時計の針が動く前
シンとノノは校舎の奥にある旧館の渡り廊下を歩いていた。窓の外は真昼のように明るいのに、廊下の足元には影が落ちていない。不安定な感覚のまま、ふたりはナオのもとへ向かう。
ナオは白い制服をまとい、資料室の前で誰かと立ち話をしていた。
「おい。レイどこやった」
シンが真っ直ぐに切り出すと、ナオは微笑んだ。
「レイくん? 図書室に案内してたけど、途中で体調を崩しちゃって……。だから保健室に連れて行ったよ」
「保健室? それからは?」
ナオは少し目を伏せ、肩をすくめた。
「ううん、それだけ。あとは知らないよ。…心配?」
ノノが言葉を飲んだままうなずく。ナオはくすりと笑い、扉の向こうに姿を消した。
「……誤魔化されたな」
シンは呟き、ノノと目を合わせる。
「行ってみよう、保健室」
保健室の扉を開けると、やわらかな薬草の匂いが鼻をくすぐった。中には白衣の養護教諭が、帳面に何かを書き込んでいる。
「すみません、レイって子が来ませんでしたか?」
ノノの問いに、養護教諭は穏やかに首を傾げた。
「記録にはないけど……」
そのとき、奥のカーテンが静かに開く。寝台に腰かけていたのは――カナメだった。
制服の上着を羽織ったまま、彼は煙草でもくわえるような無愛想さでふたりを見た。
「……なんだ、保健室の見学ツアーか?」
「レイが来たって話を聞いたんだけど、本当か?」
カナメは天井を見上げてから、あきれたように吐き捨てた。
「さあな。少なくとも俺は、そんな奴見てねぇよ。その日もここにいたけどな」
「じゃあ、ナオは――嘘を?」
ノノがシンに確認するように言うと、カナメは鼻で笑った。
「嘘っていうより……ご都合主義ってやつじゃねえの? あいつ、現実を都合よく編集するの得意だしな」
ノノが息をのむ。シンが一歩踏み込む。
「じゃあ、レイはどこにいる?」
カナメは視線を伏せ、少しだけ声を落とした。
「さあな……嫌になったんじゃねえか? こんな学校、宗教みてぇだしな」
部屋のどこかから、時計の針が一つ、静かに時を刻む音が響いた。
***
コツン、コツン――。チョークが黒板を叩く音だけが響いていた。
「朝の会、終わり。次は――食事の時間」
無感情な声で、タクミが読み上げる。
黒板にはびっしりと時間割が書かれていた。起床、歯磨き、朝の会、食事、自由時間――どれも異様に細かい時間指定。まるで時計仕掛けの人形が生活する場所のようだった。
タクミは持っていたハンカチで手を拭くと、レイの前にパンを差し出した。
「…悪いけど、食欲がない」
レイがそう言うと、タクミは申し訳なさそうに黒板をちらりと見た。
「……でも、スケジュールに書いてある」
「それって、絶対?」
「……そうしないと、次に進まないから」
タクミの声はどこか怯えていた。黒板に視線を戻し、項目と時刻をなぞるように確認する。その様子は、まるでそこに書かれたこと以外は「存在しない」かのようだった。
「…監禁してるやつから、出される食事なんて、食えるわけがない」
「……でも、順番通りに行わないと」
タクミの眉が困ったように下がる。
「お前が決めたのか?」
「違うよ。前から、こうだった。ぼくは、守るだけ」
タクミはそう言うと、自分の手帳に「× 食事 未遂」と書き込んだ。
レイは苦笑した。沈黙が落ちた。しばらくして、レイがぽつりとつぶやく。
「この学校、変なルールばっかりだな。誰が作った?」
「……わからない。最初から、あったんだ。考えたことも、ない」
レイは、タクミの中に染みついた“思考停止”のような感覚を感じ取る。そしてそのまま、ぽつりとつぶやいた。
「……変なルールでも、従うだけのが楽だよ」
その言葉には、深く染みついた諦念のようなものがあった。タクミの表情を、レイは見逃さなかった。
「……パンは、一時間後に食べる。スケジュールに書いておいてくれ」
タクミは黒板に記しながら、うなずく。
「さすがにトイレくらいは行かせてくれるだろ?」
「トイレは、見張りの入れ替わりの時、二人の時に連れていくことになってる」
レイはわかったと小さく答える。
「見張りの時間も長いんだ、食事以外も決めておいた方が楽だろ?パンを食べるまでの一時間はスケジュールを一緒に決めよう」
レイの言葉にタクミはうなずきながら聞く。
「パンを食べたら、俺は仮眠。お前は手帳で報告書でも書いとけ。そのあと起きたら、暇つぶしに思い出話でもするか」
タクミは眉を動かさず、ずっと黒板にチョークを走らせる。きっとタクミはひとりで何も決められない。決められたことには従順だ。そして決めてくれた人にも。
レイは、視線を落としていた自分の手首をそっとまくる。赤く、痣になりかけた跡が浮かび上がっていた。
「……お願いがあるんだけど」
タクミが顔を上げる。
「この手錠、少しだけでも……緩めてくれないか。少しでいい。もう、きつくて痛いんだ」
タクミの瞳が揺れる。
「ぼくは……勝手なこと、できない。ルールが……」
「少しぐらい、いいだろ。それに、俺は決められたスケジュールはちゃんと守る」
レイの言葉に、タクミは動揺を隠せない様子で、そっと手を伸ばす。もう少しで鍵に触れそうなそのときだった――
「……いいように乗せられてんじゃねぇよ」
乾いた声が、教室の奥から割って入った。ゆっくりと現れたのは、カナメだった。
制服の襟を崩し、片手をポケットに突っ込んだまま、彼はタクミを睨んでいた。
「お前は黙ってこっちの決めたスケジュール守ってりゃいい。勝手に緩めたら、お前がどうなるか、忘れたのか?」
タクミの手が止まり、レイの腕から離れる。レイはカナメに目を向ける。
「そこに書いてあるスケジュールだと見張りの交代には時間は早いが、お前、何者なんだ?」
カナメは肩をすくめる。
「ただの“現実を思い出させる係”さ。面倒な役だけどな」
レイがなにか言いかけたその瞬間、黒板の時刻が一つ先へと動いた。音もなく、しかし確かに、時間が「ずれた」。
――この空間が、ただの「夢」ではないことを、レイはようやく理解し始めていた。




