許されない信仰心
保健室のカーテンが、静かに揺れている。
ベッドの上で、カナメが保険医の胸に顔をうずめていた。目元は赤く腫れ、肩が小刻みに震えている。
「……やっぱり、無理だったんだ。こんな世界……悪夢を、ちょっと引き延ばしただけだった」
保険医は黙って、カナメの頭を撫でる。その手つきは、あまりに穏やかで、すべてを許すようだった。
「……そんなこと言っても、わかんねぇよな」
ぽつりと、カナメはつぶやいた。
「……なんで俺だけ、置いていったんだよ。ナギ……」
その名を漏らした瞬間、保健室の鏡が目に入る。
鏡に映るベッド。そこにはカナメの姿だけがあり、保険医の頭部は、どこにも映っていなかった。
そして、追いかけるようにカナメの頭もじりじりとノイズのように消えようとしていた。
***
中庭のベンチ。ナオは、しゃがみこんだタクミを見下ろしていた。
「……たまに周りが見えなくなるの、タクミの悪いクセだね」
タクミは小さく肩をすぼめる。
「もうすこしで、ばれちゃうところだったよ、手帳ばかり見てないで、周りを見て。今回は、なんでか“三人”もいるんだから」
その言葉を聞いても、タクミは懲りずに手帳を取り出し、ナオの言葉をメモする。ナオはため息をついた。
「……ちゃんと考えて。頭、あるでしょ?」
タクミは、手帳を握りしめた。
「……そうやって教わってきた。ナオだって、おんなじじゃないか」
ナオは言葉を返せなかった。
「僕は……ナオのために動いてるつもりだよ」
***
薄暗い洞窟。そこは、村の「儀式」が行われる場所だった。
白装束を身にまとった人々が、円陣を組むように静かに並んでいる。その中に混じって、少年タクミの姿もあった。
中央には、同じく白い服を着た、一人の子供――「カガミ様」。この村では、ある一族が神の依代として崇められていた。
タクミは神職の家に生まれ、毎日のように父からこう教えられてきた。
「災いが起きるたびに、カガミ様は救ってくださる。私たちが誠心誠意、尽くせばな」
隣には、いつも通りタクミの兄がいた。兄はその話を聞くたび、どこか納得のいかない表情を浮かべていた。
その日も、いつものように神事が始まった。
そして、儀式のために一人の若い女性が連れてこられた。
「………ユウ?」
兄が、思わず声を漏らした。
儀式中は、言葉を発してはならないと決められているのに。
次の瞬間、兄は立ち上がり、女のもとへ駆け寄った。
「だめだ……やめてくれ!」
周囲の白装束たちが驚き、制止の声を上げる。兄はそれを振り払うように前へ出たが、すぐに数人に取り押さえられた。
「儀式の最中に、何事だ!」
怒号のような父の声が洞窟に響く。兄は押さえつけられながら、かすれる声で叫んだ。
「……後生です! ユウだけは、助けてやってください!」
次の瞬間、赤い飛沫が宙を舞った。兄の声は、それきり聞こえなくなった。
***
「……使用人の女なんぞに、肩入れしていたらしい。まったく、恥ずかしい話だ」
儀式の翌日、父はそう言って吐き捨てた。
兄は、その後も反抗的な態度を取り続けたらしい。そしてついに――疫病患者のいる小屋へ、閉じ込められることとなった。
「……その、兄さんは……」
おずおずと尋ねたタクミに、父は冷たく言い放った。
「……あいつのことは、忘れろ」
その言葉が、タクミの胸の奥に、拭えない染みを残した。
***
ある夜。禁じられていたにもかかわらず、タクミは一人、小屋へ向かった。
兄に会いたかった。たまらなく、会いたかったのだ。
疫病患者が隔離された小屋の格子の向こう、やせ細った影が揺れていた。
「――タクミ……?」
かすれた、けれど確かに兄の声だった。
暗がりに包まれた小屋の中、兄の姿はほとんど見えない。それでも、涙だけははっきりと見えた。
「僕、兄さんに……会いたくて」
タクミの声に、兄は静かに返す。
「タクミ……もう、疲れたよ」
その声には、希望も怒りも残っていなかった。
「人が死なない世界にするために、人を殺すなんて……どういうことなんだろうな」
その夜を最後に、兄は二度と姿を現さなかった。
***
深夜。屋敷の奥、誰も近づかない“神様の部屋”に、ひとつの気配が忍び込む。
タクミは、小刀を握りしめ、歯を食いしばっていた。
怒りと絶望が、足音を支配する。――兄を見殺しにしたこの世界。狂ってる。終わらせなきゃ、こんなもの。
ぎい、と重たい扉が開く。
そこにいたのは、たった一人の子どもだった。
白い装束。静かに座っている。
タクミはふらつく足で近づき、ゆらりと身を揺らし、刃を振るう。
倒れ込んだその身体から、顔を覆う布を乱暴に剥ぎ取る。――この狂った世界の神様の顔を、最後に、拝んでみたかった。
タクミは、息をのむ。
現れたのは、十代にも満たないかと思えるほど幼く、整った顔立ちの子ども。
男にも女にも見える中性的なその顔は、人のようで、どこか人ではなかった。けれど――
「……いいよ、刺しても」
ナオはゆっくりと目を開け、まっすぐにタクミを見た。
その声は穏やかで、口元には微笑みさえ浮かんでいた。
まるで、すべてを赦すように。すべてを、受け入れるように。
タクミの手が震えた。
こんなにも美しいと思ってしまった自分を、否定できなかった。
一度は嫌悪した信仰心が、まだ自分の中に残っている。
ぐちゃぐちゃになった感情が、嗚咽となって溢れ出す。
小刀は手から滑り落ち、床に乾いた音を立てた。
タクミは膝をつき、その場に泣き崩れる。
ナオは、静かに立ち上がると、タクミの頭にそっと手を添えた。
「……苦しいなら、もう、何も考えなくていいから」
その言葉は、甘い毒のようにタクミの心に沁み込んでいった。
神様の声なのか、悪魔の声なのかもはやわからなかった。
タクミの涙は止まらなかった。




