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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第二章 彫刻家の孤独
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夢をみる

 むせかえるほどの石膏の匂いが、大きなビニールハウスの中に舞っていた。

 空間の中央にそびえ立つ巨大な塊が、音もなく崩れ落ちていく。

 あれほどなめらかだった表面に、ひびが走る。

 パリン、と音がして——

 芯に埋め込まれていた黒い石が、むきだしになる。

 ――間に合わなかった。

 彫刻の前に立つ、短髪で美しい女はただ静かに、それを見つめていた。

 表情は一切崩れていない。僕はこの顔を知っている。

 あの諦めのような、慈しみのような、どうしようもない表情を。

 女はゆっくりとこちらに視線を向けた。

 真っ赤に塗られた唇が、音もなく開く。

「あなたが見ているのは、私じゃない。あなたが信じたい“女神”でしかないわ」

 次の瞬間、目の前にいたはずの女が、ツインテールの少女に変わっていた。

***

 ひどい夢から目が覚めた。

 額には汗が伝い、胸が上下していた。

 寝台の脇で、ウィッグがずれている。

 鏡に映った自分は「ニア」ではなかった。

 いや、こちらが本当の自分なのだと、彼は一番知っている。

 誰にも見せたくない姿。

 描くときだけの、自分。

 彼は静かにウィッグを外し、黒いワンピースを脱ぎ捨て、パチンと机のライトを点ける。

 やわらかい黒い布の下には肌着越しにもわかる薄い胸板が隠れていた。

 スケッチブックを開き、震える指で鉛筆を握った。

 カリ… カリ…。

 白い紙の上に、彫刻が壊れる瞬間を描く。

 これは“見えてしまったもの”の記録。

 彼にとって、それは預言であり、呪いでもある。

 そのとき。

 廊下で微かな足音がした。

「……ニア?」

 ノックの音もなく、扉が少しだけ開いた。

 その隙間から、アサヒとレイが覗き込んだ。

 ちょうど、肌着のまま、肩までの髪をさらした彼が絵を描いている。

 その瞬間だった。

 数秒の沈黙の後、目が合った。

 視線が、交差する。

「…男の子?」

 アサヒのその言葉にニアの肩が、ビクリと跳ねた。

 顔に全身の血が集まるのを感じる。

「……! みな……見ないで……!」

 叫び声のような声と共に、とっさに近くにあったブランケットを頭からかぶる。

 スケッチブックも、鉛筆も、すべて倒れ、床に転がった。

「で…てって…! …出、てって!!」

 羞恥のあまり言葉がうまく発せなかった。

「ごめん、ほんと、ごめん……」

 アサヒはあまりの出来事にかすれた声で謝ることしかできなかった。

 レイはそっとブランケットの上から、ニアを撫でる。

「……大丈夫、変じゃないよ」

 レイの落ち着いたトーンに少し安堵し、握りしめていたブランケットの力が緩む。

 すると背後の暗がりから、長身の影が現れる。キサラギだった。

「騒がしいな。……アサヒ、レイ、戻れ」

 静かに言って、近づき、乱れたウィッグを拾い上げ、

 それをそっと、震えるニアの隣に置いた。

「ニア。……今は、もう描かなくていい」

 ニアは顔を伏せたまま、肩だけが小さく揺れていた。

***

「どんな状況であれ、あいつの部屋には勝手に入るな」

 ニアの部屋から出てきたキサラギは開口一番言い放った。

「辛そうな声がきこえたから…」

「わかった」

 困惑しながら言葉を紡ぐアサヒの言葉を遮り、レイは答えた。

 しばらくするとニアは、いつも通りスケッチブックを抱えて、無言でキサラギの元に現れた。

 その表情にはいつもの無口さとは違う、わずかな緊張と困惑がにじんでいた。

「……また見たんだな?」

 キサラギは、スケッチブックを差し出された瞬間に察した。

 ページをめくると、そこには崩れかけた巨大な彫刻と、芯からむきだしになった黒い石の絵。

 そして傍らには、短髪の女と、その女の表情を見つめる誰かの後ろ姿が描かれていた。

「これは……“アウローラ”の彫刻家か」

 キサラギの声に、アサヒとレイが目を上げる。

 “アウローラ”——芸術都市と呼ばれる街の一角に、今注目を浴びている彫刻家がいると最近話題になっていた。

 その女が作る彫刻は、どこか人の「感情」や「記憶」に触れるような不可思議な質感を持っている、と。

