鈴の音が鳴る夜
ヒナの日常は、とても忙しい。
学校に行けば、たくさんの友達がいる。授業は難しいけれど、それなりに楽しい。チャイムが鳴ると校庭に出て、鬼ごっこをする。
ヒナは足が速いから、鬼になることはあまりない。でも、たまに追いかけたくて、わざと捕まるふりをした。
夕日が校庭を赤く染めるころ、急いで帰らないといけない。
「ただいまー!」
玄関を開けると、夕飯のにおいがする。お母さんが台所から「おかえり」と返してくれる。
カレーも、プリンも、スイカも、ヒナの大好物ばかり並んでいる。つまみ食いをしようとすると、お母さんが笑いながら叱る。
「お父さんが帰ってきてからでしょ」
しょうがないから、お父さんを待つ。しばらくすると、玄関の戸が開き、ヒナは駆け寄って――
「……お前の番だ」
――ぱちり。
泡のように、現実がはじけた。
薄暗い部屋。藁の匂い。腐った食べ物。血のにおい。家畜のように押し込まれた子供たちの中で、ぼろぼろのヒナの手を白い着物の人物がつかむ。
顔は白布で覆われ、見えない。鳴る鈴の音。
***
教室の窓際で、ユイはじっと空を見ていた。
ノノが声をかけても、返事がない。
「ユイちゃん?どうしたの」
まるで、ここにいないみたいだった。
他の生徒たちも同じように、誰かの見えない指令に従うような、機械的な動きをしている。
ぱちん、と誰かが同時に立ち上がり、ほぼ同じテンポで歩き出す。
ノノは一瞬、ぞっとする。
とっさにユイの手をつかむと、ユイは目を瞬かせた。
「……あれ?」
ノノはうすうす感じていた。ユイだけじゃない。この異常は、もっと広がっている――。
***
校舎の裏、シンは壁に背をあずけながら旧校舎を見つめていた。
「……動いたな」
視線の先には、タクミの姿。
普段と違う道を選び、導かれるように古い校舎へと向かっていく。タクミは歩きながらも手帳から目を離さない。
シンは静かにあとを追った。やがてたどり着いた古びた教室。タクミが中に入るのを確認し、廊下の窓から中をのぞく。
本棚には古い本が並んでいたが――タクミも、レイの姿も見当たらない。
「……部屋、間違えたか?」
その時、不意に背後から声がする。
「ここは、生徒立ち入り禁止の場所だよ」
ナオが、微笑みを浮かべて立っていた。
***
薄暗い教室。ヒナは虚空を見つめていた。
「……気が滅入るだろ、何もせずにじっとしてるのは」
レイがそう話しかけても、ヒナは応えない。ただ、静かに目を向ける。
「俺は、ずっとこんなとこにいて気が滅入る」
レイの言葉に、ヒナはゆっくりと瞬きをした。
「……ずっと考えてるの。おいしいご飯のこと、お父さんやお母さんのこと」
「どんな人だったんだ?」
ヒナはようやく、レイをしっかりと見た。
「……思い出すことが救いとは限らない。ねぇ、レイ。知りたいのは“事実”? それとも“幻想”?」
答えになっているのかどうか分からない言葉。
ヒナは、ふっと目を細めた。まるで自分に言い聞かせるように。
「記憶って、妄想に似てるよ。自分に都合のいい場面だけを継ぎ接ぎした夢。……痛みのない過去なんて、きっと嘘」
そして、ヒナの瞳に、かすかな揺れが灯った。
***
――あの部屋のにおいは、今でも鼻につく。
「今日は、お前の番だ」
“家畜部屋”と呼ばれるその場所には、名もない子どもたちが詰め込まれていた。
湿った藁、腐った食べ物、血のにおい。
ヒナは小さな体を硬くして、他の子どもたちと肩を寄せ合っていた。
そして、毎晩、鈴の音ともに、次の番を指定する声がする。
白い服をまとった人物が、ひとりの子供の前に立つ。
「…いや、しにたくない」
涙に濡らした小さな子供の手を、白い塊は容赦なくつかむ。
引きずられていく音。遠くなる声。
泣き叫ぶ子。静かに立つ子。うずくまる子。
次は自分かもしれない。恐怖に支配されていく。
「いい血筋の子を捧げた家は、病から守られる」
ある日、そんな“噂”が広がった頃から、呼ばれる頻度が減った。ヒナはそれに安堵した。
けれど――
「……まだ足りない、汚い子供でも捧げないよりましだ」
今度は罵られながら、子供たちは連れていかれた。
ヒナは、ある日から感情を閉ざした。恐怖することに疲れたのだ。
朝が来ても、夜が来ても、ただ壁を見つめていた。
そして、心の中で何度も繰り返した。
(今日は母さんと市場に行って、おやつを買ってもらった。帰ったら、おいしいスープがあって、夜はお風呂に入って、明日は友達と遊ぶ)
自分がいないはずの、温かい記憶。
架空の、ありえない日常。
――それが、ヒナの唯一の「現実」だった。
その日、鈴の音が鳴った。
「次は……お前だ」
ヒナは、静かに立ち上がった。




