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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第七章 大人になり損ねた子供たち
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神の器

***

 廊下には、沈んだ気配だけが満ちていた。

 木の床は冷たく、ヒナはその上に膝を抱えて座っていた。何も見ず、何も言わず、ただぽつんと。

 異様な世界の崩れ方に、シンはレイとノノを探していた。

 けれど、その混沌のなか、まるで何も起きていないかのように、ただ静かに座る少女の姿に、目を留めた。

 足音が近づいても、ヒナは顔を上げなかった。声も出さない。

 シンは一度通り過ぎかけて、ふと立ち止まり、それから少し離れた場所に腰を下ろす。

 ふたりの間に、言葉はない。だが、不自然な沈黙ではなかった。

「……お前、どうせ知ってんだろ。レイがどこにいるかとか」

「レイのお友達……?」

「友達じゃねぇよ」

 視線だけを向けたヒナに、シンは静かに言い放つ。

「…そうなの、友達いないからわかんなかった」

「お前、陰気くさそうだもんな」

  その言葉に、ヒナの瞳がかすかに揺れた。

「……陰気くさくなんか、ない」

「マジで言ってんの? そんな顔でぼーっとして、何考えてんだよって感じだけど」

 また沈黙。廊下を風が通り、欄間を鳴らす音が響く。

 ヒナがぽつりと呟いた。

「……お父さんとか、お母さんとか、友達のこと……考えてた」

「さっき、いねぇって言ってたじゃん」

 不躾な返しに、ヒナは調子を崩したように、眉を下げる。

「……お友達と遊んで、日が暮れるまでに家に帰って……おいしいものがいっぱい置いてあって、みんなでご飯食べる……」

 壊れそうな声に、シンは何も言わず耳を傾ける。

 ヒナの頬に、ぴしりと細く、ひびが走った。

「……ほんとは、何も知らないの。何も知らないまま、終わっちゃう。生まれ変わりもできない……」

 そう言って、ヒナは腕で顔を隠すようにして、うずくまった。

「……なぁ、知ってるか?」

 不意にシンが声を落とす。

「親とかに内緒で、お菓子食うとめっちゃうまいんだよ」

 そう言って、ポケットから銀紙に包まれたチョコレートを取り出す。

「レイからくすねたやつ。……おんなじくらいスリルあるだろ? 内緒だぜ」

 ひとつ、ヒナの手のひらに転がす。

「……そう、なんだ」

「ちなみに深夜に、こっそり食うラーメンもやばい」

 わざとらしく小声で言うシンに、ヒナはふいに吹き出した。

「……悪い子だね」

 そう言ってひとしきり笑ったあと、ヒナは銀紙を剥がし、チョコレートを口に放り込む。

「……おいしい、ね」

 かすかに笑ったその瞬間、頬のひびが深くなり——静かに砕けて、彼女は消えていった。

***

 赤い月が空に滲む夜、祠の奥。

 凄惨な儀式のあと、ナオは一人、石室へと連れて行かれた。

 乾いた空気が肌を裂くように染み込む。香の煙が途切れなく焚かれ、床には塩と灰、そして薬草が撒かれていた。

 その中央には、銀の衣を纏った小さな身体が横たわっていた。

 乾いた果実のように、時間をかけて均質に干からびた身体。腹部には内臓の代わりに防腐香草と護符が詰められ、爪だけが奇妙な光を残している。

 その顔には、既に生の表情はなかった。ただ、静かに、無垢に、乾いていた。

「……これが、神のかたちです。今後はこの器とともに村を支えてください」

 それはもう、人ではなかった。

 ナオはその前に立ち、ぽつりと問いかけた。

「……ねぇ、ナオはどこに行ったの?」

 傍らの巫女が、優しく言った。

「ナオ様は、あなたでしょう。カガミ様」


***

 学長室には、異様な静けさが満ちていた。

 窓の外では、世界がひび割れ、軋むように音を立てて崩れはじめている。

 椅子には干からびたもう一人の”ナオ”が座っていた。

 ナオはその傍らでどこか空虚な目をして立っていた。レイの足音にさえ動じない。

 机の上には、開かれたままの儀式の書。もう読む必要もないものを、ただ開いていた。

「…カナメってお人よしだから、毎回こうやって、答え教えちゃうんだよね」

 ナオが呟く。声には毒も熱もない。

「お前も、けしかけてるだろ」

 レイが低く返す。

「よかったね。頭、取られなくて」

 ナオの顔をまっすぐに見つめる。けれど、ナオは視線を逸らさない。まるで、鏡のように——感情の映らない瞳で。

「…壊れた魂の器はさ、頭欲しがるんだよ。もし取られてたら、もっと早く崩壊してた。まあ、どのみち壊れるのは変わらないけど。今はカナメが必死に崩壊を遅らせてる、優しいね。君らのためだよ」

 静かな声に、ナオは”カガミ様”の表情を顔に貼り付ける。

「どうすることも、できないのか」

 ナオの瞳の奥が、ほんのわずかに揺れた気がした。

「……洞窟で振り向いたらダメっていうけど、振り向いても何も変わらない」

 ナオは誰にも答えを求めず、ただ言葉を続ける。

「別に名前を呼ばれて返事をしても、何も変わらない。生贄を捧げても何にも変わらない。こんな仕来りは神が考えたわけじゃない、みんなただの人間が決めたことだ」

 レイは黙って聞いていた。

「最初はさ、偶然だったのかも。たまたま収まったから信じたのかも。もはやそんなの、分かんないけど。結局、みんなの望んだ世界を作って、最後の方まで魂が残ってたのは、巻き込まれた子供たちだ」

 そう呟く声には、疲れた笑みすら混ざっていた。

 その声は、もはや誰に向けられたものでもなかった。

 そっと持ち上げた水晶。反射するナオの顔。

 一瞬、目が合った気がした。けれど、それはただの残像のように、水面に波紋が広がるように消えていく。

「………たまったもんじゃないよねぇ」

 水晶の中にはもう何も映っていなかった。

***

 儀式の火が倒され、しめ縄に炎が燃え移る。

 赤い光がナオの銀衣を照らし、火は村へと広がっていく。

 足元には、赤い白装束に包まれた屍の山。

 ナオは干からびた片割れのそばに腰を下ろし、水晶をそっと見つめた。

そこには——魂の残響。封じられた村人たちの嘆き。

「助けて」

「死にたくない」

「カガミ様……どうかご加護を……」

 耳に流れ込む悲鳴。

 身勝手な祈りの向こうに、かすかに混ざる子どもの泣き声。

 ナオはもう、笑うしかなかった。

「……これが、みんなが望んだ世界」

 そう呟くその声に、誰かが答えた。

「——こんなガキが、神様だなんてな」

 背後から、ナオを憐れむ声が聞こえた。

 水晶の中の光が、村全体を包み込む。

 やがて、その光の中でナオの姿もゆっくりと溶けていった。





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