すべて、矢印と記号で描かれていた。

 渡すのは、直接ではない。

 洗濯場の裏、床板の隙間、壊れた棚の裏側。

 合図の場所に忍ばせ、決められた時間に受け取る。

 “誰がどこまで理解しているか”をキサラギは一人ずつ確認した。

 兆は、紙を手にして無言でうなずいた。

 焔羅は、読み終えてから小さく呟いた。

「…リスクは、あるな」

 キサラギは目を細めて答えた。

「あぁ、全員無事でいられるかは分からない、けどやらなければ全員死ぬのを待つだけだ」

 その夜、いつもより風が強く、外の錠前がカランと鳴った。

 まるで、脱出の鐘が遠くで鳴ったかのようだった。


***

 その日の夕方、空はやけに赤かった。

 キサラギは、予定通りに仲間の子どもたちに最終確認を終えていた。

 ルートの再確認。合図の意味。逃げる順番。落ち合う場所。

 全員、目で応えた。声を出す必要もなかった。

 だが、その空気を断ち切るように、スピーカーが軋んだ。

「——処置室へ、番号“87”」

 静まり返った部屋に、数秒の沈黙。

 そして、兆が、ゆっくりと立ち上がった。

「今、なんで……」

 焔羅がかすれた声を漏らす。

 兆は何も言わず、ただこちらを見た。

 目に宿ったあの光は、消えていなかった。

 それでも、その足取りは、まるで処刑台へ向かうように重かった。

 キサラギが立ち上がろうとした瞬間、兆が首を振る。

 職員に連れられ、キサラギ達の横を通り過ぎた時だった。

「——迷うな、やれ」

 キサラギ達にしか聞こえないくらいの小さな声。しかし強い言葉。

 静かに、兆は扉の向こうへ消えた。

 残された空気は、あまりにも冷たかった。

 焔羅はやり場のない怒りに拳を握りしめた。

「あいつ、戻れなかったらどうすんだよ……」

 キサラギは何も答えられなかった。

 手の中の小さな地図が、しわくちゃになっていた。

 処置室の鍵が閉まる音が、遠くで響いた。

 その夜、誰も眠れなかった。



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