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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第七章 大人になり損ねた子供たち

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時計の針が動く前

 シンとノノは校舎の奥にある旧館の渡り廊下を歩いていた。窓の外は真昼のように明るいのに、廊下の足元には影が落ちていない。不安定な感覚のまま、ふたりはナオのもとへ向かう。

 ナオは白い制服をまとい、資料室の前で誰かと立ち話をしていた。

「おい。レイどこやった」

 シンが真っ直ぐに切り出すと、ナオは微笑んだ。

「レイくん? 図書室に案内してたけど、途中で体調を崩しちゃって……。だから保健室に連れて行ったよ」

「保健室? それからは?」

 ナオは少し目を伏せ、肩をすくめた。

「ううん、それだけ。あとは知らないよ。…心配?」

 ノノが言葉を飲んだままうなずく。ナオはくすりと笑い、扉の向こうに姿を消した。

「……誤魔化されたな」

 シンは呟き、ノノと目を合わせる。

「行ってみよう、保健室」


 保健室の扉を開けると、やわらかな薬草の匂いが鼻をくすぐった。中には白衣の養護教諭が、帳面に何かを書き込んでいる。

「すみません、レイって子が来ませんでしたか?」

 ノノの問いに、養護教諭は穏やかに首を傾げた。

「記録にはないけど……」

 そのとき、奥のカーテンが静かに開く。寝台に腰かけていたのは――カナメだった。

 制服の上着を羽織ったまま、彼は煙草でもくわえるような無愛想さでふたりを見た。

「……なんだ、保健室の見学ツアーか?」

「レイが来たって話を聞いたんだけど、本当か?」

 カナメは天井を見上げてから、あきれたように吐き捨てた。

「さあな。少なくとも俺は、そんな奴見てねぇよ。その日もここにいたけどな」

「じゃあ、ナオは――嘘を?」

 ノノがシンに確認するように言うと、カナメは鼻で笑った。

「嘘っていうより……ご都合主義ってやつじゃねえの? あいつ、現実を都合よく編集するの得意だしな」

 ノノが息をのむ。シンが一歩踏み込む。

「じゃあ、レイはどこにいる?」

 カナメは視線を伏せ、少しだけ声を落とした。

「さあな……嫌になったんじゃねえか? こんな学校、宗教みてぇだしな」

 部屋のどこかから、時計の針が一つ、静かに時を刻む音が響いた。

***


コツン、コツン――。チョークが黒板を叩く音だけが響いていた。

「朝の会、終わり。次は――食事の時間」

 無感情な声で、タクミが読み上げる。

 黒板にはびっしりと時間割が書かれていた。起床、歯磨き、朝の会、食事、自由時間――どれも異様に細かい時間指定。まるで時計仕掛けの人形が生活する場所のようだった。

 タクミは持っていたハンカチで手を拭くと、レイの前にパンを差し出した。

「…悪いけど、食欲がない」

 レイがそう言うと、タクミは申し訳なさそうに黒板をちらりと見た。

「……でも、スケジュールに書いてある」

「それって、絶対?」

「……そうしないと、次に進まないから」

 タクミの声はどこか怯えていた。黒板に視線を戻し、項目と時刻をなぞるように確認する。その様子は、まるでそこに書かれたこと以外は「存在しない」かのようだった。

「…監禁してるやつから、出される食事なんて、食えるわけがない」

「……でも、順番通りに行わないと」

 タクミの眉が困ったように下がる。

「お前が決めたのか?」

「違うよ。前から、こうだった。ぼくは、守るだけ」

 タクミはそう言うと、自分の手帳に「× 食事 未遂」と書き込んだ。

 レイは苦笑した。沈黙が落ちた。しばらくして、レイがぽつりとつぶやく。

「この学校、変なルールばっかりだな。誰が作った?」

「……わからない。最初から、あったんだ。考えたことも、ない」

 レイは、タクミの中に染みついた“思考停止”のような感覚を感じ取る。そしてそのまま、ぽつりとつぶやいた。

「……変なルールでも、従うだけのが楽だよ」

 その言葉には、深く染みついた諦念のようなものがあった。タクミの表情を、レイは見逃さなかった。

「……パンは、一時間後に食べる。スケジュールに書いておいてくれ」

 タクミは黒板に記しながら、うなずく。

「さすがにトイレくらいは行かせてくれるだろ?」

「トイレは、見張りの入れ替わりの時、二人の時に連れていくことになってる」

 レイはわかったと小さく答える。

「見張りの時間も長いんだ、食事以外も決めておいた方が楽だろ?パンを食べるまでの一時間はスケジュールを一緒に決めよう」

 レイの言葉にタクミはうなずきながら聞く。

「パンを食べたら、俺は仮眠。お前は手帳で報告書でも書いとけ。そのあと起きたら、暇つぶしに思い出話でもするか」

 タクミは眉を動かさず、ずっと黒板にチョークを走らせる。きっとタクミはひとりで何も決められない。決められたことには従順だ。そして決めてくれた人にも。

 レイは、視線を落としていた自分の手首をそっとまくる。赤く、痣になりかけた跡が浮かび上がっていた。

「……お願いがあるんだけど」

 タクミが顔を上げる。

「この手錠、少しだけでも……緩めてくれないか。少しでいい。もう、きつくて痛いんだ」

 タクミの瞳が揺れる。

「ぼくは……勝手なこと、できない。ルールが……」

「少しぐらい、いいだろ。それに、俺は決められたスケジュールはちゃんと守る」

 レイの言葉に、タクミは動揺を隠せない様子で、そっと手を伸ばす。もう少しで鍵に触れそうなそのときだった――

「……いいように乗せられてんじゃねぇよ」

 乾いた声が、教室の奥から割って入った。ゆっくりと現れたのは、カナメだった。

 制服の襟を崩し、片手をポケットに突っ込んだまま、彼はタクミを睨んでいた。

「お前は黙ってこっちの決めたスケジュール守ってりゃいい。勝手に緩めたら、お前がどうなるか、忘れたのか?」

 タクミの手が止まり、レイの腕から離れる。レイはカナメに目を向ける。

「そこに書いてあるスケジュールだと見張りの交代には時間は早いが、お前、何者なんだ?」

カナメは肩をすくめる。

「ただの“現実を思い出させる係”さ。面倒な役だけどな」

 レイがなにか言いかけたその瞬間、黒板の時刻が一つ先へと動いた。音もなく、しかし確かに、時間が「ずれた」。

 ――この空間が、ただの「夢」ではないことを、レイはようやく理解し始めていた。


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