赤い月、はじまりの夜
陽の差す縁側で、少女が静かに薬草を刻んでいた。その仕草は年齢に似合わず、凛としていた。
「生贄なんかで病気は治らない。人を救うために人を殺すなんて、馬鹿げてるわ」
ナギは診療所の娘だった。小さな体から放たれる言葉は、大人びて、まっすぐだった。
村に疫病が広がり始めた頃、ナギは自ら進んで病人に近づき、看病と手当てを続けていた。
そんな彼女の元に、カナメは足しげく通った。「何かできることはないか」と。
だが最初は、「お坊ちゃんの来るところじゃない」と、冷たくあしらわれた。血筋の良さに守られて育った少年の気まぐれだと、ナギは信じなかった。
それでも、カナメは引かなかった。否定することも、言い返すこともせず、ただ静かに彼女の言葉を受け止めた。
「……変わってるのね。こんな疫病が流行ってる場所に、普通は来ないのに」
「……毎回ナギが強い酒ぶっかけてくるから、消毒されてる気がしてさ」
「……ふふ、馬鹿ね」
誰も笑わなくなった村で、ナギはカナメの前でだけ笑った。
「……それに、ちょっと下心もあるし」
そう言って、カナメはそっと彼女の手を握る。背伸びをするように照れ笑いを浮かべる15歳の少年に、ナギもまた微笑んだ。
やがて二人は、身分も立場も超えて、心を通わせていった。
「結婚しよう。……ナギも守るし、ナギの志も支えていきたい」
そう言って、カナメは小さな指輪のついたネックレスをナギの首にかけようとした。ぎこちない手つきに、ナギはそっと笑った。
「あなたって、本当に優しいのね。とても……人間らしい」
ナギは愛おしそうに、カナメの手を握る。
「まずはあなたも元服を迎えないとね」
その日、ふたりは小さな石を分かち合い、未来を信じた。
***
保健室に、ひび割れた音が響く。鏡が砕けたのではない。世界そのものが割れている。
現実がノイズのようにざわめき、空間がひずむ。
ベッドの上で、ナギはすでに“人”の形を保っていなかった。顔に入ったひびは、奥底まで達し、その眼には、もう意志がなかった。
「…ごめんな。もっと早く終わらせてあげれたらよかったな」
ゆっくりとその体を抱きしめた。かつてのぬくもりを探すように。
けれど、ナギはもう、どこにもいなかった。
そっと首元に手を伸ばす。細い首にゆっくりと力を込めていく。
そこに残された、小さなネックレス──“才能の石”だけが、まだ温かかった。
***
カナメが元服を迎える、一か月前の夜。空に、赤く滲んだ月が浮かんでいた。
名家の長男であるカナメは、その夜、“上”の会合に呼ばれていた。
「長男だけでいい」
そう言われ、疑うこともなく本家へと向かった。
「カガミ様に、感謝を」
白装束の一団。狂ったような笑み。誰かが祝詞を唱える声が、薄気味悪く響いていた。
耐え難い吐き気をこらえながら、カナメはその場をやり過ごした。
家に戻ると、異様な静けさに包まれていた。
──家の明かりが、ついていない。
扉を開けても、誰の姿もない。父も、母も、弟も……そして、ナギも。
カナメは夜の闇を裂くようにして、村外れの洞へと駆けた。
神事の祠へ──
焦げた匂い。鉄と煙と、血のにおい。
祠の奥には、赤い布が落ちていた。ナギがいつも腰に巻いていた、診療布だった。
──儀式は終わっていた。
そこにあったのは、原形を留めぬ、魂ごと壊された骸たち。
顔も、名も、消えていた。
「ちゃんとした血筋を供物にすれば、神様も喜ぶんだよ」
「今回は魂まで捧げられるように、まじないを施した」
「長男だけは残した。血は絶やさぬようにな。感謝しろ」
誰かの声。誰の声かも、もうどうでもよかった。
──カナメの中の何かが、静かに、確かに壊れた。
儀式の奥。銀の衣をまとった“カガミ様”が、何も言わず、こちらを見ていた。
***
復讐は、その夜から始まった。
名家から名家へ、神事に関わる者たちを、次々と潰していった。ナギたちを殺したように、頭を潰すように。
「どうして?」と泣く声に、カナメは静かに答えた。
「”神様”に魂を捧げるんだろ?」
一度は、平和を望んだとは思えないくらい、カナメの瞳は濁っていた。
何件か回ったあとだった。村の北の山から火の手が上がった。カナメは自分の仕業ではない火事に不信感を抱き、火元へ向かう。
たどり着いたのは──あの祠だった。
炎の奥、裂け目のように現れた地下の扉。その中には、“ナオ”がふたりいた。
ひとりは、ミイラのように眠る少年。もうひとりは、水晶を見つめる、子供の姿のナオ。
「これが、みんなが望んだ世界」
ナオはそう呟いた。水晶の中には、魂の残響──封じられた村の人々。
そのとき、カナメの胸元でネックレスが光を放つ。
ナギの想い、ナオの願い、そしてカナメの怒り──
三つの力が、世界を“封じる”結界を作った。
「……こんなガキが、”神様”だなんてな」
カナメは吐き捨てた。ナオは何も答えず、ただ俯いた。
ふたりの光が、村全体を包み込む。
それがすべての、はじまりだった。




