表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第八章 責任のありどころ
86/174

雨音の子守唄

 その家は、雨漏りの音が子守唄だった。

 壁の色はとうに褪せ、窓は割れたまま新聞紙でふさがれている。昼間でも薄暗くて、焔羅はいつも、ユラが風邪をひかないかばかり気にしていた。

「お兄ちゃん、またごはん抜いてるでしょ」

 小さなユラが、ほつれた毛布を抱きしめながら言った。

「ちがうよ、腹減ってないだけ」

 焔羅はいつもそう言って笑った。

 水道はもう止まっていて、風呂は雨の日にタライで済ませた。それでも、二人は笑い合っていた。そこが、世界のすべてだった。

 ——あの夜が来るまでは。

***

 電気もつかない家で二人は朝を来るのを待った。

 壁はカビに覆われ、床板はめくれ、外の風が隙間からしゅうしゅうと吹き込んでくる。

 それでもユラは、すこし大きめの服の袖を引きずりながら、笑って焔羅の隣に座った。

「今日も、お兄ちゃんがいちばん早く帰ってきたね」

 笑顔だった。焔羅は、笑顔をつくれなかった。

 昼間から酒をあおる父親。姿を消した母。

 焔羅は空き缶や廃材を拾い、売って小銭を稼ぐ毎日。

 ユラは家で炊事や洗濯をしていた。

 凍える夜も、湿った布団に身を寄せてしのいだ。

「ねえ、お兄ちゃん」

「……ん」

「もう少し大きくなったら、ユラも働くね、それで屋根のある家に一緒に住もう」

「夢があるな……でも、もう少し先の話かな」

 焔羅は顔を綻ばせ、ユラを撫でる。

 そのときだった。

 ——ドン、ドン。

 玄関が激しく蹴られる音。

「……!」

 焔羅はとっさにユラを押し入れの奥へ押し込み、自分もその中へ潜り込む。

 鍵なんてとっくに壊れていた。ただの板一枚が、外の世界との境だった。

「金、用意できたか? おい、聞いてんのか、てめえ——」

 乱暴な声。

 その奥に、震えるような、情けない声が混じっていた。

 ——父親の声だ。

「ま、待ってくれ……もう少しだけ……頼む……」

 乾いた音。殴打の衝撃。呻き声。

 焔羅はユラを抱きしめ、耳を塞がせる。

 鼓動が煩い。嫌な予感が止まらない。

「そういや……ガキもいたな、ここには」

 その声に、場の空気が変わった。

 部屋の中を探る気配。床を踏み鳴らし、ひとつずつ襖が開けられていく。

 そして、唐突に隣の押入れの扉が蹴破られる。ゆっくりと引き抜かれる足。数秒後薄暗がりの向こうから覗いた男の顔。下劣な笑みが、静かに歪んだ。

「…みぃつけた」

 震える妹を背に庇う。

「こいつらも、“資産”として数えてやれ」

 その声に、焔羅の思考が白く弾けた。

 飛びかかろうとした瞬間、頭を殴られ、床に叩きつけられる。

 呼吸ができない。誰かに首を押さえつけられている。

「お兄ちゃん……?」

 ユラの小さな声。焔羅の服の裾を、必死に掴んでいた。

「こっちのが、使えそうだな」

「やめろって……! やめろッ!!」

 怒鳴った声は、床に吸われていく。

「とっくに“寄付”は決まってんだよ。お前の親父がな」

 男が焔羅の顔を掴み、吐き捨てるように言った。

 焔羅は父を見た。

 視線がぶつかる——が、父は目を逸らした。見ようともしなかった。

 ——ああ。売られたんだ。

 その瞬間の記憶は断片的だ。

 引き剥がされる妹。離れまいと必死に掴む小さな手。

 最後に、ユラが言った言葉だけが、耳に焼きついている。

「……大丈夫、だよ」

 ——あのときも、ユラは笑っていた。

***

 いつもは騒がしいはずの配膳の時間が、今日は水底のように静まり返っていた。

 誰一人、椅子を引く音すら立てたくなかった。

 毎晩のように“選ばれる”子ども。

 兆が、戻ってこないこと。

 折檻室から、血まみれで戻ったキサラギの姿。

 誰の心にも、それは鋭く刺さったままだった。

 焔羅は、冷えたパンを手にしたまま、ずっと動けずにいた。

 目の前のスープからはもう湯気も出ていない。

 隣のユラが、小さくささやく。

「……あの人、帰ってこないの?」

 焔羅は、何も言えなかった。

 喉が塞がれたように、言葉が出なかった。

 兆の名が呼ばれた瞬間、自分の胸を突いた感情。

 それは怒りでも悲しみでもない。——安堵だった。

 ユラじゃなかった。

 それだけで、自分は、救われたと思ってしまった。

 その思いを、いまもどこかで抱えたまま、生きている。

 見ないふりをして、喉の奥に押し込んで。

 忘れたふりをして——忘れられない。

「……ユラ、食えよ」

 絞り出すような声は、あまりにかすかで、届いたかもわからない。

 ユラは気づかないふりをして、パンの端を指でちぎった。

 何も言わず、じっと、俯いたまま。

 焔羅の脳裏に、父の目がよぎる。

 視線がぶつかった瞬間、すぐに逸らされた、あの目。

 ——見ないことで、逃げていた。

 あの時の父も、自分も。

 同じだ。

 情けなくて、どうしようもなく、同じだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