祈りの残響
カナメは額を押さえながら、ふらつく足取りでレイのいる旧校舎へ向かっていた。胸元の ネックレス──ナギの“才能の石”が、時折光を弾けさせるように揺れている。
廊下に転がる、生徒たちの抜け殻。水晶のように透き通った体は魂を抜かれ、暴走する器だった。カナメはその傍らを通りすぎながら、小さな儀礼刀で何体かを静かに切り裂いた。
世界が崩れていく音がする。揺れる床、軋む壁、ざわめく空気。空間そのものがひずみ、カナメの精神も限界に近づいていた。
「……持たねぇ……」
暴走する“世界”を、彼はネックレスを強く握りしめて抑えていた。ナギの想いが宿る“才能の石”──それはかつて、ナオが村を結界に封じたとき、カナメの怒りと願いを媒介にした鍵でもあった。
廊下の先で、火花のような光が弾けた。その中心に、ナオが立っていた。
「……ずいぶん苦しそうだね。まるで、ヒーローみたいだよ」
その声に、カナメは足を止め、肩を震わせた。
「……うるせぇよ」
ナオの視線はネックレスに落ちる。
「あれ、ナギさんのだよね。“才能の石”。……でも、つらいでしょ? そんなふうに、無理して抑え込むの」
「……おまえだって、本当はいやだろ」
カナメは顔を上げ、かすれた声で言った。
「誰かを巻き込んで、壊すのは……」
ナオの目がわずかに揺れる。
「……もう、わかんなくなっちゃったんだよ。何が正しいのか、どこまでが自分なのか」
カナメは一瞬、ナオの方を見ると、再び目を伏せる。
「……どっちにしても、もう終わるんだ」
カナメはナオのそばに歩み寄り、そっとその肩に手を置いた。
「大事な片割れに……ちゃんとお別れくらい、言ってこいよ」
そのまま、背を向けて歩き出す。崩れゆく空間のなか、カナメの足音だけが遠ざかっていく。
ナオは立ち尽くし、俯いたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……優しいね。カナメは」
***
世界が崩れていく音が、遠くからも聞こえていた。
水晶の粒が弾けるように、空間が歪み、色彩が滲んでいく。
ユイは、誰もいない廊下に立っていた。心も体も、ひどく冷たかった。
一枚ずつ、世界の崩壊を確かめるように窓ガラスを割っていく。
──なんで、わたしだけ。
そう思ったことは、何度あっただろう。
何もかも、終わらせてしまいたかった。
この手で壊してしまえば、せめてこの孤独からは、解放されるかもしれない。
自分も、世界も、全部。
──そのとき、背後から声がした。
「ユイちゃん」
優しくて、けれどまっすぐな声だった。
ユイは振り返らない。
ここでは、廊下で振り向いてはいけない。そう、決められている。
「私には……大事にされる価値なんてないから。いつも一人だったの」
その、くだらないぼやきは確かにノノに届いた。
「ユイちゃんのいた世界のほうが、くだらないよ」
その一言に、ユイの心がかすかに揺れた。
「……ノノちゃん、何も知らないくせに」
無性に腹が立った。
無責任な言葉。期待させて、どうせ突き放すくせに。
「うん、何も知らない。……でも、ユイちゃんは知ってるじゃん」
ノノの声は変わらず静かで、揺るがなかった。
「……数日しか一緒にいなかったのに」
「そうだよ。それでも私は、ユイちゃんの“自己価値を下げた世界”のほうに価値がないと思う」
ユイの動かない背中を、ノノはじっと見つめている。
「……信じられないよ」
「信じなくていいよ。でも、私は言い切る」
少しの沈黙があってから、ノノは言った。
「──こっちを向いて」
「……振り向いたらダメなんだって」
「そんなの、誰が決めたの?」
「……みんな」
「“みんな”って、誰?」
「……また裏切られるのが、怖いの」
「私は、裏切らない」
「……そんなの、わかんないじゃん」
「うん。わかんないね。だから──」
ノノの声はまっすぐで、あたたかかった。
「ユイちゃんが、決めていいよ」
「……」
「──こっちを向いて」
***
遠くから、足音が近づいてくる。薄暗い部屋に少しの光が差し込み。扉が開く。
そこには満身創痍のカナメが立っている。学校全体から地響きがなっていたのは気づいていた。何かが起こっている。それがカナメの姿を見て確信に変わる。
不安そうなタクミにカナメはいった。
「交代だ、でてけ」
「でも、カナメ…」
不安そうにタクミは声を上げる。
「…珍しいな、”スケジュール”なのに、よ」
カナメの鋭い目に、目をふせるタクミ。
「今回も、もう終わりなんだね」
「今回も、じゃねぇ、今回で、だ」
タクミは悲しそうな瞳を浮かべ、「そうか」と一言呟き部屋をでていった。
カナメは無言でレイの前に腰を下ろした。顔を伏せ、髪が目を隠す。その気配に、レイは小さく眉をひそめた。
「……なあ」
不意にカナメがつぶやく。
「お前、前に言ってたよな。……俺は、話が分かるやつだって」
「ああ。今もそう思ってるよ」
レイは即答した。
カナメは小さく笑った。けれど、それは乾いた音だった。
「たいていの奴はさ。俺のこと、変わり者だとか、わかんねぇやつだとか言うんだぜ」
「でも──」
レイの声は、静かに続いた。
「この中で、お前が一番、人間らしい顔をしてる」
その言葉に、カナメは目を見開く。
一瞬だけの驚き。そのあとに浮かんだのは、深く悲しい、痛ましいほどの表情だった。
──ナギも、同じことを言っていた。
「……はは……そうか」
自嘲気味に笑いながら、カナメはポケットから鍵を取り出し、レイの足元に放り投げた。
「……もう、何回目かわかんねぇけど──たぶん、今回が最後だ」
レイは黙って鍵を見つめている。
「神様はさ、復讐してんだよ、きっと世界に」
沈黙のあと、レイがぽつりと問う。
「……救えないのか」
カナメは少しだけ、顔を上げた。
「無理だよ。もう、魂は全部壊れる。……それに」
言葉を切って、少し遠くを見た。
「ナギだけ残して、生きられるわけ、ないだろ」
静かな、でも決定的な響きだった。
ふたりの間に、しばらく沈黙が流れる。
やがて、カナメがぽつりと言う。
「……学長室に行け。そこから外に出られる。……外には力も漏れない。あそこには、守り神みたいなもんがいるから」
レイは足先で鍵を手繰り寄せると、それを拾って手かせを外した。
立ち上がり、扉の方へと向かう途中、レイはふと足を止めて言った。
「……お前は、責任感のある男だよ。お前に救われた奴は、たくさんいる。──俺も、含めてな」
そう言って、レイは去っていく。
残された部屋で、崩れゆく世界の音に包まれながら、カナメはうなだれていた。
「……そうだと、いいなあ。ナギ……」
カナメが胸のネックレスを握りしめると、ナギの“才能の石”が鈍く、そして強く光りはじめた。
「……ナギ、今だけ──貸してくれ」
カナメの足元から空間がざらつき、黒いひび割れが走る。それは天井へと駆け上がり、世界そのものを侵蝕していくようだった。
だが、石の光が放たれるたび、その崩壊の進行が一拍ごとに鈍くなる。
石の力が、ナギの祈りが、世界の“解体”に抗いはじめていた。
「少しだけ……守りたいんだよ」




