雨音の子守唄
その家は、雨漏りの音が子守唄だった。
壁の色はとうに褪せ、窓は割れたまま新聞紙でふさがれている。昼間でも薄暗くて、焔羅はいつも、ユラが風邪をひかないかばかり気にしていた。
「お兄ちゃん、またごはん抜いてるでしょ」
小さなユラが、ほつれた毛布を抱きしめながら言った。
「ちがうよ、腹減ってないだけ」
焔羅はいつもそう言って笑った。
水道はもう止まっていて、風呂は雨の日にタライで済ませた。それでも、二人は笑い合っていた。そこが、世界のすべてだった。
——あの夜が来るまでは。
***
電気もつかない家で二人は朝を来るのを待った。
壁はカビに覆われ、床板はめくれ、外の風が隙間からしゅうしゅうと吹き込んでくる。
それでもユラは、すこし大きめの服の袖を引きずりながら、笑って焔羅の隣に座った。
「今日も、お兄ちゃんがいちばん早く帰ってきたね」
笑顔だった。焔羅は、笑顔をつくれなかった。
昼間から酒をあおる父親。姿を消した母。
焔羅は空き缶や廃材を拾い、売って小銭を稼ぐ毎日。
ユラは家で炊事や洗濯をしていた。
凍える夜も、湿った布団に身を寄せてしのいだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……ん」
「もう少し大きくなったら、ユラも働くね、それで屋根のある家に一緒に住もう」
「夢があるな……でも、もう少し先の話かな」
焔羅は顔を綻ばせ、ユラを撫でる。
そのときだった。
——ドン、ドン。
玄関が激しく蹴られる音。
「……!」
焔羅はとっさにユラを押し入れの奥へ押し込み、自分もその中へ潜り込む。
鍵なんてとっくに壊れていた。ただの板一枚が、外の世界との境だった。
「金、用意できたか? おい、聞いてんのか、てめえ——」
乱暴な声。
その奥に、震えるような、情けない声が混じっていた。
——父親の声だ。
「ま、待ってくれ……もう少しだけ……頼む……」
乾いた音。殴打の衝撃。呻き声。
焔羅はユラを抱きしめ、耳を塞がせる。
鼓動が煩い。嫌な予感が止まらない。
「そういや……ガキもいたな、ここには」
その声に、場の空気が変わった。
部屋の中を探る気配。床を踏み鳴らし、ひとつずつ襖が開けられていく。
そして、唐突に隣の押入れの扉が蹴破られる。ゆっくりと引き抜かれる足。数秒後薄暗がりの向こうから覗いた男の顔。下劣な笑みが、静かに歪んだ。
「…みぃつけた」
震える妹を背に庇う。
「こいつらも、“資産”として数えてやれ」
その声に、焔羅の思考が白く弾けた。
飛びかかろうとした瞬間、頭を殴られ、床に叩きつけられる。
呼吸ができない。誰かに首を押さえつけられている。
「お兄ちゃん……?」
ユラの小さな声。焔羅の服の裾を、必死に掴んでいた。
「こっちのが、使えそうだな」
「やめろって……! やめろッ!!」
怒鳴った声は、床に吸われていく。
「とっくに“寄付”は決まってんだよ。お前の親父がな」
男が焔羅の顔を掴み、吐き捨てるように言った。
焔羅は父を見た。
視線がぶつかる——が、父は目を逸らした。見ようともしなかった。
——ああ。売られたんだ。
その瞬間の記憶は断片的だ。
引き剥がされる妹。離れまいと必死に掴む小さな手。
最後に、ユラが言った言葉だけが、耳に焼きついている。
「……大丈夫、だよ」
——あのときも、ユラは笑っていた。
***
いつもは騒がしいはずの配膳の時間が、今日は水底のように静まり返っていた。
誰一人、椅子を引く音すら立てたくなかった。
毎晩のように“選ばれる”子ども。
兆が、戻ってこないこと。
折檻室から、血まみれで戻ったキサラギの姿。
誰の心にも、それは鋭く刺さったままだった。
焔羅は、冷えたパンを手にしたまま、ずっと動けずにいた。
目の前のスープからはもう湯気も出ていない。
隣のユラが、小さくささやく。
「……あの人、帰ってこないの?」
焔羅は、何も言えなかった。
喉が塞がれたように、言葉が出なかった。
兆の名が呼ばれた瞬間、自分の胸を突いた感情。
それは怒りでも悲しみでもない。——安堵だった。
ユラじゃなかった。
それだけで、自分は、救われたと思ってしまった。
その思いを、いまもどこかで抱えたまま、生きている。
見ないふりをして、喉の奥に押し込んで。
忘れたふりをして——忘れられない。
「……ユラ、食えよ」
絞り出すような声は、あまりにかすかで、届いたかもわからない。
ユラは気づかないふりをして、パンの端を指でちぎった。
何も言わず、じっと、俯いたまま。
焔羅の脳裏に、父の目がよぎる。
視線がぶつかった瞬間、すぐに逸らされた、あの目。
——見ないことで、逃げていた。
あの時の父も、自分も。
同じだ。
情けなくて、どうしようもなく、同じだった。




