獣の名を借りて
時計の針が、無機質な音を刻んでいた。
書類が積み上がったままの机に、渋い色のスーツを着た男たちが数人立っている。軍上層部、評議会、技術局、それぞれの権限を背負った者たち。
キサラギは椅子に深く腰かけ、右手で顎を支えながら黙っていた。
「……君の部隊について、少々話があってね」
最初に口を開いたのは、評議会の老いた男だった。笑ってはいるが、声には棘がある。
「実績は申し分ない。しかし、外部の目というのは、なにかと敏感でね。君の調査員たちは――少々、型破りすぎるようだ。『刺青持ちが前線にいる』などという声も、ちらほらと」
「“罪人の印が四つ”だなんて、“人を殺さねば刻まれない”だとか……ねえ」
軍の女技官が言い添える。口紅の赤がやけに目についた。
キサラギはしばし黙っていたが、やがて口を開く。
「それが“正義の形”というなら、そちらで好きに定義してくれて構いません」
視線は合わせず、ただ窓の外を見たまま。
「――結果を見てください。焔羅は、誰よりも任務を遂行している。少なくとも、あなた方の派遣部隊よりは」
「……強いだけでは、足りないんですよ、キサラギ君」
誰かが低く呟いた。
「国は“見せかけ”にも気を配らねばならない」
キサラギは肩をすくめる。
「では、罪の印を貼り替えれば済む話ですか? 一枚皮を剥がせば、あなたがたの中にも似たような傷跡の一つや二つ、あるのでは?」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
「……我々に対して、口の利き方を考えたほうがいい。こちらには、法も秩序も関係ない猛獣がたくさんいる」
キサラギの冷たい声に男たちは息を飲む。
「”今”は、気まぐれで飼われてやってるが、いつ気が変わるか、わからないんでね」
***
扉の外で、その会話を無言で聞いていた男がいた。焔羅だった。
報告書を提出しに来た矢先のことだった。
(お偉いさん来るなら、ひと言くらい言えよな)
ぼんやりそう考えていると、背後にふわりと気配が近づいた。
振り向かずともわかる。殺気を隠しきれない、あの足音。
「聞こえた?」
焔羅の問いには答えず、紫は扉の前に進み出る。腰に差した小刀へと手が伸びる。
「ストップ、ストップ、ウェイトよ。紫ちゃん」
焔羅は紫を抱えるように静止する。
「離せ。あいつらを――ころす」
低く、抑えた声。けれど、その瞳には迷いがなかった。
「いやぁ、紫ちゃんも若いね、なんか」
「…お前から、ころすか?」
「え?元も子もなくない?」
俺のために怒ってたんじゃないの?とほんの少し涙目になる焔羅に、紫は軽く小刀の切っ先を向けた。
「…お前より、私のほうが」
紫が何かを言いかけたとき、執務室の扉が開いた。
中から出てきた男たちが、焔羅の刺青に軽蔑の視線を投げる。
「俗物の集まりだな」
紫の瞳が、ほんのり紫色に光る。鋭い視線に気圧され、男たちは言葉もなく退散していく。
「では任務のほう、くれぐれも頼むよ」
逃げるように去っていく背中に、焔羅がぽつりと呟く。
「…キサラギもあんな態度取るとまた嫌われちゃうよー」
「嫌われることも大事なんだよ」
焔羅のぼやきに答えるように執務室の扉があく。
「……そんなことより、焔羅。報告書」
「もうちょっと、慰めてくれてもよくない?」
軽口を叩く焔羅に、キサラギは珍しく表情をゆるめた。
けれどその顔には、どこか疲れのようなものが滲んでいた。
ふと、廊下の窓の外に視線を向ける。
青空に雲が流れている。
――まるで、過去の亡霊たちが形を変えて漂っているようだった。
(……背負う、責任が俺にはある)
だからこそ、誰よりも冷たく、誰よりも正しくなければならない。
誰かが「獣」のふりをしなければ、仲間は生き残れないのだ。
***
消灯時間を過ぎた冷たい廊下。
地下にあるその棟では、鉄の扉の隙間からわずかに光が漏れていた。
幼いキサラギは、隠していた小さな紙切れを手渡していた。焔羅、兆、そして数人の少年少女たち。
紙には、簡素な地図と、脱出ルート。そして「決行:明後日番」と記されていた。
「止まってたら、誰かが順番に壊されていくだけだ」
キサラギの声は低く、けれど一切の迷いがなかった。
壁にもたれた兆が、乾いた声で呟く。
「失敗したら、拷問台、直行だな」
その隣で、赤い髪の少女が小さく震えていた。
焔羅が静かにその頭をなで、ふっと笑って言った。
「大丈夫。兄ちゃんが、何とかするから」
少女は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
キサラギは一同を見回す。まるで自分に言い聞かせるように、はっきりと口を開く。
「俺が決めた。俺が言い出した。……何かあったら、全部、俺のせいにしていい」
その言葉に、一瞬だけ場が静まった。遠くで誰かがすすり泣く声。小さく、こぶしを握る音。
そしてキサラギが続けた。
「明日の明け方。第二管理門が半開きになる。見張りが交代する間に、死角ができる。そこを狙う」
息をひそめるような夜の気配が、冷たい鉄の壁をすり抜けて、彼らの胸を締めつける。
誰も声を出さなかった。けれど、その場にいた全員がわかっていた。
今ここで動かなければ、誰かが次に壊れる。
キサラギは目を閉じ、深く呼吸をした。
遠くで、看守の足音が響いている。
(大丈夫。間に合う。俺が全部、引き受ける)
――それが、キサラギという人間の始まりだった。




