生贄の決意
その家には、もう名前だけが残っていた。
かつては栄えた貴族の末裔。今では名簿の片隅に載るだけの存在だった。
屋敷は傾き、客間には鼠が這う。絨毯には染みが広がり、呼吸のたびに埃が舞った。
それでも家族は、毎週日曜には食卓へ揃った。飢えた顔で、沈黙の中にスプーンを動かす。
「……もう、こうするしか術がない」
祖父の声は、もはや囁きに近かった。
その言葉に、長兄が眉をひそめ、次姉が目を伏せる。誰も、言葉を継がなかった。
この家を“存続”させるには、誰かひとり、名を手放して“向こう”へ行かねばならない。
それは、とうに決まっていたことだった。ただ、誰が“その役”を引き受けるかだけが、宙ぶらりんのまま残されていた。
キサラギは、静かに手を上げた。
石を持たない自分が、この役には最もふさわしい——
その空気を、誰もが無言で受け入れていた。
椅子の軋む音が響く。数秒の沈黙。
末弟を見た父が、かすかにうなずいた。
「……すまない。本当に」
誰も、止めようとはしなかった。
誰の目にも、「そうなると思っていた」という諦めが滲んでいた。
そして翌日、彼は“名前”を剥がされた。
祖母から受け継いだ中間名も、家の印章も、胸元の銀のブローチも。
すべてを置いて、彼は施設へと向かった。
——必要とされる場所は、どこにもなかった。
***
金属と汗のにおいが満ちた部屋に、ひとつ、乾いた咳が落ちた。
錆びた空気の中で、誰もが下を向いていた。
打ち続けられるリズム。押し黙った作業。キサラギは、黙々と作業を続ける。
カラン。
鈍い音が、ベルトの脇から響いた。
ユラだった。
細い腕で必死に資材を運んでいたが、足元がふらついて、金属片を床に落とした。
ピクリと周囲の肩が動く。職員の足音がゆっくりと近づいてきた。
「おい、お前、何度目だ?」
背後から、低く冷たい声が落ちた。ユラは反射的に首をすくめたが、もう動けなかった。
「立て。拾え。できねぇなら──そうだな、お前には別の仕事をしてもらうか。お前みたいな小さいのが好きなマニアもいる」
にやりと笑う職員の視線。焔羅は咄嗟にユラの前へ出た。
「…身体が弱いんだ、やめてくれ」
焔羅は、ユラに下劣な視線を見せぬよう、自分の目でそれを受け止める。
「“あいつ”を折檻部屋に連れていかれたくないなら、それなりの誠意を見せないとな」
職員は、目の前に小さな資材を放った。
「今日から、お前は犬だ、拾え。犬らしく、な」
場の空気が凍りつく。焔羅は足を止めたまま、拳を握りしめた。
喉が震える。
視線の先で、ユラが涙を溜めながら、首を振っていた。
笑っている者はいない。皆、目を逸らしていた。
キサラギだけが、その光景から目を逸らせなかった。
焔羅が、膝をつきかけた——そのときだった。
瞼の裏に、兄の言葉が蘇る。
『俺なんかと違って、本当にすごいよ』
『声を上げられる、お前はかっこいい』
──だめだ、こんなこと、あってはならない。
キサラギはゆっくりと顔を上げた。
***
施設に送られる前夜。灯りの消えた寝室で、静かに扉が開いた。
入ってきたのは長兄だった。気弱で、いつも人の後ろに隠れるような兄。
キサラギは、机のデスクライトを点ける。
「…なに?」
静かな問いかけに、兄は申し訳なさそうに言った。
「…やっぱり、お前はすごいよ」
キサラギは、何も答えなかった。心が、かすかにざわめいた。
「俺、ああいったときにいつも何も言えなくなるんだ、怖くて」
——違う。皆一緒だ。
「でもキサラギはいつも誰かのために声を上げる」
——俺だってこんなこと言いたくない。俺だって怖い。
「俺なんかと違って…」
——言わないだけじゃないか。言ってくれないだけじゃないか。
「…本当にすごい」
——やめろ、こんな生贄みたいなものを美化しないでくれ。
「かっこいいよ」
——それで、終わりにしないでくれ。
「…ほんとうにごめん」
キサラギは何も言わず、目も合わせなかった。
兄は静かに扉を閉めた。
——俺は、絶対に。あんたらみたいにはならない。
***
焔羅は、膝をつきかけた——そのとき。
資材の落ちた音とともに、作業場がざわめいた。
中央にキサラギが立っていた。傷跡の走る顔には、まだ新しい包帯。
「……すみません、倒してしまいました」
職員を睨むその目は、冷えた刃のように鋭い。
「…お前は、余程折檻部屋が好きなように見える」
職員が苛立ちを露わにした。
「俺は、あんたたちみたいにはならない」
殴られるのはわかっていた。引きずられるのも、わかっていた。
それでも背筋を伸ばして、真正面から職員を睨み返した。
数秒の沈黙ののち、無言で腕を掴まれる。
「キサラギ、だめだ…」
キサラギは焔羅の方をみる。
「……お前は、どうしようもないやつなんかじゃない。誰かのために声を上げられる」
焔羅の瞳が揺れる。
「だから、俺も……声を上げられたんだ」
キサラギの腕が掴まれ、扉の向こうへ引きずられていく。
***
「ほんとに物覚えの悪いガキだな」
職員の言葉に、キサラギはただ黙って歩く。
——あの日以来、彼は何度も折檻部屋へと連れていかれるようになった。
誰かが“選ばれ”そうになるたび、代わりに前へ出た。
そのたびに、見たくないものを、見た。
子どもの泣き声。血の跡。兆の拷問。
けれど同時に、見張りの交代時間。施設の構造。兆が生かされている理由——それも知った。
(……この施設には、隙がある)
(まだ終わってない。絶望なんて、してやらない)
ボロボロになりながらも、キサラギは心のどこかで繰り返す。
——ここを、“出口”にする。




