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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第八章 責任のありどころ
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生贄の決意

  その家には、もう名前だけが残っていた。

 かつては栄えた貴族の末裔。今では名簿の片隅に載るだけの存在だった。

 屋敷は傾き、客間には鼠が這う。絨毯には染みが広がり、呼吸のたびに埃が舞った。

 それでも家族は、毎週日曜には食卓へ揃った。飢えた顔で、沈黙の中にスプーンを動かす。

「……もう、こうするしか術がない」

 祖父の声は、もはや囁きに近かった。

 その言葉に、長兄が眉をひそめ、次姉が目を伏せる。誰も、言葉を継がなかった。

 この家を“存続”させるには、誰かひとり、名を手放して“向こう”へ行かねばならない。

 それは、とうに決まっていたことだった。ただ、誰が“その役”を引き受けるかだけが、宙ぶらりんのまま残されていた。

 キサラギは、静かに手を上げた。

 石を持たない自分が、この役には最もふさわしい——

 その空気を、誰もが無言で受け入れていた。

 椅子の軋む音が響く。数秒の沈黙。

 末弟を見た父が、かすかにうなずいた。

「……すまない。本当に」

 誰も、止めようとはしなかった。

 誰の目にも、「そうなると思っていた」という諦めが滲んでいた。

 そして翌日、彼は“名前”を剥がされた。

 祖母から受け継いだ中間名も、家の印章も、胸元の銀のブローチも。

 すべてを置いて、彼は施設へと向かった。

 ——必要とされる場所は、どこにもなかった。


***


 金属と汗のにおいが満ちた部屋に、ひとつ、乾いた咳が落ちた。

 錆びた空気の中で、誰もが下を向いていた。

 打ち続けられるリズム。押し黙った作業。キサラギは、黙々と作業を続ける。

 カラン。

 鈍い音が、ベルトの脇から響いた。

 ユラだった。

 細い腕で必死に資材を運んでいたが、足元がふらついて、金属片を床に落とした。

 ピクリと周囲の肩が動く。職員の足音がゆっくりと近づいてきた。

 「おい、お前、何度目だ?」

  背後から、低く冷たい声が落ちた。ユラは反射的に首をすくめたが、もう動けなかった。

 「立て。拾え。できねぇなら──そうだな、お前には別の仕事をしてもらうか。お前みたいな小さいのが好きなマニアもいる」

 にやりと笑う職員の視線。焔羅は咄嗟にユラの前へ出た。

「…身体が弱いんだ、やめてくれ」

 焔羅は、ユラに下劣な視線を見せぬよう、自分の目でそれを受け止める。

「“あいつ”を折檻部屋に連れていかれたくないなら、それなりの誠意を見せないとな」

 職員は、目の前に小さな資材を放った。

「今日から、お前は犬だ、拾え。犬らしく、な」

 場の空気が凍りつく。焔羅は足を止めたまま、拳を握りしめた。

 喉が震える。

 視線の先で、ユラが涙を溜めながら、首を振っていた。

 笑っている者はいない。皆、目を逸らしていた。

 キサラギだけが、その光景から目を逸らせなかった。

 焔羅が、膝をつきかけた——そのときだった。

 瞼の裏に、兄の言葉が蘇る。

『俺なんかと違って、本当にすごいよ』

『声を上げられる、お前はかっこいい』

 ──だめだ、こんなこと、あってはならない。

 キサラギはゆっくりと顔を上げた。

***

 施設に送られる前夜。灯りの消えた寝室で、静かに扉が開いた。

 入ってきたのは長兄だった。気弱で、いつも人の後ろに隠れるような兄。

 キサラギは、机のデスクライトを点ける。

「…なに?」

 静かな問いかけに、兄は申し訳なさそうに言った。

「…やっぱり、お前はすごいよ」

 キサラギは、何も答えなかった。心が、かすかにざわめいた。

「俺、ああいったときにいつも何も言えなくなるんだ、怖くて」

 ——違う。皆一緒だ。

「でもキサラギはいつも誰かのために声を上げる」

 ——俺だってこんなこと言いたくない。俺だって怖い。

「俺なんかと違って…」

 ——言わないだけじゃないか。言ってくれないだけじゃないか。

「…本当にすごい」

 ——やめろ、こんな生贄みたいなものを美化しないでくれ。

「かっこいいよ」

 ——それで、終わりにしないでくれ。

「…ほんとうにごめん」

 キサラギは何も言わず、目も合わせなかった。

 兄は静かに扉を閉めた。

 ——俺は、絶対に。あんたらみたいにはならない。


***

 焔羅は、膝をつきかけた——そのとき。

 資材の落ちた音とともに、作業場がざわめいた。

 中央にキサラギが立っていた。傷跡の走る顔には、まだ新しい包帯。

「……すみません、倒してしまいました」

 職員を睨むその目は、冷えた刃のように鋭い。

「…お前は、余程折檻部屋が好きなように見える」

 職員が苛立ちを露わにした。

「俺は、あんたたちみたいにはならない」

 殴られるのはわかっていた。引きずられるのも、わかっていた。

 それでも背筋を伸ばして、真正面から職員を睨み返した。

 数秒の沈黙ののち、無言で腕を掴まれる。

「キサラギ、だめだ…」

 キサラギは焔羅の方をみる。

「……お前は、どうしようもないやつなんかじゃない。誰かのために声を上げられる」

 焔羅の瞳が揺れる。

「だから、俺も……声を上げられたんだ」

 キサラギの腕が掴まれ、扉の向こうへ引きずられていく。


***

「ほんとに物覚えの悪いガキだな」

 職員の言葉に、キサラギはただ黙って歩く。

  ——あの日以来、彼は何度も折檻部屋へと連れていかれるようになった。

 誰かが“選ばれ”そうになるたび、代わりに前へ出た。

 そのたびに、見たくないものを、見た。

 子どもの泣き声。血の跡。兆の拷問。

 けれど同時に、見張りの交代時間。施設の構造。兆が生かされている理由——それも知った。

(……この施設には、隙がある)

(まだ終わってない。絶望なんて、してやらない)

 ボロボロになりながらも、キサラギは心のどこかで繰り返す。


 ——ここを、“出口”にする。


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