「この女、今回の国際展示会で“才能の石”をもつ彫刻家が大作を発表するらしい」

「ニアが見たのは……その“完成直前の破壊”か?」

 レイの問いにキサラギは黙って頷く。

 そして地図を広げ、アウローラの場所を指差した。

「今回の任務はこの彫刻家の作品完成までの“護衛”。だが、ただ守るのは作品じゃない」

 ニアのスケッチブックに描かれた芯からむきだしになった黒い石を指す。

「おそらく——“石を奪おうとしている連中”が動く。ニアの夢がそれを示唆している」

 すると、ニアが小さく手を挙げた。

「……僕が、行く」

 声は震えていたが、視線はしっかりと前を向いていた。

 キサラギは少しだけ目を細めたあと、ゆっくりと頷いた。

「わかった。こっちで適当に他のメンバーを見繕っておく。双子も勉強がてら同行しろ」

***

「ぐっもーにーん!!」

 重たい扉が蹴り飛ばされ、荒々しい声が部屋に響き渡る、早朝5時。

「……っ!な、なんだ……!?」

 寝ぼけ眼のアサヒが布団の中で跳ね起きる。

 その横でレイは布団を頭からかぶり再び眠りに着こうと試みているが、それは許されなかった。

 素早く布団をはぎ取られ、強制的に起こされる。

 にやけた顔でずかずかと入り込んできた男は、目の刺青が特徴的だった。

 寝癖のままの髪、手には勝手に持ち込んだパンがひとつ。

「おはよーさん、双子ちゃん。お目覚めどう?」

「……誰?」

「あれ?聞いてない?今日一緒に任務行くことになってんだけど」

 胡散臭い表情を浮かべながら、男はレイの手をつかみ、強引に上下に振る。

「俺は焔羅!キサラギの隊のメンバーだ!よろしくぅー」

「……人の部屋に入る時はノックして」

レイがぼそりと呟いた。

「え?足でしたじゃん?」

「……」

 レイは諦めたようにため息をつき、アサヒはようやく現実を受け入れ始めていた。

 そのとき、廊下の奥からもうひとつの足音が響く。

「焔羅、五分前に着くって言ったはずだろ。なんで前室にいねえんだ?」

 現れたのは、紫色の髪をセミショートにした小柄な女だった。

 男のようなぶっきらぼうな口調。だが背中には、彼女の体格に不釣り合いなほど巨大な武器が担がれていた。

「おー、紫ちゃん!今日も小さいね!いやぁ寝坊してるかもって思ってさ!」

「…ころす」

「マジで?やめよーよ、そんなの。仲良くしようよ〜?」

「……さっさと支度しろ。すぐに支度しろ。三分で支度しろ」

 それだけ言い残して、紫は踵を返す。

 双子の部屋に、再び静寂が戻った。

 焔羅は大きく伸びをして、にかっと笑った。

「ま、今日から楽しくなるぜ?行くぞ、新人ども」

***

 思えば、ニアとは何となく共通点が多かった。

 どこか自信がないところとか、興味のある物とか。

 どちらかというとレイよりも似ているところが多かったのにもかかわらず、まったく気づきもしなかった。

 それどころか、今でもニアが何に対してあんなにも恥ずかしがっているのかも理解できなかった。

 キサラギから部屋を追い出されたあと、僕はすぐにレイのほうを見つめた。

 レイは僕は何も聞いていないのに「なんとなくわかってた」と答えた。

 レイは妙に人の感情に聡いことがある。

 よくヒステリックを起こしてた母のことだって、レイは何となく見透かしたように、うまく立ち回っていた。

 一方僕はというと、毎回母にいらぬことを言っては逆鱗に触れていた。

 ーーせっかく仲良くなったと思っていたのになぁ

 そんなことを思いながら、アウローラ行きの列車に揺られていた。

 じっとニアのほうを見つめると、視線に気づいたニアは気まずそうに窓の外に目をそらした。

 列車がゆっくりと丘を越えると、眼下に霧に包まれた街が現れた。

 白い塔が林立し、空に向かって枝のように広がっている。まるで都市全体がひとつの彫刻のようだった。

 その塔の表面には、ところどころ苔のような装飾が施されていて、自然物のような質感さえある。

 遠くからでも、それがただの建物ではないことがわかった。

 どこか、呼吸しているように見えた。

「アウローラ……」

 隣で、ニアがぽつりと呟いた。

 声は小さかったのに、不思議と耳に残る響きだった。

 その横顔は、さっきまでの気まずさも、羞恥も、すべて遠くに置いてきたように、静かだった。

 やっぱり、僕はまだニアのことを、何ひとつ知らない。

 列車の速度がゆっくりと落ちていく。


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