あいまいな約束
見張り役が何周か回ったとき。レイはユイに向き直って問いかけた。
「ナオは……来ないのか?」
ユイは微かに笑った。その笑みは、子どもじみていて、どこか悪戯っぽい。けれど、どこか空虚な印象もあった。
「ナオは“大事な時”しか来ないよ。そういうものなの」
答えになっているようで、なっていない。
「それより、クラスのシンとノノって友達なんでしょ? いいなぁ。私にはそういうの、いないから」
ユイはレイの手の届かない距離で、誰かの幻を撫でるように声を落とした。
「私もね、友達いたのよ。レイに似た子。頭良くて、可愛い女の子だったの」
窓の外に差す夕日を見ながら、ぽつりと続けた。
「一緒に夕日見に行こうって、約束してたの……でも、結局行けなかった」
ユイの声は次第に沈んでいく。
「私、思ったより、大事にされてなかったみたい」
そこには恨みでも怒りでもなく、ただひとつの傷があった。静かで、乾いた、それでも消えない傷。
レイはユイの寂しさに気づいた。誰かに“選ばれたかった”という、あまりにも人間的な祈りに。だから、そそのかすように言った。
「……行こう、夕日を見に」
ユイは少し驚いたように目を見開いたあと、ゆっくりと困ったような笑みを浮かべた。
「私、あいまいな約束は嫌いなんだ」
声が震えていた。我ながら悪い提案だとレイは感じた。こんなふうになることは何となく察せていたはずだ。小さな子供をだますような悪手に、少し自己嫌悪に陥る。
「ちゃんと叶えてくれないと、本当じゃないと……いやだよ」
言いながら、ユイはポケットから小さな鍵を取り出し、レイの手錠に手を伸ばす。
そのときだった。
部屋の扉の隙間から、白い“煙”がうっすらと流れ込み始めた。
レイはその煙を知っていた。あのとき意識を奪われた、あの煙。
「……っ!」
フォークを隠し持っていた手が震え、指の間からそれが滑り落ちた。
カラン、と音を立てて床を転がる。
ユイがびくりと肩を揺らした。目を見開き、唇が震える。
「……嘘、ついたの?」
震える声。立ち込める煙が止まって見える。
「私、信じたのに……レイは“あの子”と同じだ……」
「違う、俺は――!」
レイは叫ぼうとしたが、煙が濃くなり、視界が歪む。
倒れかけたレイの向こうに、ゆっくりと歩く影が見えた。
ナオだった。真っ白な靴音が静かに響く。
その隣には、睨むように立つカナメの姿。
倒れていく意識の中で、レイはユイの顔を見た。
あれは――涙だったのか。
その隣で、ナオが、微笑んだような気がした。
***
その村には、学校は一校しかなかった。全校生徒が三十名に満たない、小さな学校。クラスもひとつだけ。
それでも、仲間外れや小さないじめは、どこにでもあった。
「…ねえ、ユイちゃん。一緒にいてくれる?」
何度目かもわからないお願いに、ユイは静かにうなずいた。
誰かが疎まれるたびに、ユイは“逃げ場所”として声をかけられる。けれど時間が経てば、標的が変わり、その子たちは離れていく。
ユイには、友達と呼べる子がいなかった。
古くから続く家柄の娘として、いじめこそなかったが、誰からも一歩引かれて接されていた。
そんなときだった。
そんなときだった。
「…転校生のメイさんです。みんな仲良くしてね」
ショートカットの少女が、教室に入ってきた。大きな瞳と、どこか冷静なまなざし。
音もなく歩くその姿は、高貴な猫のようで、ユイは目を奪われた。
「じゃあ、あそこの後ろの右側の席、ユイさんのとなりね」
そう言われたメイは、ためらうことなく隣に腰を下ろした。
「私たち名前似てるのね」
ふっと笑ったその顔に、ユイは心を奪われた。この子と、友達になりたい。
心の奥で、初めて強く――そう、祈った。
***
その日を境に、ユイの世界は少しずつ光を帯びていった。
メイと過ごす時間は、特別だった。誰かと笑いあうだけで、こんなにも心が温かくなるのだと、ユイははじめて知った。
ある日の帰り道、メイが唐突に言った。
「ユイは、怒っていいと思うよ」
その声には珍しく熱がこもっていた。クラスメイトたちの、ユイに対する扱い――それは露骨ないじめではないが、都合のいい存在として利用するような距離の取り方だった。
「ユイの気持ちなんてお構いなしで、勝手に甘えて……ずるいよ、あの子たち」
ユイは、そんなふうに怒ってくれる人がいることに、ただ驚いていた。そして、純粋にうれしかった。
今まで誰にも、そんなふうに自分のために声を上げてもらったことなどなかった。
母からも、友達からも。
「私、メイと友達になれて……よかった」
そう笑うユイに、メイはまっすぐに答えた。
「私は、ユイを裏切らないよ」




