小さな復讐
それは、僕にとっての小さな復讐だった。
死の恐怖から、生きる痛みから、逃げるように思考を手放した者たちへの、ちいさな報い。
ナオは白い制服を揺らしながら、廊下を歩く。そこには魂の抜け殻たちがいたが、誰一人としてナオに触れることはなかった。
「…ナオ」
前方からかけられた声に、ナオは足を止めた。頼りなげな顔、眉を下げた少年――タクミだった。
「…どうしよう、カナメが、終わりだって言ってた」
手帳を握りしめる手は、震えていた。
ナオはゆっくりと微笑んだ。それは凍るように美しい微笑みだった。
タクミはほっとしたように頬を緩めた。
だが、次の言葉はその安堵を裏切るものだった。
「…知らないよ?」
その一言に、タクミの顔が揺れる。
「みんなが望んだ世界。それがこれなんだ。僕に決められることなんて、何もないよ」
タクミは必死に震える指を抑えながら声を絞り出す。
「……ナオが言ったんじゃないか――もう何も考えなくていいって」
タクミは瞳を揺らしながらもナオをみつめた。
「……どっちの“ナオ”? 僕はそんなこと、一度も言ってないよ」
かすかな笑い声が漏れた。それは笑いとも、すすり泣きともとれるようなそんな声。
タクミの顔から色が消える。しばしの沈黙のあと、彼はそっと窓辺に歩み寄り、身を乗り出す。身を投げ出す直前、タクミはナオの方を見る。
「…ごめんね」
そうつぶやくカガミ様の顔は、神様でもなんでもない、ただの子供の顔だった。
***
銀色の衣をまとった二人の子どもは、鳥かごのような部屋で並んで座っていた。
「今日は、あなたが行きなさい」
扉が静かに開くと、片方が儀式へと連れ出される。
残されたもう一人は、ただ無の部屋で虚空を見つめる。
しばらくして戻ってきた子どもは、血と鉄の匂いをまとっている。
「……今日は、子どもがたくさんいた」
「そっか」
お互いを呼び合う術を持ってない僕たちは、主語のない会話をぽつりぽつりとする。
「みんな、最後に、僕のこと睨むんだ」
「僕の時も、そうだったよ」
感情のない同じトーンで、双子は話す。
「僕たちが、決めたわけじゃないのにね」
その言葉はどこにも届かず、ただ、静かに二人の間に沈んでいった。
***
ナオは、村で神の依り代として育てられた。
双子であることは秘密にされ、ひとりの「カガミ様」として崇められた。
二人で一体。それが村の結界であり、世界の秩序だった。
彼らの存在は完全性の象徴とされ、徹底的に管理された。
何もない部屋に閉じ込められ、名も持たず、声も分け合えず、
交互に人々の願いを叶える“神の役”を演じ続けた。
ときおり外に出ると、無数の人々が祈りを捧げ、
生贄が差し出された。
祝詞を唱える。神の仮面を被って。
救いを求める者の顔。絶望に沈んだ目。
そして、自らを神の使いと誤信した神官たちの、歪んだ優越感。
それらすべてが、ナオの小さな心に、確かに爪痕を残していた。
***
「昨日、この部屋に子供が来たんだ。タクミって名前の子」
片割れがぽつりとつぶやく。
「ナイフを持っててさ。僕を殺そうとしてた。でも、できなかったみたい」
静かな言葉が、石壁にしみこむように広がっていく。
「僕、何もしてあげられなかった。…ただ無責任で、残酷なことしか言えなかったんだ」
少しの間、沈黙が流れる。
「こんなことなら、僕が殺してあげた方が、あの子は…少しは楽だったかもしれない」
悲しみに濡れたその顔に、声をかけようとしたその時。
「今日は、あなた」
いつものように、扉が静かに開く。
その日、連れていかれた片割れは、二度と戻ってこなかった。
***
「…ねえ、もう一人は?」
儀式の前、ナオは巫女にそっと尋ねる。片割れが帰ってこないまま、一週間が過ぎていた。
しかし巫女は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべるだけだった。
「本日の贄の儀式のあとに、別の神事がございます。よろしくお願いしますね」
答えは返ってこなかった。ナオはゆっくりと銀衣を羽織り、言葉を飲み込んだ。
赤く滲んだ月が空に浮かぶ夜。
いつものように、祠へと向かう。
今日の生贄は名家の一家だった。最近、医者の娘が嫁いできたばかりの家。疫病に近い者を家の中に入れるなどと変わり者だと噂されていた。
――それは儀式などではない。ただの見せしめだ。
縛られた一家の前に、こん棒を手にした神事たちが並ぶ。
ひとりが、無言で振りかぶる。
鈍い音が鳴り、血が弧を描く。家長の頭部は一撃で潰され、肉片と骨が床に散った。
若い妻、幼い弟、そして母とおぼしき女の瞳が揺れる。
絶望に染まったその目に、次々とこん棒が振り下ろされ、声なき悲鳴が洞窟を満たす。
ナオの手が震えた。
すると、隣に立つ神事がその手を強くつかむ。
「“カガミ様”は、こんなことで心を乱しません」
低く、冷たい声。
次の瞬間、ナオはこん棒に手を添えさせられていた。
行動の意図がすぐに理解できた。つかの間。
「…カガミ様自らの手で送られる。感謝しろ」
そう告げられ、腕を押されるまま、こん棒が振り上がる。
そして、鈍い音が響いた。
そこから先の記憶は曖昧だった。
どこか遠くで祝詞が聞こえていた。
その合間に、前髪の長い少年の姿が見えた。
ナオを睨みつけるその目には、燃えるような憎しみが宿っていた。




